もうすぐで夏休み。七月である。暑さが本格的にやってくる季節である。さて、学期末の時期。そんな大切な時期に一体何があると言うのか。
「数学のテスト返却するぞー」
そう。期末テストである。世界の全学生が苦手であろうその苦行は、例に漏れず私も嫌いだった。そもそもテスト期間が長すぎる。勉強している暇があったら一秒でも長く絵を描いていたい。然し学生の本分は勉強とはよく言ったもので、私は文句を垂れながらもその地獄の日々を何とか走り抜けたのである。これがまた中間、期末とあと最低四回はあると思うと憂鬱でしかない。
五十音順で名前が呼ばれ、次々に生徒が前へ出て教師からテスト用紙を受け取る。その際に顔に出す表情は多種多様で、嫌に喜んでいる顔もあれば、目に見えて肩を落としている者も居る。まるで死へのカウントダウンかのような彼らの雰囲気に、少し呑まれそうになった。
けれど、私は手元で開かれたノートに絵を描いていた。本来ならば子供の様に焦ったり友達と点数を競ったりするべきなのだが、然し私はその必要がなかった。
「次……し、東雲」
「あ、はい」
隠す様にノートを閉じて席を立つ。クラス全員の視線が降り注ぐ。その感覚が嫌に不快であった。
「凄いじゃないか。百点! 満点だ!」
先生のよく通る声が教室に響く。その瞬間クラスの人間達は分かり易く騒めき出す。
予想していたが、矢張りこの雰囲気は居心地が悪い。
♢
「ちょっと絵名! 凄いじゃない! 全教科一位だなんて!」
まるで自分が一位を取ったかのように喜ぶ愛莉は勢い良く私に抱きついた。アイドルの力は強く、首を絞められる。息を何とか吸いながらも体勢を崩さぬよう踏ん張る事がやっとであった。
「愛莉、苦しい……」
「あ、ごめんごめん」
そう言って愛莉はパッと手を離す。空っぽの肺に目一杯酸素を送り込む。そして深呼吸をしながら掲示板を眺めた。
うちの学校は中学にしては珍しく上位十位以内の生徒を全教科張り出す規則があった。今回も例に漏れず張り出されたのだが、然しその全ての一番上に〝東雲絵名〟と私の名前が記されていた。今迄張り出されたことがない名前だからか生徒は酷く騒がしかった。
当たり前だろう。このテスト期間中、任務以外は監禁状態だったのだから。絵画教室も休まされて、その上部屋の鍵をかけられ呪物で監視されながらずっと勉強させられていたのだ。手にペンだこが出来る程、足が痺れる程、机に向かわされた。ノートに落書きをしようものなら厳しいお仕置きが待っていた。思い出すだけで恐ろしい。
「でも、本当に凄いわね。よく頑張ったわ」
そう言って太陽の様に笑う愛莉。何も知らない真っ白な笑顔に、心が締め付けられる。
違うよ。愛莉。これは決して肯定されて良い努力じゃない。純粋な、向上心のある努力なんかじゃなく、強制された産物だ。そんなものが称賛されて良いものじゃない。
後ろめたさやら何やらで押しつぶされそうになる。全然そんなんじゃ無いのにズルをしているかのような、そんな罪悪感。
溜息をついて背筋を伸ばす。まぁ、今更どうこう考えたところで結果は同じ。どうしようもないだ。だったらこのまま受け入れた方が簡単だ。
「ちょっと絵名。どこ行くのよ」
「んー? 図書室。借りてた本を返しにね」
「なら私も行くわ」
踵を返す私に、愛莉は軽い足取りで付いて来る。他に友達も沢山居るだろうに、どうして私と一緒に居てくれるのだろうか。ま、考えても仕方が無いか。
「でも、愛莉も凄いじゃない。アイドルをしながらあんな高点数取れるなんて。流石ね」
「まぁね。アイドルの所為で学業が疎かになって居るだなんて思われたく無いもの」
見上げた志だ。きっと心の底からアイドルが好きで、アイドルでいたいのだろう。だからやりたくない事も全力でやる。後ろ指を差されない様に。胸を張ってアイドルで居る為に。それがどれだけ大変かなんて、私が一番良く解っている。
三階に上がり、一番端の教室が図書室である。テスト返却の時期だからか人が疎らであった。扉を開けると、心地の良い風が吹き抜ける。どうやらクーラーをつけているらしい。教室の中には勉強をしている生徒が複数座っていた。私たちはそれを横目に受付に向かった。
「て言うか、何を借りてたの? 何これ『世界の呪術』? あんた、こう言うの好きだっけ」
「いや……別に。ただ絵の参考で借りてただけよ」
嘘をついた。本当は呪術に付いて調べていたのだ。尤も有益な情報は書かれていなかったが。それこそテレビでやっている様なものばかりだった。家で教えられたものは何一つとして出てこない。まぁ当然か。大衆向けなのだから。
私は名前を書いて返却籠へ戻す。
「さて、帰りましょうか」
「え? 他になんか借りてかないの?」
「別に私は読書家なわけじゃ無いしね。もういいわ」
そう言って涼しかった図書室の扉を開けて出ていく。愛莉もその後に続いた。
「愛莉は良いの? なんか借りなくて」
「私は良いのよ。借りても期間内に返せるか分からないからね」
「……そっか」
確かに愛莉は仕事で忙しく、学校に来れる回数も極端に少ない。今日だってテスト結果を貰いに来ただけで午後からまた仕事に向かうらしい。無理をするなと伝えたいが、然し愛莉はそれを聞き入れはしないだろう。
私は少し溜息をつきながら愛莉を見た。
「自動販売機行きましょ。なんか奢るわよ」
「え!? 絵名が人にものを奢るですって……!? 明日槍でも降って来るんじゃない?」
「ちょっと、変な事言わないでよ。私だって奢るくらいはしますぅ」
そう言って口を尖らせる。そんな心が狭い人間だと思われていたのは心外だ。私だって感謝の気持ちもあれば労いの感情もある。人に何かしてあげたいと思う事だってあるのだ。
そんな私の様子を見て、愛莉はクスクスと笑った。いつもは追い詰められた様な、余裕のない顔をしているのだが、久しぶりにこんな顔を見た。
──矢張り、バラエティアイドルとして生きるのは、本意ではないのだろう。
愛莉は元々アイドルになりたかったのだ。いや、今でも立派なアイドルだ。けれど世間が求める姿はそれではなかった。いつも愛莉に求められるのは笑いを含んだバラエティ。愛莉は口では「仕事が来るのはありがたい」と言っているが、然しそこには不満が孕んでいた。
私ではどうすることも出来ない。ただ、背中を支えてやることしか出来ないのだ。
それでも。
それでも、愛莉のこの笑顔を守る為だったら何でもする覚悟であった。
♢
「あ、絵名ちゃん」
「二葉。久しぶりね」
絵画教室に行く途中。後ろから喋りかけられ振り向くと、お下げが特徴的な女の子が小走りで私の方に向かって来た。
「絵名ちゃんも絵画教室に行くの?」
「うん。テスト週間も何とか乗り越えたしね。それに受験も間近だし。うかうかなんてしてられないわ」
「流石絵名ちゃん。私も見習わないと」
「あんまりおすすめしないわよ」
夏野二葉。絵画教室内での、唯一の友人である。私とは真逆でおっとりしていて大人しい子だ。けれど私は知っている。こんな大人しい子の中に恐ろしい獣が眠っている事を。
そんなの、絵を見ていれば一発でわかる。
「そんなことより。雪平先生の講評は今日も厳しいのかしら。はぁ、やになっちゃう」
「それでも来れてる絵名ちゃんは凄いよ。雪平先生の酷評で辞めてっちゃう子が後を経たないもん」
「ま、そりゃそうよね。あんだけ厳しくされていれば誰だって逃げたくなるもの」
そう言って私は伸びをする。
雪平先生は、本当に厳しい。人を褒めるなんて事は滅多になく、私自身、雪平先生に褒められた事は無く、逆に酷評された回数は手足の指を使っても数え切れない。あの人はもしかしたら人を酷評をしなければ息が出来ない人なのかもしれないと何度思ったかしれない。
けれど、それは誰より絵に対して真剣に向き合っているからなのだ。真剣だからこそ、甘言は吐かない。みんなにより上手くなって欲しいから指摘をする。ただそれを理解するには膨大な時間と交流が必要なのだが。
「それにしても、絵名ちゃんの画風は変わったよね」
「それ、雪平先生にも言われた。なんか色が浅くなったって。そんなにあっさりしてるかしら。私の絵」
「……それもあるけど、何というか、その……」
そう言って二葉は言葉を濁す。
「何? 言いたい事があるのらはっきり言いなさい」
「うん。ごめんね。その、なんて言ったら良いかな。今の絵、何だか苦しそうに見えちゃって」
「苦しそう?」
二葉の言葉に、立ち止まる。意外な発言を聞いて、私の思考は停止してしまった。それを見て二葉も立ち止まった。
「うん。何だか叫びたがっているような。けど、それを他の何かに押さえつけられて身動きが出来ない様な、そんな感じ」
まるで私の人生を見て来たかのような、そんな解釈だった。尤も、私の人生なんて、私が一番解っていないのだが。
湧いてくるのは感心と、それからほんの少しの焦り。
鞄を力強く握る。
「そ……っか。私はそんな自覚ないけどな。ちょっと良くわかんないかも」
嘘だ。心当たりは数え切れない程ある。
抜け出せない穴倉の中。身動きを取ろうと踠いても体に纏わり付いている何かに邪魔されて指の先一つ動かせやしない。
何もかも邪魔に思える。呪術も、周りも。
全てが敵に見えるのは、私がまだ子供だからかもしれない。
「うん。雪平先生も言ってたんだ。描けば描くほど、絵名ちゃんの絵は薄くなっていってるって。でもそれは批判的じゃなく、何だろう。存在感がないって言うのかな? ううん。これも相応しくないな……。儚さがあるんだよね。確かに存在感はあるんだけど、でもそれって散る間際の桜みたいで、触れれば、風に吹かれれば消えてなくなりそう──って、感じた」
随分、私の事を見ているようだ。尤も、儚いと形容される程、私はそんな美麗でもないのだが。それでも薄くなっているはあながち分からなくもない。それが私が一番良く解っている。
けれど、少しの矛盾を感じる。
叫びたがっている絵なのに、その絵には存在感はない。私個人の感性だと、咲希日違っている絵は印象に残りそうなのだが、けれど二葉は違った。
彼女は、私の絵を儚いと言ったのだ。
叫びたがっている。けれどそれは吹けば消えるほどに薄い。
それじゃ、どうなのだろうか。
吹けば消えるのなら、私の絵は。私の叫びは、一体誰に届くと言うのだろうか。一体誰に見つけてもらえると言うのだろうか。
このまま誰にも届かなかったら、私は──。
「絵名ちゃん? 大丈夫?」
「え? あぁ、大丈夫。ごめんぼーっとしてた」
二葉の言葉にハッとする。どうやら私は思った以上に考え込んでいた様だった。
最近の私は駄目だな。何かあればすぐに悲観的になる。いつもの私なら何のそのと言う風に見返そうと奮闘するのだが、いかんせんその気力が出てこない。
いいや、気力が出てこない。ではないのだ。今のままでは完全に祖父の思う壺。他の人間が言う様に潰れてしまうかもしれない。そうなったら、癪である。それではまるで周りの言う事を肯定している様なものではないか。
「ねえ、二葉」
「何? 絵名ちゃん」
「私、美術科に入れると思う?」
二葉の視線を感じる。周りの喧騒がうるさいくらいに耳に届く。心臓が激しく鼓動する。思ったより緊張しているらしい。
車の音。人の足音、喋り声、鳥の音、風の音。その全てがいつもより増して煩く感じた。私の息遣いですらも煩わしい。
「……正直、分からない。美術の採点なんて講師の先生の主観って言うから。他人の作品に対してとやかく言える技量なんて、私にはないよ」
「そう、よね。ごめん、変な事聞いて」
確かにそうである。本当に変な事を聞いてしまった。けれど二葉の技量がないと言うのは否定させてほしい。二葉は本当に凄い絵を描くのだ。それこそ、教室内で一番と言って良い程。あの滅多に誰かを褒めない雪平先生が褒める程には。
嫉妬が無いとは言えない。けれどそれ以上に尊敬しているのだ。
二葉の絵に対して向き合っている姿勢は本当に真似できる事ではない。よくあれだけの努力が出来る。そう思ったのだ。
「でもね、私、絵名ちゃんの絵好きだよ。色んな色を使ってて、パワフルで。本当に凄い……」
はたと二葉の方を向く。二葉の顔は赤らんでいて、少し緊張していた。それだけで嘘は言っていないと言う事がわかった。
恐らく二葉が言っているのは昔の絵だろう。前の、薄くない絵。私だって本当は昔の様に描いてみたい。然しどう描いたって昔の様に上手く描けないのだ。
昔の私は、何を思ってどう描いていた? 今はそれすらも思い出せ無い。
「二葉」
「ん?」
「ありがとう」
「……お礼を言われる様な事は何もしてないよ」
一瞬二葉は目を見開いていたが、然しすぐに笑顔を貼り付けた。
どれだけ忘れても、ただ一つ、二葉が昔の私の絵を好きでいてくれる。それで良しとしておこう。