「駄目だ。全然描けない」
紙をくしゃくしゃと丸めてゴミ箱に捨てる。ゴミ箱はもう既に満杯になっており、私が投げ捨てた紙は中に入る事なく跳ね返され畳の上に転がった。けれどそんな事はどうでも良かった。私の思考は全て目の前の絵に向かっていた。
朝のあれは錯覚だったのだろうか。冷静に考えてみれば、心意気だけで良い絵が描ける筈もなく、私の絵は依然として完璧に仕上がってはなかった。
「何が駄目なの? 構図もパースも狂ってない筈なのに。こんなんじゃ、受験合格なんて夢のまた夢じゃない」
机に肘を乗せ、頭を抱える。朝から一枚だって仕上がっていない。登校中の車の中、休み時間、現場へ向かう車の中。そして帰って来てからもずっと描いているのだが、どうしても完成出来なかった。なんなら当初の構成から徐々に離れていっている様な気さえする。
どうして描けないのだろうか。一体何が可笑しいのだろうか。考えても考えても答えは出ず、定期的に真っ白な画用紙と向き合う事になった。
描いて消す度に、私の自尊心が共に削られている様な、そんな感覚。朝までの陽気な気分は何処へやら消え去り、今の私に残ったのは焦燥感だけであった。
スマホの通知が鳴る。けれど私にはそれを気にしている暇はなかった。無視して筆をとる。スマホを触っている暇があったら絵を描かなくてはいけない。どれだけ描いても埋まる事はないであろう周りとの差を、せめて枚数は追い付きたい。そう思いながら一心不乱に筆を動かした。
一本一本、丁寧に線を引いていく。集中したい筈なのに、繰り返し鳴る通知音が私の集中力を削ぎ落とす。
「あぁ! 煩い! なんなの!? こっちは絵を描かなきゃいけないのに!」
我慢出来ずにスマホを掴む。いっその事、此の儘放り投げて壊してしまおうか。
けれど画面に出てきた通知画面を見て体が止まる。昨日の投稿。朝に見た時は700いいねだったのに、今ではもう1000いいねいっていた。こんな数、そこら辺の芸能人より、インフルエンサーより多いのではないか?
「すご……なんでこんなに。わ、またきた」
バイブ音と共にまたいいねが来る。その勢いに、思わず引いてしまう。
『マジで綺麗だな』
『もっと写真見たい!』
「……こんな事で認められても、意味ないっての」
落胆した様に、私はスマホの画面を下にやり、机の上に置く。どれだけ沢山の人に見られようと、認められようと、絵で認められなければ意味がない。それでは、お父さんや周りの人の言葉が事実になってしまうではないか。
そんなのは絶対に嫌だ。
「こんな……の」
また通知が鳴る。今度は五回連続で鳴った。どれだけ私が拒絶しても向こうからやってくる。その賞賛に縋ってしまう私は、本当に意思が弱い。
「次の写真、庭の水仙畑で良いでしょ。きっと特定されない筈だし」
写真フォルダから選別して、一番出来の良い写真を選ぶ。少し陰影とか調整をしたら上等な写真の完成だ。それを簡単なタグを付けて投稿すると、十秒も経たないうちに沢山のいいねとコメントが付いた。
こんなにも、簡単なのか。
こんなにも簡単に、私は認められるのか。
「……くだらない。何やってんだろ。私」
もう一度写真を選ぼうとして、止める。こんな事をしたって、なんの意味もない。
スマートフォンを再度伏せて鉛筆を握る。そうだ、描かなければ。私は絵で認められないと意味ないのだから。
ふと、画用紙に血が付着しているのが分かった。手を見てみると、手を巻いている包帯には赤い染みが付着していた。どうやら傷がまた開いたらしい。
「関係ない。描かないと」
ハンカチで手を縛り、無理に鉛筆を握った。無理している事はわかっている。けれど、無理をしなくてはいけない。
受験まであと数ヶ月。長いように思えて、もう時間がないのだ。
♢
それから、私は死に物狂いで絵を描き続けた。
右手を真っ赤に染めながら、痛みに顔を歪めながら。
この多忙の中、少しの空き時間で寝れば良いものの、それでも私は絵を描いた。
脳裏に過ぎるのは父の言葉。
もう思い出せないその言葉は、私の中に依然として杭の様に差し込まれている。
それは呪いとして、私を蝕んで行った。
けれどそれにはいつしか限界が来る。
私は己の力量を見誤り、限界を迎えた私は、任務終わり、遂に倒れてしまったのだった。
♢
最初に見たのは、真っ白な天井であった。その後に感じたのは体の怠さ、そして頭を殴られたかの様な頭痛。
「……私、なんで寝てんの?」
数秒経って、自分が寝ている事に漸く気付いた。肌寒い中、己の体に被せられた布団が暖かい。
頭痛に顔を歪めながら起き上がる。周りにはカーテンが引かれており、恐らく医務室であろうか。薬品の匂いが全体に広まっている。この匂いは、私が普段嗅ぎ慣れている匂いだった。
何をしていたんだっけ。あぁ、そうだ。私は任務に行っていて、呪霊を祓い終わった時に倒れてしまったのだ。呪霊の影響? けれどそれにしては身に覚えのある感覚だった。それはまるで疲労が溜まっているかの様な──。
「あぁ、起きたか」
カーテンが開かれ、そんな声が聞こえた。見ると家入さんがカーテンの間から顔を覗かせていた。矢張り此処は高専の医務室であった。そうか。倒れた後に伊地知さんが運んでくれたのか。伊地知さんも忙しいのに、こんな事に巻き込んでしまって申し訳ない。
「御免なさい、私──」
「あぁ、無理に起き上がるな。まだ具合が悪そうだな。疲れが溜まっていたんだろう。少なくとも、呪いの所為ではないよ」
ベットから立ち上がろうとする私を家入さんは優しく止める。確かに体の怠さと頭痛はいまだに私の体を襲っていた。
疲労……か。
確かに毎日三時間睡眠だと倒れるのも納得だ。まぁ、三時間というのは私の体感であり、正しくは絵を描いている途中に寝落ちている為それ以下の時間であるが、それでも四捨五入すれば三時間程だろう。
家入さんの言葉に甘え、枕に頭を埋める。寝そべっていると布団の心地良さに目を瞑って眠りそうになった。
「伊地知から聞いてるよ。あんた相当無理してるだろ。そんなんじゃ受験どころじゃないよ」
「無理しないといけないの。特に私の場合はね」
私がそう言うと、家入さんは呆れた様に溜息をつく。
人には、人生で何度か無理をしなければいけない時がある。それは個々によって様々だが、私の場合今この時であった。
絵を描く事に多くの時間を割けないこの状況で、少しの空いた時間で絵を描かなければいけないのだ。そうしなければ周りに追いつけない。
「でも、無理をしたままで良い絵は描けないと思うけど?」
「……うるさいなぁ」
図星だった。確かに描ける時と描けない時の差はあれど、寝不足で頭が正常に働いていない中で良い絵が描ける筈がない。それは私だってわかってる。雪平先生にも耳が取れそうな程に言われた事である。良い絵を描きたいのなら睡眠と栄養はしっかり取らないといけないと。
でも、しょうがないじゃないか。栄養とか、睡眠とか考えていたらもう私には描く時間は殆ど残されてない。だとしたら、自己を消費しても描く時間を確保しなければ。
こうでしか進む道は知らないんだから。
そうだ、こんな所で寝ている暇はない。私は描かないといけないのだ。
「私、もう帰るね」
「何言ってんだ。もう少し寝てな」
「そんなわけにはいかないよ。もうすぐで受験始まるし、休んでる暇はない」
そう言ってベットから降りる。地に足がついた時の目眩。けれどそれを踏ん張り出口へと向かった。ぐるぐると脳が回る感覚がして、少し気持ちが悪い。
「ちょっと待ちな。あんた本当に死ぬよ」
家入さんはそう言って私の腕を掴んで制止をした。けれど今の私にはそれを抵抗するだけの力はなかった。振り払おうと腕に力を入れるも、まるでそれは石に掴まれている様にびくともしない。
「……邪魔しないで」
自分が思うより、低い声であった。自分ですらも引くくらいのその声色に、家入さんは少しの動揺を見せる。けれどそれも一瞬で、すぐに此方を睨みつけた。
今度は私が動揺した。けれどそれを自覚する前に、私は先程寝ていたベットに投げ飛ばされた。一瞬、何が起こったか分からなかった。それ程までに今の光景はコンマ一瞬の出来事であった。
目を見開きながら家入さんを見る。家入さんは私を見下ろしており、その顔は、なんだろうか。語源化するのも恐ろしい、全ての負の感情を集めた様な顔をしていた。呪霊を普段祓っていなかったその表情に耐えられなかっただろう。けれど呪霊を祓っているおまの現状でも家入さんの顔は恐ろしかった。
あぁ、きっと鬼がいたら、まさしく彼女の様な顔なのだろう。美人が凄むと怖いと言うが、成る程、これは説得力がある。
「今失礼な事考えただろ」
「いえ、全く」
蚊の鳴く様な声だった。まるで説得力がない。けれど彼女を前にしたら私の普段大きいくらいの声もか細くなってしまうのだった。
「取り敢えず、今日はもう休め。家には私から言っておくから」
「そ、それは駄目!」
家入さんの言葉に、私は必死に縋り付く。
私は本来、呪術師と絵を両立する条件で美術科の受験を許されたのだ。これで疲れが溜まったからと言う理由で休んでしまっては何を言われるかわかったものではない。酷ければまた殴られるかもしれない。それはなるだけ避けたかった。
想像するだけで恐ろしい。
「お願いだから、言わないで」
「絵名……」
心からの懇願だった。力の無い私に彼女を止める事は難しい筈だが、家入さんはそこから動かず、私の寝ているベットに腰掛けた。そして私の頭を、優しく撫でる。
「何をそんなに焦っているか知らないけど、別にそんな気負わなくても良いじゃないか。気楽に行こうなんて言わないけど、少しくらい肩の力を抜いた方が──」
「それじゃ駄目なのよ」
肩の力を抜くなんて、それこそ私には出来ない。もしかしたら他に受験に合格する手札があるのかもしれないが、少なくとも今の私には思いつかなかった。それこそ、〝東雲〟の力は絶対に使いたくない。私が求めるのはただ一つ。実力での評価だけだ。
己の手を見る。真っ白に覆われている右手は、最早元の私の手を思い出す事は出来なかった。
意識するとずくんと痛み出した。あの時剥がれた爪は、もう回復しているだろうか。
「不安になるの。もしかしたら本当に私には才能がなくて、受験にも受からないんじゃ無いかって。もう絵を描けなくなるんじゃ無いかって。そう思ったら居ても立ってもいられない。描けるときに──ううん。描けない時でも無理矢理に手を動かさないと落ち着かないの。そうしないと、もう、駄目になりそうで」
息を吐く様にそんな言葉が出てくる。
決して慰められたい訳じゃない。けれど私の言葉は止めどなく溢れ出て消えていく。それに伴い私の目頭が熱くなり、気付けば私は大粒の涙を流していた。
「本当はね、わかってるの。此の儘じゃ駄目な事も。こんなんじゃ受かるものも受からないって事も。段々と頭が働かなくなって、腕も満足に動かせず、鉛を紙に押し当てる度に、その鉛と同じくらい自分の人間性がゴリゴリと削られる感覚がするの。けど、どうしても落ち着かないの。私はただ楽しく絵を描きたいだけなのに、どうしてこうなっちゃうのかな。私、何かした?」
心の内を、吐き出してしまう。
ずっと考えていたこと。私が親に抵抗しようがしまいがこの道は決まっていたのだ。けれど、だったら私が抵抗したことは、全て無駄だったのか? 抵抗せず、受け入れて東雲邸に来た方がよかったのか?
なんて、今更考えてもどうしようもない事を考えてしまう。
この道を進むと決めたのは私だと言うのに。
けれど、今はそんな事など考える余裕もなく、後ろ向きな、それこそそんなくだら無い被害妄想が浮かんでは消えていく。
私が何をしたと言うのだろうか。こんな事を毎日の様に考える。自分の中で消化していたつもりだったが、どうやらそんな簡単に消えてはくれないらしい。
此の儘受け入れれば楽だ。けれどどうしてか私はそれに納得出来なかった。
受け入れれば良いという気持ちと、どうしても抵抗したい気持ちの狭間で揺れ動いている。
今の私には正解がどっちなんて分かりっこなかった。
「……ごめん、喋り過ぎた。忘れて」
そう言って深く毛布を被る。どうしてこんなに喋ってしまったかは分からない。一度口にしてしまえばそれはもう止められはしなかったのだ。そんな羽よりも軽い私の口が、何よりも嫌だった。こんな事を言われたって家入さんも困るのは分かっていたのに。
私がそうしていると、家入さんは少しため息を吐いて口を開いた。
「絵名、覚えてる? 私の絵を描いてくれた事」
「……そりゃ、覚えてるけど」
突然なんだろうか。そう思い、少しだけ顔を出す。
優しい、温かい笑み。その顔はあの時の表情と似通っていた。
「あの絵をね、大切にまだ持ってるんだ。仕事机の引き出しに、閉まってる。疲れた時に見ているよ」
「……そんなに?」
「そんなに」
そう言って、家入さんは笑う。彼女が何を意図してそう言ったかは分からない。けれどその顔はどこか優しかった。
「私には絵の事は分からない。絵名に才能があるとかもね。けど、絵名の絵は人の心を動かす力がある。それは自信もって良い。実際に私は絵名の絵で救われているからね。それは多分、凄い事だ」
「────あ」
家入さんの言葉が、頭の中で反響する。
もしかしたらお世辞の言葉かもしれない。けれど家入さんの言葉にそんな感情は読み取れなかった。私がただ鈍感なだけかもしれないが、それでも今の家入さんの言葉は他の何よりも変え難く、嬉しいものだった。
私はまた布団に潜り込む。今の私の顔を、見られたくはなかった。
♢
それから数ヶ月が経ち、三月になった。
私は睡魔が襲う体に鞭を打ち、朝五時だと言うのに家を出た。
雪が降っている。空は矢張り灰色がかっていた。
今日は受験日。私の命運を分ける日である。私は己の頬を強く叩き、喝を入れた。
そして一歩、歩みを進めるのだった。