呪術のセカイ   作:猫山紅葉

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手を伸ばしても望みは手に入れられず、与えられるのはこの痛みだけ


第十六話 せめてもの

「雪平先生。今良いですか」

「……えぇ。良いですよ。場所を変えて準備室で話しましょうか」

 

 一週間後の水曜日。私はキャンバスを持って雪平先生の所へ向かう。勿論雪平先生に出された課題を提出する為だ。この七日間、寝ずに描いたからか眩暈がした。

 

 けれど、後悔はしていない。漸く、描けたのだ。私はこの絵に全身全霊で、本当の意味で命を賭けて描いたのだ。

 

 授業の合間に絵を描いて。学校が終わって絵を描いて。絵画教室が終わって絵を描いて。移動中の車でも絵を描いて。任務が終わって絵を描いて。晩御飯を高速で食べ終わって絵を描いて。描いて、描いて、描いて、描いて。

 

 確かに家に居た時よりかは描く時間は少なくなってしまったが、然しそれでも出来る限りペンを握る事を惜しまなかった。

 

 絵だけが、救いだ。

 

 この地獄とも言える世界で、たった一つ。それだけが救い。

 

 ──いや、そうでもないか。

 

「……へぇ」

 

 準備室に入り、私の絵を見た雪平先生は、一番にそう言った。いつもは余裕そうな顔は、少しの驚きを表に出していた。

 

 キャンバスには着物を着た女の子と男の子が手を繋いでいる絵が描かれていた。然しその男の子の顔は黒く塗りつぶされている。その周りには紙や筆や絵の具が二人を囲む様に描かれていた。

 

「これは……いえ、先に聞きましょう。これはどんな気持ちで描いたのですか? どう言う意図があるのですか?」

 

 雪平先生は、この絵に何か感じたようで、少し考えた末、私に問うた。

 

「……大切なものを、取り零したくなかったんです」

 

 私の言葉に、雪平先生は真っ直ぐと私を見つめる。きっと、雪平先生は真剣に聞いてくれるのだろう。私の大切なものを。私の、想いを。

 

 目を瞑る。思い出すのは、四日前のことだった。

 

 

 

 

「五条さん、今良い?」

「ん? どうしたの絵名」

 

 高専の待合室。私は其処のソファで横になっている五条さんに喋りかけた。

 

「少し、話があって。この後大丈夫?」

「平気だよ。次の任務までまだ一時間くらいあるからね。それで話って?」

 

 五条さんの了承を得て、私は五条さんの向かいになっている椅子に腰掛ける。五条さんもそれに倣うかの様に体勢を立て直し座る。それを見て、私は手に持っていたスケッチブックを握り締めた。

 

「忙しそうね。ちゃんと休めてる?」

「まぁ、僕は特級だからね。引っ張り凧よ」

「答えになっていない様な気がするけど」

 

 溜息をついて、五条さんの顔を見る。顔色はそうでもないが、けれど目を隠している包帯の所為で顔の半分は見えない。

 

 緊張で、落ち着かない。それは嘗て両親に進路の事で啖呵を切った時と似ていた。私はその質問を最後に口を閉ざしてしまう。どう言って良いのか分からないのだ。口を開こうとしても出てくるのは「あ……」や「えっと……」等の言葉にならない声達だった。

 

 そんな様子の可笑しい私を、五条さんは茶化す事なく待っていた。

 

 言わなきゃ。聞かなきゃ。でも、何を? どう言えば良いの? どう言えば五条さんに伝わる? 抑もこれは聞いて良いの? これを聞いて、五条さんは私にどう言えば良いの? 五条さんはそれを聞かれて困らないのだろうか。

 

 そんな考えが、ぐるぐると頭を巡る。聞くつもりで勇気を出して此処に来たのに、今になって迷ってしまう。最早考えすぎて気持ちが悪くなってきた。

 

 でも、言わなきゃ。何か。何でも良い。いや、なんでも良くない。けど何か言わなければ。この時間が無駄に進んでいく。五条さんも暇じゃないんだから。

 

 でも、何を。何を言えば。いや、言う事は分かっている。けれどその言葉が出てこない。

 

 どうすれば……どうすればどうすればどうすれば──。

 

「絵名」

 

 その言葉と共に、私の頬は誰かに掴まれ強制的に顔を横に向かせられた。目の前には、五条さんの顔が間近に近づいている。

 

 いつの間にか五条さんは私の隣に座っていた。

 

 気づかなかった。そう思う程に私はずっと長い事考え込んでいたのか。

 

「はい深呼吸。吸ってー吐いてー」

 

 突然の言葉に目を丸くするも、依然として五条さんが「吸ってー吐いてー」と言っている為、五条さんを真似て息を吸って、そして吐く。

 

 それを数回繰り返す。五条さんの思惑とは言わないまでも、少しずつ落ち着きを取り戻してきた。

 

「落ち着いた?」

「うん。ごめんね。迷惑かけて」

「別に。迷惑とは思ってないよ。まぁ、絵名が過呼吸気味だったのは驚いたけど。何? 僕に告白でもするつもり?」

「はぁ? 何でそうなるわけ? 全然違うから。自意識過剰なんじゃないの? 本当馬鹿みたい」

「なんか言葉酷くない?」

 

 五条さんの言葉に、私は外方を向く。まぁ、口では言っているが、本当は五条さんが私の為に茶化して言ってくれているだけだと分かっていた。

 

「五条さん」

「うん? 何?」

「ありがとう」

 

 小さい声だった。私は五条さんの顔を見ずにそう言った。

 

「……いいよ」

 

 そう言って五条さんはまた向かいのソファに座った。

 

 そうだ。落ち着け。これじゃ本題に入るどころではないぞ。

 

 息を吐く。この息は覚悟か、それとも他の何かか。私は今度こそ真っ直ぐと五条さんを見つめ、口を開いた。

 

「五条さんは、昔の私の事を知ってる?」

 

 沈黙が流れる。五条さんの顔は、逆光で見えなかった。然し表情は、何となくわかる。

 

「──何で、そう思ったの?」

 

 低く、けれども優しい声だった。

 

「考えたの。昔の事。私の生い立ち。そしたら、小さい時の記憶が、思い出せないの。正確に言えば、五歳以前の記憶」

 

 努力はしたのだ。自分の部屋をひっくり返すが如く隅から隅まで手掛かりを探した。然し得られるものは押入れにある段ボールの中だけだった。

 

「思い出せないの。其処だけぽっかり穴が空いた様に真っ黒。五歳からの記憶は想起出来るのに、どうしても五歳以前の記憶がない」

 

 幼児期健忘──なんてものじゃない。五歳の事を思い出そうとすると、まるでノイズが走ったように映像が乱れ、頭が痛くなる。ズキンズキンと、波打つように。

 

「ただ思い出せるのは私に手を伸ばしている誰か。真っ暗な中に、着物を着た男の子がこっちを見て手を伸ばしてる。それだけが、救いに思えたの」

 

 自分の右手を見る。その手を、この手で握った事はない。握ろうとして手を伸ばしてもその手は泡沫となって消えていく。触れたい。握りたい。然しそう思う度に酷く頭痛がするのだ。

 

「思い出さなきゃいけない様な気がする。なのに何も思い出せないの。何も……」

 

 ズキンと、頭が痛くなる。

 

 また、この痛み。思い出そうとすると襲ってくるこの痛みはどうしようもないくらいに耐え難い。

 

 けれど、駄目だ。ここで話すのを辞めたらきっと二度と手掛かりが掴めない。そう直感していた。

 

「五条さんなら──押入れの事を知っていた五条さんなら、何か知っているのかと思って。知ってたら教えて欲しい。私の事。お願いします」

 

 そう言って私は頭を下げる。

 

 手掛かりは一つしかない。それを手に入れる為には何だってする。

 

 別に思い出せないならそれでも良い。そう思っていたのだが、然しあのダンボールの中を見てしまっては、そうはいかない。思い出さないといけない。そう思ったのだ。そうしないと、いけない気がする。どうしても思い出さなければいけない。

 

 あの男の子の正体を。夢に出て来た男の人と女の人の三人も。

 

 そうすれば、自分が何者か分かる様な気がする。

 

 行方不明な自分を、見つけられるかもしれない。

 

「──そうだねぇ」

 

 そう言って五条さんはまるで芥川龍之介の様に顎を摩る。

 

「確かに絵名の言うとおり僕は昔の絵名を知っている。ただ話せる事と言えば少ししかないよ」

 

 顎にやった手を、今度は後頭部に持って来てガシガシと掻く。少し怠そうに。何でそんな態度なんだと文句を言いたかったが、然し此方はお願いしている立場だ。そんな事は言えない。

 

「抑も僕も疑問なんだよ。何で絵名が思い出せないか。僕の顔は一度会ったら忘れないと思うんだけどなぁ」

 

 顔は見えないだろうと言う言葉を飲み込んだ。まぁ、確かにこんな人は絶対に会ったら忘れないだろう。

 

「うーん」と言いながら五条さんは首を捻る。その大きな巨体は意外にも大きく柔らかく曲がった。

 

 そして考え終わったと思ったら、五条さんは背凭れに深く腰掛ける。

 

「でもまぁぶっちゃけ、昔の絵名と変わんないよ。感情に素直で、曲った事が大嫌いな女の子。泣かせた男は数知れず。傍若無人と言えば東雲絵名──」

「ふざけるんだったら別の人を当たろうかな」

「あーごめんごめん。ま、ちょっとくらい良いじゃん?」

 

 遂に我慢が出来ず、そう言ってしまった。この人は一つ喋る度に巫山戯ないと息が出来ないのだろうか。

 

 溜息を吐きたくなって外方を向く。出会った当初はそうは思わなかったが、然し接していくうちに彼の本性が分かってきた。いや、彼自身演じているつもりはなく、最初から最後まで本性だったのだろう。それを私が気づけなかっただけだ。

 

 然し、そう自覚しても呆れるものは呆れる。伊地知さんの反応も、頷けた。

 

「絵名は昔から、絵好きだったもんね」

「え? そうなの?」

「そうだよ。何処に行っても何をしてもスケッチブックや自由帳を片手に絵を描いてたもん」

「そっか……」

 

 ホッと息を吐いて、呟く。

 

 そうか。私は昔から絵が好きだったのか。

 

 そう思うと、安心する。矢張り絵は私の全てだった。

 

 絵が無くては生きていけない。鉛を紙に押し当て、線を引く。線を引く度に、私の生命が生きていく感じがする。

 

 私の人生と言っても過言ではない。

 

 では、何故だろうか。

 

 大切で、大事なら、どうして忘れているのだろうか。どうして、思い出そうとすると酷い頭痛に襲われるのだろうか。まるで思い出すなと言っている様な、そんな感覚。思い出してはいけないとでも言うのだろうか。

 

 ……まさかね。

 

「でも、変わった部分もあるね」

「え? どう言う所?」

 

 身を乗り出して、聞いてみた。昔の私がどうか知らない為聞いても意味はないのだが。然し気になりはする。

 

 外方を向いていた五条さんが、ゆっくりと私を見る。逆光で、顔は見え辛かった。その顔がどんな感情を孕んでいるか、私には分からない。

 

「……内緒」

 

 そう言って、笑った。

 

 ──ほんっとにお前は絵が好きだな。

 

 ズキン。

 

 今迄感じた事のない痛みが頭を襲う。

 

 ズキン、ズキンと。あまりの痛さに頭を押さえて蹲る。心配する五条さんの声も、今の私には聞こえない。

 

 ノイズが走る。

 

 

 じゃあ、テス──ましょうよ。勝った────事で。

 

 

 愛莉の声に、ノイズが走る。顔にも、モヤが掛かっていて何も見えない。

 

 それだけじゃない。今の今迄の記憶に全てノイズが掛かっており、段々とノイズが大きくなっていく。

 

 まるで忘れていく様に。

 

 失くしていく様に。

 

 嫌だ。忘れたくない。これも、どれも、私にとって大切な記憶だ。

 

 そう思っても、ノイズは大きくなり、私の耳に砂嵐の音が煩い程響いている。耳を塞いでも当然ながら音は止んでくれない。

 

 煩い。嫌だ。忘れたくない。煩わしい。

 

 もう、これ以上──。

 

「これ以上、私の記憶を取らないで!」

 

 私の声が部屋に反響する。気付けは私は立っており、五条さんはそんな私を無言で見ていた。

 

「……ごめん。びっくりさせて」

「別に構わないよ。怖かったね」

 

 そう言って五条さんは私の頭を撫でる。その手があまりに優しく、泣きたくなった。

 

 何で、忘れてしまったのだろう。こんな優しい、暖かい手を。

 

 五条さんの手が頭から離れる。然しその手の温もりは五条さんが手を離したと同時にゆっくりと消えていく。その感覚が、今まさに消えていく記憶が、恐ろしくて堪らない。

 

「五条さん」

 

 声は、震えていた。私は五条さんの隣に行き、其の儘抱きついた。五条さんの大きな体は腕を完全的に回せはしなかった。

 

「分かるの。あの記憶は、私の忘れてしまった記憶は、私にとってとても大事なものだって。だから、無くしたくない。思い出したい。もうこれ以上、忘れたくない」

「……そっか」

 

 そう言って、五条さんは私の体に手を回す。大きな体に包まれている温もりは、どこか安心した。

 

 けれどそんな記憶も、泡沫となって消え失せるのだろう。

 

 

 

 

「私の中に辛うじて残っている大切なものを、描きました。私の絵を素敵だと言ってくれた人。私に生き方を教えてくれた人。私の味方でいてくれた人。私を、見つけてくれた人。その人たちの事を思い出す事は難しいけれど、せめて、この記憶だけは無くさない様に、零さない様に、抱えて生きていきたいそう思ったんです」

 

 目を開ける。今思い出しても過去の事は何一つ思い出す事は出来ない。どうする事も出来ないのならそれを抱えて生きていこう──なんて、そんな生き方、私には出来ない。少なくとも、今の私には無理だ。

 

 だったら、絵にしよう。

 

 全てを絵にして、それで忘れない様に抱きしめるんだ。もう二度と大切なものを失わないように。

 

 それくらいは、許されて良い筈だ。

 

 許されて、欲しい。

 

「それが、東雲さんが出した答えですか?」

「はい。私の大切なものは、絵と──この僅かな暖かい記憶なんです」

「……そうですか」と呟き、雪平先生はスケッチブックに目を落とす。その目は、目の前の絵ではなく、何処か遠くを見ていた。

 

 何を、思い出しているのだろうか。

 

 何を、想っているのだろうか。

 

「……良い絵、とは言えません。構図も破綻しています。色合いも背景と同化していて非常に見難いです。此処の線も歪んでいます」

 

 突然の指摘に、私は音を立てて体勢を崩した。

 

 ……分かってはいたが、然し突然に刺されるとこちらとしても困惑してしまう。

 

「けれど、心が動かされる絵ではあります」

 

 その声には、微小の優しさが含まれていた。

 

 雪平先生が誰かを褒める事なんて滅多にない。私のあまりの出来なさに同情して──で加点をする人でもない。

 

 私が目を見開いて雪平先生を見ていると、雪平先生は顔をあげて私を見た。

 

「大切な思い出。思い出せると良いですね」

「そう、ですね」

 

 何故雪平先生があんな課題を出したのかわからなかった。今でも理解出来た訳ではない。けれど課題を出されて良かったなと、迷いながらも向き合った私の絵を見ながら、心から思う。

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