冷気が心地良い車から後ろ髪を引かれる気持ちで降り、伸びをする。高専から羽田空港までだいぶ距離があり、睡眠不足もあって車内で眠ってしまっていた。その為ただでさえ凝り固まった体に対してまた更に追い打ちをかける結果になってしまっていた。伸ばした体からぼきぼきと悲鳴がなる。
「すっごい人ね。やっぱ夏休みだから人が多いのね」
「そうですね。しかも今はお盆の時期ですから恐らく帰省の方々も多いと思います」
「……帰省ね」
その言葉に、少し俯く。
良いなと少し羨む心が生まれた。もう何ヶ月も家に帰っていない。彰人とは偶に学校で話してはいるが、それでもその中に両親の話題が出て来る事はなかった。彰人の気遣いか、それとも本当に話すことは無いのか。そこも分からないが私の中に未だ両親との確執があるのは事実だ。
帰りたいけど、会いたくない。そんな相反した感情はどうしたら整頓されるのか。今の私には分からなかった。
「絵名様。此処から先は私は同行出来ません。代わりに共に一緒に現場へ向かう三級術師と一級術師が同行してくれます」
「え? そうなの?」
伊地知さんの言葉に目を丸くする。てっきり伊地知さんも付いて来てくれるのかと思っていたが、どうやら違うらしい。まぁ、それもそうか。伊地知さんが私にばかり構える暇人では無い事は私が一番よく知っている。
「じゃあ誰が一緒に行ってくれるの?」
「恐らく絵名さんはまだ会った事が無い二人ですね。一人は完全フリーの一級術師で、もう一人は──あ、今来ましたね」
伊地知さんが指を差した先を見ると、黒い車から降りてくる少年の姿が会った。夏だと言うのに濃い色のネックウォーマーを付けている。
「こんぶー」
「狗巻三級。ご足労ありがとうございます」
そう言って頭を下げる伊地知さん。少年は右手を挙げて何やら食べ物の名前を言っている。
……というか、なんかどっかで会った事あるな。いつだっけ。だいぶ昔では無いにしろ、最近でも無い。
思い出せない。これも記憶障害の所為か?
「伊地知さんお疲れ様です」
運転席から降りてきた男性は伊地知さんを見て姿勢よくお辞儀をした。伊地知さんと同じ補助監督の人だろう。にしては伊地知さんに対して随分腰が低い様に見えた。
「えぇ。お疲れ様です。遠くまでご苦労様でした。疲れたでしょう」
「いえ。伊地知さん程ではありませんよ。では、自分はまた次の現場があるので失礼します」
「分かりました。無理は禁物ですよ」
「ありがとうございます。伊地知さんも少しは休んでくださいね」
「……えぇ、暇を見つけたらそうします」
男性の言葉に、伊地知さんは死んだ目で遠くを見つめながら消え入りそうな声でそう言った。その言葉に男性は苦笑をしている。どうやら私の目からだけじゃなく側から見ても伊地知さんは激務らしい。当たり前か。こう毎回毎回私の世話をしてくれている伊地知さんに、他に仕事が無い訳が無い。
伊地知さん。いつもありがとう。
そう思いながら私は人知れず神を崇める様に手を合わせた。
伊地知さんと簡単な遣り取りをした男性は伊地知さんと私に一例をして再び車に乗り込んで何処かへと去っていった。残された少年はジッと私の方を見ている。
……なんだ?
「絵名様。この人は呪言師の家系である狗巻家の末裔、狗巻棘くんです。狗巻くん。この方は東雲絵名様。東雲家の御令嬢です」
ドクンと、心臓の音が鳴る。
何? 何だって?
狗巻棘?
──いぬまきとげ?
思わず後退り、息が荒くなる。
『いぬまきとげ』
辛うじて残っている記憶を呼び起こし、スケッチブックの中身を思い出す。
まさか、彼が? いや、そんな。偶然かもしれない。けれど彼の名前とスケッチブックに描かれていた名前が完全に一致している。狗巻なんてそうそうある苗字ではない。だったら同じ呪術師で同姓同名の彼が記憶の中の彼と同一人物と考えるのが自然な筈だ。
確かに彼には見覚えがある。そういえば彼がしているネックウォーマーだって……。
ん? あれは……。
「あ! 去年の公園で寝てた子!」
思ったよりも大きな声が出てしまった。二人だけではない。道ゆく人々の視線もまざまざと浴びる事となった。気付いた時には遅く、私はおずおずと差した指を引っ込めた。
「えっと、覚えてるかな。去年宮益坂の公園で会ったんだけど……」
おずおずと己を指差しながらそう聞く。
そうだ。思い出した。彼は去年の三月に宮益坂で会った男の子だ。彼が寒い中ベンチで寝ていたからよく覚えている。あれは今思い出しても衝撃的な光景だった。まさかあんな身を凍える様な寒さの中であんな薄着でしかも冷たい石造りのベンチに寝ているのだから。彼が何を思って彼処で寝ていたかいまだに謎である。
少年は私の言葉にネックウォーマーを触りながら頷いた。どうやら彼も私の事を覚えていたらしい。
「しゃけ」
「……ん?」
脳の処理が追いつかず耳を澄ます。なんだ。今少年の口からしゃけと聞こえたがそれは気の所為だろうか。気の所為だろう。だって魚の名前なんて到底脈絡がない。
うん。気の所為だ。
「あぁ、狗巻くんは呪いの効果周囲に撒かない様に語彙をおにぎりにの具に絞ってるんです。狗巻くんの呪言は言霊を増幅、強制させる術式な為、非常に危険なのです。けれどその為戦闘になると強力な味方になります」
伊地知さんの言葉に少年──狗巻くんは鼻の下を擦りながら照れていた。
成る程、あの言葉はおにぎりの具だったのか。そう言われれば脈絡の無い言葉にも納得がいった。それでどうしておにぎりの具を選んだのか分からないが。
「因みに意思の疎通はどうやって取るの? 難しくない?」
「一応しゃけが肯定でおかかが否定となっております」
「あぁ、まぁ〝はい〟と〝いいえ〟が分かれば大抵の意思の疎通は出来るか」
取り敢えず会話は私から話しかけてそれに狗巻くんが答えると言う形になりそうだ。
「狗巻くんは現在中学二年生で十四よりの十三歳です」
「あ、それじゃあ私の一個下なんだ。学年的に。宜しくね狗巻くん」
そう言って私は狗巻くんに手を差し出す。挨拶にとって大切なのは此方からの歩み寄り。その第一歩が握手と言う訳だ。狗巻くんはその手を握る。
──おにぎりでしゃべればいいんだよ。ほら、しゃけとかおかかとか。
また頭が痛くなる。もう慣れきってしまったその痛みだが、しかしそれでも痛いものは痛いのだ。
息を大きく吸い、吐く。これで痛みが和らぐとは思っていないが、然し多少気持ち的には多少楽である。
「それで、もう一人の術師はいつつくの?」
気持ちを切り替え、伊地知さんに問う。
上手く隠せているだろうか。
「そろそろ着くみたいですが……あ、今来られましたよ。あの方です」
再び伊地知さんが指を差した先には何やら大きな棒の様なものを持った女性が歩いてくるのが見えた。前は見えているのだろうか。顔の前には大きな三つ編みを施している。まさかあれが前髪と言わないだろうか。
恐らくあの人は呪術師だ。あんな奇抜な格好、一般人で見た事がない。五条さんと言い、他の人と言い、なんで呪術師はこんなにも変わった人が多いのだろうか。
その女性は私たちの前に止まる。三つ編みの端から見える表情は二ヒルに笑っていた。
「やあ。待たせたね。この夏休み道が渋滞していてね、許しておくれ」
「あ、はぁ」
その圧のある言葉に少したじろぐ。言葉の端々、行動の一挙手一投足が強者と物語っている。その姿はどこか五条さんと似通っていた。
「ふーん」
そう言いながら女性は私の顔をまじまじと見る。その際に近寄られた顔は息を呑むほどに美しかった。
……と言うか近い。近すぎる。いくら近視の人だってそんな近づいて見たりはしないだろう。そもそも目が悪かったらそんな髪型にしないだろう。
「君が東雲絵名か」
そう言って下から上へまじまじと見る。何だか気不味くなり目線を逸らした。初対面でこうジロジロ見るなんて少し失礼な気もするが、それを言える勇気は私にはなかった。彼女には何か底知れぬものが感じられた。
「……おかか」
「い、狗巻くん?」
突如私と女性の間に入る狗巻くん。私に背を向けて女性の方を向いているからどんな顔をしているか分からないが、恐らく守ってくれているのだろう。
そんな狗巻くんを見て、女性はまた口角を上げる。
「あぁ、すまない。あの東雲家の御令嬢がどんなものか気になってね。謝るよ。初めまして。私は冥冥。宜しくね」
「あ、東雲絵名です。こっちは狗巻棘くん。宜しくお願いします」
私は自身と狗巻くんの紹介をして頭を下げる。
……沈黙が流れる。少しだけ顔を上げると狗巻くんと伊地知さんが驚いた様な顔をしており、冥冥さんは目を見開いて此方を見ている。
「えっ……と?」
そう言うと、冥冥さんはハッと我に帰り困った様に笑った。
「すまない。少しだけ吃驚してね。東雲家の人間が頭を下げるなんて見た事がなかったから」
「あ」
思わず声が出る。その瞬間、体が冷めていく様な感覚がし、身体中から暑さではない変な汗は大量に出る。
そうだ。祖父に言われていたんだった。東雲家たるもの人に遜ってはいけないと。
うっかり忘れていた。そもそもこの人たちは東雲家の人間は皆を見下すものだと錯覚しているのかも知れない。そんなのは誤解である。少なくとも私は。
「い、伊地知さん……」
「大丈夫です。私は何も見てません」
伊地知さんの方へ向くと先ほどは限界まで目を見開いていたと言うのに次の瞬間には目を閉じて気不味そうにしていた。
……伊地知さんの優しさに感謝である。
私はゆっくりと状態を上げる。
「ゴホン。えっと、今のは忘れて」
「はは。構わないよ。中々面白いものを見れたしね」
そうか。こっちは中々の屈辱だ。
そもそも祖父の教えが可笑しいのではないか? 挨拶くらいは頭を下げても構わないのではないだろうか。いや、だってただの挨拶よ? そんことで叱責されたらたまったものじゃない。
まぁ、今そう考えても何の意味も生まれないのだけれど。
「さてと。そろそろ向かおう。フライトの時間が迫っているからね」
「あ、本当だ」
腕時計を見るともうそろそろ行かなくてはならない時間だった。荷物検査とかしなければいけないから尚の事急がなければ。今まで飛行機なんて乗ったことがなかったから流れはわからないが、まぁこの二人に着いて行けば大丈夫だろう。私よりは確実に呪術師歴は長いだろうし。
私は伊地知さんから荷物を受け取る。少しミニサイズのキャリーケースを一つ。その中に着替えやら化粧品やら画材やらが少しだけ入っている。本当はもっと持っていきたかったのだが、冷静に考えればそんな九州に長いをするわけではない。呪霊を祓って即刻変えれば大荷物はいらないと気づいたのだ。
まぁ、画材はどうしても持っていきたかったのだが。こんな毎日忙しい中少しの時間を見つけて描かなければ受験に間に合わない。宿題から解放された今、私は心置きなく絵を描けるのだ。
「高菜?」
「ん? どうしたの狗巻くん」
狗巻くんが指を差した方を見る。それは冥冥さんが持っている大きな棒だった。人の上半身より大きい何か。
私も出会った当初から気になってはいた。けれど聞く暇がなかったのだ。冷静に考えればあんなもの保安検査場を抜けれるのか甚だ疑問である。
「あぁこれかい? これは呪具だよ。私はこれがないと戦えないからね」
「……呪具?」
また新しい単語が出てきた。いくら呪いについて勉強しているとはいえ、まだ全貌を掴めているわけではない。分からないものは当然にある。
分かれば分かるほど、知れば知るほど、解らないものがどんどん湧く。
「呪具というのは元から呪いが込められている武器の事です」
「あ、そうなの? そういうのあるんだ。中々便利そうだね」
そうすれば術式が無い人でも戦えそうである。まぁ尤もその呪具とやらを使っている人間はあまり見た事がないのだが。
しかし、呪具か。少し気になったりもする。
「冥冥さん。二人をどうか宜しくお願いします」
「任せなよ。給料分くらいの働きはするさ。何ってったってあの東雲八郎様ご本人からのご指名だからね。先払いってのが良いね」
どうやら冥冥さんは意外にも守銭奴らしい。
いや、以外でも無いか?
それから私と狗巻くんは冥冥さんの後について空港内へ入っていった。
冥冥さんの背中。女性的なほっそりとした腰回りの筈なのに、その背中は大きく、頼もしく見えた。