呪術のセカイ   作:猫山紅葉

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その毒は、じわじわと蝕んでいく


えななん誕生日おめでとう!最後は番外編です。


第十七話 痛みと孤独

 体が宙を舞い、心臓が浮く感覚が私を襲った。しまったと思う暇も無く、私の体は強く地面に叩きつけられた。

 

「カ……ヒュ……」

 

 息が上手く吸えない。目の前も点滅するように光が眩く私の瞳孔を刺激した。

 

 立ち上がろうと身を起こすも、然し上から押さえ込まれ私の体は再び地面と接触する。

 

「ふん。弱いのう。本当に弱い。これで東雲家を名乗るつもりか。本当に情けない」

 

 そう言いながら私の体を繰り返し踏み付けるのは、東雲家当主である東雲八郎であった。

 

 と言うか、私の祖父だった。

 

 身を起こそうとしても祖父の足が私を押さえつける。激痛が、身体中を襲った。口の中に砂が入り、目の前が点滅する。生理的な涙が地面を濡らしていく。

 

「なんだ。泣いているのか」

 

 そう言って足を離したと思ったら、私の髪を徐に掴み、持ち上げる。祖父の顔が目の前にやってくる。痛みに顔を歪めながら私も負けじと祖父を睨みつけた。それが祖父は気に食わないらしく、乱暴に私を地面へ叩きつけた。

 

 祖父のそれは、今に始まった事じゃない。祖父は度々私に稽古をつけると言ってこんな風に私を投げ飛ばすのだ。しかもそれは呪術の訓練などではなく、体術の、である。

 

 然しそれは教えると言っても体で覚えろというもので、私は特に祖父から何かを学んだ事はなかった。

 

「ほら、立て。まだ終わっていないぞ」

 

 そう言いながら勢いよく私を投げ飛ばした。全身に激痛が走り、口から液體が飛び出た。此の儘では朝に食べたご飯が全て出てしまう。

 

 私が地面に這いつくばっていると、屋敷の方から視線を感じた。使用人だろうか。視線と共に何やらヒソヒソと声が聞こえる。

 

「あぁ、可哀想に。絵名様また八つ当たりをされて……」

「仕方がないわよだって東雲家相伝の術式を全て持ってっちゃってんだから」

「最初は良かったんだけどね。絵名様があまりにもそれを使いこなすものだから御当主様も気に食わないみたいよ」

「自分でこの家に呼び戻したのに、酷いわよね」

「酷い。あぁ酷いわ」と言いながら、使用人達は何処かへと消えていった。

 

 薄らと分かっていた。祖父が、私を嫌っている事を。最初こそは良くしてくれていたが、私が任務を熟していくうちに段々とその嫌悪感を露わにしていった。それが何を意味しているのかわからない程、私は馬鹿ではなかった。

 

 ここ数ヶ月で分かった事だが、呪術師は、所謂〝男尊女卑〟が蔓延っているらしい。呪術師に生まれたら御の字。女というだけで人間扱いをされたいところもある。私が偶々術式を持って産まれてきたから良かったものの、もし私が非術師であったなら、もっと酷いことになっていたのだろう。

 

 それこそ、殺されていたかもしれない。

 

「何をぼさっとしているんだ。早く立て。この間抜けが」

 

 そう言って、祖父は私の腹を蹴り上げる。今度こそお腹のものが出そうになるが、然しそれをグッと堪えた。祖父に一発お見舞いしたいところだが、然し勝てるイメージが一向に湧かない。どう攻撃しても反撃されるビジョンしか思い浮かばなかった。

 

 辛うじて残っている気力で祖父を恨めがましく睨みつける。それが癪に障ったのか祖父は大きく舌打ちをした。

 

「生意気な餓鬼め」

 

 出会った頃とはまるで違う、敵意剥き出しの顔。どうやら私は祖父の期待には応えられていなかったようだ。

 

 然し、少しおかしい。昨日は今日より機嫌は良かったはずだ。少なくとも、こんな八つ当たりをする事はなかった。

 

 気分の問題と言われればそれまでなのだが。

 

 それから、この一方的な暴力は五時間程続いた。祖父はやり返してこいと言ったが、然し反撃の余地などなく私の体に拳や足をぶつけた。やられっぱなしは私らしくないのだが、然し彼の殺気には逆らう事ができなかった。

 

 体の芯から、恐怖が湧き上がってくる。正直に言って先程睨みつけた時も行きた心地はしなかった。

 

「いった……」

 

 そう言いながら、私は身を起こす。祖父の足音が遠退いて行くのを感じながら。地面を見ると、赤い液體が地を濡らしていた。今も変わらず、地面を濡らしていく。どうやら怪我をしてしまった様だ。まぁ当然か。あれだけの攻撃を受けていたら。

 

 空はもう、暮れていた。夏だから暗くなる事はないが、然し橙色が雲を所々纏いながら広がっている。それと同時に烏の鳴く声が辺りに響いた。

 

「……烏がないたら帰ろう……か」

 

 ポツリと呟く。確か童謡にそんな歌があったはずだ。彰人と一緒に帰りながら歌ったのを覚えている。小学校五年生の時だった筈。

 

 私の帰る場所は、どこだろうか。

 

 元の家には帰れない。かといって屋敷を家にはしたくなかった。こんな地獄の中。其処が私の居場所だとしたら、きっと私はこの世の何処にも、居場所なんてありはしないのだろう。

 

 烏が降りてきて、私の目の前に止まる。烏の目と、私の目が交差した。真っ黒い目に、私の姿が反射した。それがなんとも憎らしくて、手で烏を追い払う。

 

「もう、どっか行ってよ」

 

 然しいくら追い払おうと、翼をバサバサと動かしながら、私の周りを飛び続けている。その目は、何処か見下している様にも見えてしまった。烏としても其処迄考えて私の周りを飛んでいるわけでもあるまいに。烏からしたらこの先入観、偏見は傍迷惑この上ないだろう。

 

 数分に亘る攻防戦に諦めを示し、私は起こした体をまた倒した。どうもさっきから頭がくらくらしているのだ。まるで遊園地にあるコーヒーカップを激しく回した後の様な気持ち悪さがあった。まぁ、言うて私はコーヒーカップにあまり乗った事はないのだが。少し寝れば治るのだろうか。

 

 夕方の冷たい風を感じながら、目を瞑る。

 

 あぁ、もしかしたらまた眠ってしまったらまたあの夢を見るのか。あれから何の進展もない繰り返し流されるあの光景。何か新しい情報が手に入れば良いのだが、その期待も虚しく、私の夢は同じ光景を見ていたのだ。

 

「あ……そうだった」

 

 思い出し、目を開ける。今は五時を過ぎた辺りだろう。そういえば今日は、家入さんの所へ定期検診を受ける日だった。

 

 起き上がらないといけない。然し私は指の先一つ動かす事なく、寝そべった儘だった。烏は、そんな私の姿をじっと見ていたのだった。

 

 

 

 

「あれ、可笑しいな。私は定期検診をする筈だったんだけど、いつ治療の時間に変わったんだ?」

「……返す言葉もございません」

 

 約束の時間を大幅に過ぎ、私は呪術高専の医務室へやってきた。扉を開けた先に居たのは椅子に足を組みながら座っている不機嫌そうな家入さんであった。確かに遅れたのは悪かったが、然し言い訳はさせてほしい。そもそもあんな怪我で直ぐに動けるわけがないだろう。動ける人間が居るとすれば、そいつは最早生物ではないだろう。

 

 私は扉を開けた儘の状態で固まっている。ご丁寧に家入さんの前には椅子が設けられているが、然しこの氷点下以上に冷たい空気の中、堂々と座るなんてできっこなかった。

 

 私がビクビクと出入り口で立っていると、家入さんはため息をついて私をこ招いた。

 

「まったく……手当してやるからこっち来な」

「えぇ! でもそんな迷惑をかける訳には……」

「何? この場(医務室)で私に逆らうつもり?」

「……黙って座ります」

 

 今この場で家入さんに逆らえる筈もなく、私は観念したように家入さんの目の前に座った。それを見てから、家入さんは私に手を翳す。すると家入さんの手から青い炎の様なものが灯る。

 

 この光景は、前にも見た。家入さんと初めて会ったあの日。初めてそれを見た時、目を見張る程の衝撃を受けたのを覚えている。それを真似しようとして呪力を暴発させてしまったのも苦い思い出である。

 

「記憶の方はどうだ?」

「まだ全然……同じ様な夢が繰り返し流れるだけで、それからの進展は全くと言って良いくらい……」

「そうか。まぁ、ゆっくりで良いよ。今すぐに思い出せなければ死ぬと言う訳でもないだろ」

「そう、ですね」

 

 私はあれから家入さんに記憶の事で診て貰って居た。と言うのも五条さんが私の為に間を取り持ってくれたのだ。記憶障害なら医師である家入さんに診て貰った方が良いと、そう言っていた。申し訳なさで断ろうとしたのだが、然し思い出したいという気持ちは本物なので、少しでも可能性があると感じてしまったら上手く言葉が出てこなかった。

 

 結果私はこうして家入さんの世話になっている形なのだが、あれからと言うもの、進展があったかと言われればそれは否である。同じ風景をただ淡々と脳内に流れるだけで新しい記憶など出てこなかった。あるのは記憶と辿る度に襲う酷い頭痛だけ。何か少しでも思い出せれば良いのだが、然しその努力も虚しく何の成果もあげられないでいた。

 

「あ、でも、一つ困った事があったなぁ」

 

 音にもならない小声だったと思う。然し家入さんはその言葉に反応した。

 

「何? 何が困ったって?」

「いや、こんな事言って良いものか……私自身の事情だし、家入さんに言って迷惑を──」

「あんた、記憶を取り戻したいんだろ? 何でも良いから話してごらん?」

 

 家入さんの言葉に、図星を突かされる。確かに記憶を取り戻したいなら手段を選んでなんていられない。

 

 視線を泳がせながら、言葉を選ぶ。どう言って良いのかわからないのだ。詳しく、けれど端的に説明するには、どんな言葉選びが最適なのだろう。

 

「えっと……その、今でも忘れる……というか、なんて言ったら良いかな。今でも思い出せない事が増えて言ってるの。あ、えっと、私の記憶力が悪いだけかもしれないんだけど」

 

 そう、私はいつしかどんどん過去の事を忘れる様になってしまったのだ。それこそ、両親といざこざがあった事は覚えているが、然しどんな話をしていたのか、もう覚えていない。五条さんとの初対面の事も、まっさらだ。その事も思い出そうとすると矢張り頭痛がする。

 

 私にとって大切な記憶の筈なのに、忘れていく。それがどうしても恐ろしかった。

 

「それは、いつ頃から始まったんだ?」

「いつ……なんて、知らないわよ。気づいたら思い出せなくなっていたし、そもそも何をどう思い出せば良いかもわからないのに」

 

 私の言葉に、家入さんは「ふむ」と呟き考える。

 

 いつと言われても、本当に覚えていない。気付いたのは五条さんに伝えた後であった。愛莉や彰人との思い出もノイズが走って思い出せない。それがどうしてなのか、考えても考えても分からない。そもそもこの記憶すら本当なのか、そこら辺も曖昧である。もしかしたら全て私の妄想などではないか。そんな筈ないのに、そんな世迷言を考えては絶望している。

 

「ねぇ、家入さん」

「何だい?」

「私って、本当に此処に居るのかな?」

 家入さんはそんな言葉に目を丸くする。私はそんな家入さんの顔を真っ直ぐと見る事は出来なかった。

「あのね、時々不安になるの。こんな消えていく記憶の中、どれか本物か分からずただ歩んだ道が音もなく崩壊していって。もしかしたら全て私の夢で、今まで私が出会った人も、感じた事も、私自身だっていつかはこの記憶の様に全て崩れ去ってしまうんじゃないかって。そんな事、今目の前に居る家入さんや五条さん、それに伊地知さんの事も否定してしまっているってわかってる。わかってるけど、怖いの」

 

 そう言って己の身を抱きしめる様に蹲った。

 

 目の前のこの状況も、いつかは忘れてしまうのか。そう思うと体の芯から恐ろしくなる。今はまだ数ヶ月前の記憶だが、いつか数週間、数日、数時間と忘れる間隔が狭まっていくのだろう。

 

 五条さんに話して、落ち着いたと思っていた。然しどうやらそれは一時的な療法でしかなく、まだ私の心にシコリを残してしまっていたらしい。

 

「絵名」

 

 私がぐるぐると考えていると、家入さんは己の額と私の額とを合わせた。家入さんの整った顔が間近に迫り、思わず身を逸らす。然し家入さんの両手が私の顔を固定して動けなかった。

 

「大丈夫」

 

 その声は驚く程に優しかった。

 

 私は驚いて目線だけを動かし家入さんを見る。

 

「あんたはちゃんと此処に居る。鼓動も動いてる。息もしてる。こうやって触れられる。私と話せてる。これでどう此処に居ないって言うんだ? 私はあんたをちゃんと感じてる。それで良い──とは、簡単に言えない。けど、どれでもあんたは此処にちゃんと存在してる。それだけ分かって欲しい」

 

 ──何処かで、聞いた事がある。誰だっけ。私に優しくしてくれた、煙草が好きな、あの人。

 

 デジャブにも似た感覚に、私の心は染み入る。泣きたくなった。

 

 誰だ。何だ。思い出せ。これは絶対に、思い出さなければいけない。

 

──絵名。

 

「────う!?」

 

 ズキンと、頭に頭痛が走る。今迄感じた事がない痛み。私は耐えられず椅子を倒しながら地面に倒れ込む。

 

 痛い。

 

 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。

 

 家入さんが何か叫んでいる。然しそれを理解する事は出来なかった。

 

 視界がぼやける。家入さんの表情も薄れて理解をする事が不可能になってしまった。

 

 それが意識がなくなると言うことに気づくのは、起き上がった後であった。

 

 

 

 無機質な医務室。其処のベットで寝ている絵名を、家入は見下ろしていた。その顔は何処か悲しげであった。絵名は眠っている間にも眉間に皺を寄せて息を荒くしていた。呻き声も口の端から漏れ出ている。

 

 絵名が倒れたのは数時間前。彼女は未だ一向に目を覚ます気配はなかった。その間にも呪術師の患者は次々と運ばれて来たのだが、然しその騒々しい中でも絵名はずっと眠り続けている。そのあまりの長い時間に、家入は少しの焦りを覚えていた。

 

 自分が話してしまったから、絵名は倒れた。そんな責任を、家入は感じてしまっていた。

 

 家入が憂いを帯びながら絵名を見ていると、突然に医務室の扉が開いた。見て見ると其処には包帯で目隠しをした長身の男が立っていたのだった。

 

「……五条」

「や。絵名が倒れたって聞いてね。心配で見にきたのさ」

「心配? 見物の間違いじゃないのか? お前が誰かを心配するなんて想像できないね」

 

 そう言って家入はぶっきらぼうに外方を向く。その姿に五条は「酷いなぁ」と笑った。

 

「僕だって心配くらいするさ。特に、絵名に関してはね」

 

 五条はそう言って絵名の寝ている側に腰掛けた。汗で額にへばりついている絵名の髪を払う五条の手は、とても優しいものであった。家入はそれを見てため息をつきながらまた外方を向いた。

 

 家入と五条は、絵名の事を知っている。昔の、幼少の頃の絵名をだ。然しそれを絵名に直接伝える事はなかった。五条は言ってしまったが、あれは絵名が直球で聞いて来た為仕方なく知っていると言っただけであった。絵名に聞かれなければ一生伝える事もなかっただろう。

 

 絵名が過去を知れば、()()()()も知る事になる。それは良い事なのか二人には分からなかった。

 

「そう言えば、少し困った事があってね」

「何が?」

「反転術式が効かなかった」

「何だって?」

 

 五条の声が、今迄に無い程真剣なものだった。家入は自分の手と絵名を交互に見つめた。絵名の体には沢山の包帯が巻かれている。一部では止血もままならず血で滲んでいる所もあった。

 

「何でだろう。直そうと思って反転術式をするんだけど、どうしてもうまくいかないんだ。何かに弾かれたようにすぐ消えてしまう」

 

 もしかして自分が使えなくなったのではないか。そう思ったのだが、然し此処に運ばれてくる術師を反転術式で治癒しようとしてそれは出来ている。十人やってきて、その十人が反転術式で完治しているのだ。となれば原因は絵名の方にある。

 

「前は普通に出来ていたんだ。それが突然。謎だ」

「……そうか。それはこっちでも調べておくよ。硝子も気付いた事があれば逐一報告してほしい」

「それは構わないけど、五条、あんたは大丈夫なのか?」

「大丈夫って?」

「最近多忙だろう。いや、最近と言わずずっとだけど。こんな気を負って、体調でも崩すよ」

「え? 何? 心配してくれてる? 硝子やっさしー」

「私の仕事が増えるからな」

「あ、そっちね」

 

「酷いよぉ」と言って泣き真似をする五条を、冷たい目で見る家入。酷いなんて思っていない事は長い付き合いで分かっていた。彼にとってどんな言葉も小鳥の囀り程度にしか聞こえないのだろう。

 

 それ程までに、五条と家入は違った。一番近くに居るのに、一番遠くに居る感覚だった。

 

 五条は最強だ。家入は天才だ。然し最強を天才の間には大きな隔たりが確実に存在していた。

 

「まぁ、良いんじゃない? 今迄僕たちは絵名達に何も出来なかったんだから」

「……そっか」

 

 思い出すは九年前。決定的な事件が起こったあの日。あれがあって確実に二人と絵名は道を違えた。けれどこうやって此処に集結をしてしまっている。それが良いことなのか、家入には分からなかった。

 

「ねぇ、五条。このままで良いのかな?」

「ん? 何が?」

「絵名の事だよ。この子、記憶を取り戻したいって毎日奮闘してるけど、もし記憶を取り戻したらきっと──」

「それは僕たちが決める事じゃないさ。絵名次第、だよ」

 

 五条の言葉に、家入は顔を上げる。隠された目では表情を窺う事は出来ない。然し今の五条の感情を理解する事など、家入には容易かった。

 

 複雑なのだ。思い出す事で、もし絵名の心が壊れてしまったら? それこそ、取り返しのつかない事になってしまったら。絵名の過去はそう簡単に易々と語れるものではない。下手したら呪術界の根源に関わる事でもあるのだ。それを知って絵名の心が保たれるかと言われればそれは否である。

 

 今の絵名は、あまりにも危うい。それこそ、細い縮れた糸の上を歩いているような、触れたら壊れてしまいそうな程に脆い。己では自覚できていなさそうだが、周りから見ればその憔悴の仕方は明らかであった。

 

「絵名がどんな選択をしようと、僕たちは見守るしかないのさ。本来、僕たちは絵名に口を出せる立場にはないんだ」

 

 そう言って五条は額に手を当てる。それを見て、家入は再度深いため息をついた。あの最強な五条が匙を投げる程、絵名の問題は複雑化していた。

 

 これは、絵名だけの問題じゃない。一歩間違えれば、呪術界の全てがひっくり返る。絵名の家族や、その周りにも被害とまでは言わないまでも何かしらの影響が必ず出る。それを二人は分かっていた。

 

 どうしようもない。ままならない。

 

「でも、絵名がどう選択しようが、きっと絵名は呪術師の道を辿るんだろうね」

 

 五条の言葉に家入は目を伏せる。その行為は肯定か、否定か。然しただ一つ分かることは、決して絵名の望んだ未来に辿り着くことは無いと言う事だけだった。

 

 

 

 静かになった医務室で目を覚ます。いや、もうとっくの昔に覚めていた。ただ二人の会話に入るのが嫌で、怖くて、ずっと寝たふりをしていたのだ。

 

 身を起こす。いつの間にか頭の痛みは随分と引いていた。けれど胸元の痛みはズクンズクンも未だに波を打っている。五条さんの言葉が頭から離れない。

 

『絵名がどう選択しようが、きっと絵名は呪術師の道を辿るんだろうね』

 

 目の前が滲む。

 

 信用仕切っていた訳ではない。けれど心の何処かで彼らは自分の味方だと思っていた節がある。彼らは私の道を肯定してくれている。そう、思っていた。

 

 然し現実はそうではなかった。

 

 結局彼らも、周りの皆んなと同じであった。私が画家になると言う夢は誰からも望まれてなんていなかった。

 

「馬鹿に……しやがって……」

 

 溢れた言葉は悲観でも哀愁でもない。ただ悔しさと苛立ち。膝を抱えてそのまま蹲った。孤独感が、一気に押し寄せてくる。然しそれを慰めてくれる人間は、今この場にはいなかった。

 

 

 


 

 私は、水の中に居る。

 

 今目覺めたやうな。厭、ずっと昔に目覺めてゐた。それを自覺したのが最近なだけであった。

 

 此處は何處だらう。

 

 水面から、何やら音が聴こゑてゐる。此れは、雨音だらうか。

 

 水の中は生暖かい。とても穏やかだ。

 

 啼き声が聴こえる。誰の啼き声だ?

 

 母だ。私の母が哭いてゐるのだ。

 

 可哀想な母さん。哀れな母さん。愚かな母さん。気持ち悪い母さん。

 

 私が全部背負ってあげる。私が貴女の全てを貰ってあげる。

 

 目を開ける。私が産まれて初めて見たのは、母の啼いた姿であった。

 

 なんと可哀想に。私が全て奪ってあげるから。

 

 私が貴女として、生きてあげる。




番外編 他が為の日


 四月三十日。水曜日。天気、晴れ。風は吹いておらず石段にあたる日光の照り返しが鬱陶しいくらいにギラギラしていた。まだ春だと言うのにこの暑さはなんだ。今の季節でこんな暑さだったら七月八月は灼熱地獄になるのではないか。

 そう思いながら部屋から窓を見ていた。私の部屋は二階の端。窓の外からは玄関から門に続く道がよく見える。庭には沢山の人が行き来していた。皆着物やらスーツやらを着てそれぞれ喋っていた。けれど共通するものは皆手に何かしらの贈り物を持っている事だった。綺麗にラッピングされたプレゼント。私はそれを見て、人知れずため息をつく。

 何が楽しくて知りもしない赤の他人の誕生日を祝えるものだ。

 部屋の中にノックの音が響き渡る。私が返事をする前に扉の向こうから年老いた女性の声が聞こえた。

「絵名様。そろそろ下に降りましょう」
「……分かった。今行く」

 そう言って、着物で重い身体を起こす。慣れない着物姿。私はよろけながら扉の方に向かった。

 四月三十日。その日は私の誕生日だった。彼らは私の誕生日を祝う為に遠方から遥々やってきたと言う訳だ。その所為で私はこんな重たく苦しい着物を着なければいけなくなった。確かに化粧をして綺麗に仕立ててもらったのは少し嬉しいが、然し身支度をして暫くして、屋敷内の空気で分かってしまった。これは私の誕生日会とは名ばかりのビジネスの場だと言うことに。

 私の誕生日を祝うとは建前で、皆本心では祖父に媚を売ってより多くの利益を産むこと。

 本当に腹が立つ。何故こうも私はビジネスの場で利用されなければいけないのか。

 とは言っても、それを反抗出来る術を私は持ち合わせていないのだが。

 溜息を吐きながら部屋を出る。廊下には姿勢正しく女中のお婆さんが立っていた。私は何も言わず先を歩き、女中もその後ろを歩く。この空気は屋敷に来て数十日。一向に慣れる気配がない。

 暫く歩き、とある障子の前に立つ。本来なら自分で開ける所だが、然し私はじっと待つ。さっさと開けたい欲を我慢して、じっと待つ。

 女中は下へ座り込み、障子を開けた。私は開けてくれた女中に兄も言わず中へ入った。

 ……いや、誤解されそうだから言っておくけれど、決して私は〝して貰って当たり前〟などそんな事を思っているわけではない。叶うなら私だって全身全霊で使用人達を労いたい。けれどそれが許されないのが東雲家だった。

 東雲家の人間であるなら、他に遜ってはならない。そう口酸っぱく祖父に教えられたのだ。私が何か手伝おうとしても制止され、酷い時には祖父の持っている杖で殴られもした。それもあって私は使用人達に何も言えなくなってしまったのだ。

 床の間に設置されている座布団。女中に促され其処に座る。部屋の中は意外と簡素であり女中が出ていってしまえばシンっとした空気が流れた。それはまるで嵐の前の静けさの様だった。





「……疲れたぁ」

 遊歩道を歩きながら、溜息をついた。空はもう真っ暗で月が周りを照らしていた。座りっぱなしで腰や足が痛い。

 あれから変わる変わる人がやってきて吐き気の様なお世辞を言いながら贈り物を置いて帰った。それが一日に数十人。いや、数百人だっただろうか。兎に角沢山の人が次々にやっては帰って行った。それから私が広報されたのは朝の九時から十三時間後。今は夜の十時である。大人達はまだ屋敷で酒を飲み交わしているのだろう。本当に、私の誕生日とは名ばかりの大人の馬鹿騒ぎの場だった。あの沢山の贈り物も、私の身には余る。

 水仙の花畑を眺めながら再度溜息を付く。暫く此処で休ませてもらおう。戻るのは……三十分経ったくらいで良いだろう。どうせ彼らは私の存在を忘れている。

 柵に体重を預けながらぼうっと眺める。この水仙は見てると何処か安心する。これはなんだろうか。

 懐かしさ?

 何かが落ちる音がした。下を見ると何やら紙が私の足元に落ちているではないか。

「何これ」

 着物を汚さぬ様にしゃがんでその紙を拾う。少しの怪しさ。警戒をしながら紙を表にやる。何かの呪いかと思ったが、然し呪力や敵意の感じは全くしない。それどころか何か愛しさの様なものを感じる。

 描かれていたのは、人であった。まるで幼児が描いた様なそんな絵。茶髪の女の子と、ベージュの紙をした男の子が手を繋いでいる。

 これは見たことがあった。私の部屋にあったスケッチブックに描かれていたものと似ている。

 似ているだけ。構図や色の塗り方など細かい所は当然の様に違う。きっと今さっき描かれたものだろう。色鉛筆の匂いが新鮮に漂ってくる。けれども根本的な所は同じだった。影の付け方。線の引き方。所々同じである。同じ人間が書いたのだろうか。然し、そうだとしたら何の為にこんなものを書いたのだろうか。それではまるで私と描かれている少年が知り合いと言うことになる。

『いぬまきとげ』

 ズキンと頭が痛くなる。まさか、本当に?

 分からない。この絵ももしかしたら何かの悪戯なのかも知れない。

 けれどこの絵を捨てる事は私には出来なかったのである。
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