その日は、大雪であった。まるで私の決意を白く塗り潰すかの様に真っ白である。制服の上に着ているコートと首に巻いているマフラーは辛うじて暖かさを保っているが、それでもこの寒さを打ち消す程ではなかった。玄関先から車が停まっている門まで歩くのは少々厳しい。
「はっはは。もうそんな時期か、絵名」
「……おじいちゃん」
門の前に、柱に凭れ掛かりながら立っているおじいちゃん。おじいちゃんが私を見送るなど珍しく、その姿に少々緊張が走った。
「まだ夢を諦めていなかったのだな」
「受験しても良いと言ったのはあんたの筈よ。文句を言われる筋合いはない」
「はっはは。言いよる」
そう言って手で顎を擦った。その余裕な表情に、私は少し、嫌悪感を感じる。おじいちゃんの印象はガラリと変わってしまった。本当なら一言も言葉を交わしたくはないのだが、けれど私がどう思っているかなどお構いなしに祖父は愉快そうに笑う。だからと言って私がおじいちゃんに敵うわけがなく、こうして祖父の手のひらの上で踊るしかなかった。
「言っとくけど、邪魔しないでよ。私は自分の力で合格するんだから」
「はて。お前に出来るかな?」
「……なんですって?」
祖父の言葉に眉をピクリと動かす。けれど私のそんな態度を他所に、祖父はすっとぼけた様子で笑っていた。その態度が、尚更気に食わない。
「儂の目から見てもお主の絵はまるで魅力がない。それだったら小学校の写生大会の絵を見ていた方が幾分かマシと言うものだ。だのに貴様ときたら懲りもせず絵を描きおって。本当に呆れる」
「………………」
呆れているのは此方の方である。最初に受験して良いよと言ったのは祖父だろうに、どうして今更そんな事を言うのだろうか。言っている事が二転三転して最早彼が何を言いたいのか分からない。
彼は本当に東雲家の当主なのだろうか。支配者だったら発言くらい一貫性をもって欲しいものだ。
「話はそれだけ? 私そろそろ行きたいんだけど」
ぶっきらぼうにそう言う。祖父に恐れを抱いている私からの、苦し紛れの反抗である。もしかしたら今の発言で殴られるかもしれない。けれど、今になっては最早それもどうでも良い。殴られようが、どうしようが、私は這ってでも受験会場に向かう。
けれど意外な事に、父から拳が飛んでくる事はなく、代わりという様に与えられたのは愉快そうな高笑いだけだった。
「はっはは。今現在この世で儂にそんな口を聞くのはお主だけじゃな。いや、辛うじて五条の所の小僧かな。ともあれ儂にそんな態度をするのはお主ぐらいだな。愉快愉快」
祖父の言葉に、怪訝な顔を浮かべる。本当に解らない。今迄暴力を振るって厳しくしていたかと思えば今度は懐が広いかの様に笑いやがる。それがどうしても気に食わなかった。
まぁ、そうは言ってもそれを跳ね返す術を私は持ち合わせていないのだが。
そう言えば祖父は『五条の所の小僧』と言っていたが、もしかしたら五条さんかもしれない。というかあんな態度を取るのは五条さんくらいしか居ないだろう。
「受かると良いなぁ。頑張っておったもんなぁ」
そう言って不気味に笑う祖父。そんな祖父の態度に苛立ちを覚え、それが募り最早我慢の限界になったと言う所で門の前に真っ黒なベンツが停まる。どうやら感情を爆発させずに済みそうだ。けれどこの場合爆発させてた方が心の健康の為に良かったのかもしれない。
運転席から出て来たのは伊地知さんであった。私はそれを一瞥して車の方へ歩き出した。もう祖父と話をする事はない。話をした所で時間の無駄である。
そう思いながら私は伊地知さんが開けてくれた扉から車の中に入る。その間に伊地知さんと祖父が話していたが、それさえ今はもうどうでも良い。私はただ、目の前に迫っている受験に集中したいのだ。
どんな課題が出るのだろうか。一通り過去の課題を見て対策はしたが、それでも心にある痞えは中々取れなかった。もう少し絵を描く時間を確保出来ていれば自信はついただろうが、私の中には依然として不安が渦巻いていたのだった。
いや、考えるな。私はあの環境の中で良くやっていた。前の日も無理して描かずに早めに寝たから寝不足で変な生物を紙の上に生み出す事もないだろう。
そして漸く祖父との話が終わったのか「お待たせしました」と言いながら伊地知さんは運転席に乗り込んだ。そこでハッと私の思考が停止したのだ。
「とうとう、本日になりましたね」
「えぇ。今でも心臓がバクバク。こんな感覚初めてだわ」
呆れた様に笑いながら背凭れへ深く腰掛ける。早く着かなければいけない筈なのに、私の心は意外にもこの車が受験会場に辿り着く事を良しとしていなかった。行かなければ描けない描かなければ合格出来ない。そう分かってはいるがこの気持ちはどうしようもない。これが緊張というものだろうか。
助手席と運転席の間にあるギアチェンジを動かし、車は発進した。目線だけ門へ向けたが、此方に笑みを向けている祖父と目が合ってしまい反射的に目を逸らしてしまった。
分かっている。絶対に合格してみせる。合格して、私を否定した奴ら全員を見返してやるんだ。
車窓から外を眺める。灰色の空。私はそれを見ながら一人、決意を新たにするのだった。
♢
「……疲れたぁ」
人気の無い階段。私は使用人が作ってくれたお弁当を広げていた。あんな扱いをしても、お弁当だけはこれ以上に無い程豪華であった。本当は普通のお弁当で良いのだが、それでも作って貰っているて手前何も文句は言えないどころか最早慣れて来つつあるのがなんとも恐ろしい。
海苔で巻かれたおにぎりを食べながら窓を見る。朝よりは雪は収まったが、依然として空は灰色の雲で覆われていた。そこからはチロチロと真っ白な雪が降っている。天気予報によると明日の朝まで雪は止まないらしい。通りで手足が千切れるかの様に寒い筈である。その上人気の無い階段では冷たい風が吹き、体が震える。
手に暖かな息を吹きかけた。これから実技の試験があるのだ。手が悴んで良い絵が描けませんでしたは通用しない。高校受験は一生に一度なのだ。
午前は、筆記試験であった。構図の名前、貼り付けられた絵は誰の作品かなど、過去問と似たような内容だった。ただ一つ違ったのは近代美術の試験もあったことだ。雪平先生に最近の画家も調べなさいと言われたが、成る程、雪平先生はこの問題を見抜いていたのか。雪平先生の言う事を素直に聞いていた為、筆記試験は手応えがあった。試験が終わったら絵画教室に言って一言お礼でも言おう。お土産に何かお菓子を買っても良いかもしれない。
「でも、問題は実技の内容ね」
そう呟きながら、スマホを開く。この高校のホームページを開き、過去の試験内容を調べる。実技はデッサンが主であり、それが石像かヌードか林檎かそれは様々だが、構図さえ分かっていれば乗り越えられるだろう。私の一番の課題である色合いである。昨日に雪平先生につきっきりで教えて貰って合格点は貰えたのだが、それでも油断は出来ない。どう魅せるか、どのアングルで描くか、工夫をしなければ。実技の後にある面接は……まぁ大丈夫だろう。
「……愛莉は、大丈夫かな」
遠くで自分と同じように試験を受けている親友を思い浮かべる。受験生のピリついた空気に当てられていないだろうか。
呪術師になってもうすぐで一年。その中で分かった事がある。
愛莉は、憑かれやすい。
それも尋常ではない程に。アイドルとして民衆の前に出て様々な感情や念を一身に背負うからなのかと考えたが、それでも異常な頻度で異常な量が憑いてしまっていたのだ。さりげなく愛莉に憑いている呪霊を祓っても、仕事の合間、久しぶりに学校に来たと思ったらその前の倍の量を体に纏わり付かせて登校してくるのだ。その姿を初めて見た時はあまりに驚愕してしまい腰を抜かしてしまった。今思い出してもあれは酷かった。
「本当に、大丈夫かしら」
思い出して、改めて心配になる。試験先で何か問題に巻き込まれていないと良いけれど。そう言えば愛莉は宮益坂女子高校を受験すると言っていた。なんでもそこはセキュリティがしっかりしているらしく、宮益女子──宮女には単位制があり、愛莉と同じ様な芸能人が沢山在籍しているらしい。そんな事まで考えて学校を選んでいるのかと思うと、本当に脱帽しかない。
そう考えていると、私のスマホにバイブ音と共に通知が来る。正体は愛莉からのメッセージであった。
『午前の試験お疲れ様! そっちはどうだったかしら? 午後もお互い頑張りましょ!』
そんな文章と共に可愛らしい絵文字が添えられていた。文章からしてどうやら愛莉の方は順調そうである。そんな様子に、私は思わず笑みが溢れる。心配は無用だったようだ。
『こっちは平気。愛莉もがんばってね。応援してる』
そう返信してスマホを閉じる。今考えたってもうどうしようもない。私に出来る事は 目の前に迫っている試験に心して挑む事だけだ。
箸を持ち直し、急いでお弁当のおかずをかき込む。時間はもう、其処迄来ていた。
♢
試験会場は、思ったより広かった。教室というより会議室の様だった。人数分のキャンバスが規律正しく並べられており、席は自由に選んで良い様だ。
私は適当な椅子に座り、画材を用意する。周囲を見渡すと、矢張り皆、ピリついた空気を纏わり付かせていた。私もその内の一人だ。さっきから心臓の音が煩い。
辺りを見渡して、少しの違和感に気付く。
例年によれば今年もデッサンの筈だが、何故かデッサン用の台が何処にも見当たらない。どころか一列になって、まるで教室の机の様にキャンバスが並べられている。
何かが、変だ。
私が困惑をしていると、試験官が教室内に音を立てて入ってきた。手には何やら袋を下げている。その瞬間、教室内の空気が針の様に鋭くなったのを感じた。
「はい。みなさん席に着いてください。これから実技試験を始めます。今年の課題は『自画像』です。今から鏡を配るので、前から後ろへ回してください」
試験官の言葉に、心臓が飛び跳ねる。
──自画像。
それは己を題材にして絵に描き込む事で、絵を描かない人から見ればとても簡単そうに見えるが、それでもそれは全力で否定したい。授業の自画像と画家の自画像は訳が違うのだ。
自画像とは、己をどれだけ知っているかが重要になってくるのだ。
それを、私が描くと? 己の事も何も知らないこの私が?
「あ、あの……」
「え? あ、御免なさい、有り難う」
前の席に座っている男の子が困惑した顔をして此方に鏡を差し出している。私はハッと我に返りそれを受け取る。
「……全ての人に渡りましたね。では、初め!」
試験官の言葉と共に、ガリガリと鉛筆をキャンバスに押し当てる音が聞こえる。それを聞いて、私は心臓が口から飛び出しそうな程に焦っていた。
考えるな。いや、違う。考えろ。私とはなんだ。私は一体なんなんだ。
負けず嫌いで、絵が好きで、甘いものが好きで、負けず嫌いで、人参が嫌いで、画家を目指していて、
いや、駄目だ。それだけじゃ足りない。私はなんだ。
過去を思い出そうとして、酷い頭痛が襲う。いつもは気にも留めない痛さだが、今日、今この瞬間だけはとても煩わしく感じた。今私が痛みに悶えている瞬間にも、此処に居る人達は己の絵を進めている。対して私は線一つ描けていなかった。
取り敢えず何か描こうと線を引くが、然しあたりを付けただけでそこから先は一向に進む気配がない。どころか描いては消して描いては消してをずっと続けていた。
考えたいのに、心臓の音と吐くほどに痛い頭が邪魔をして碌に集中が出来やしなかった。
「あ……あぁ」
どうしようも出来ず、完全に限界が来てしまった私は唸り声にも似た声をあげる。幸いな事に受験者達は己の絵に集中していて私の事など見向きもしていなかった。
自画像だなんて、そんな。私が一番私の事を理解できていないというのに、それをどうして他の人に伝える事が出来ようか。
何か、何か描かないと。そう思い筆を動かす。それはもう一心不乱だった。側から見れば滑稽な姿だろう。然し私はそれすらも気にする余裕もなく、真っ白なキャンバスに鉛を押し当てる。
泣いて、震えて、描いて。もう自分が分かっても居ないのにそうして考える事をやめて、自分が何者どころか自分が今何を考えているのか分からない。
『絵名から絵を取ったら後に何が残るって言うのよ』
ふと、思い出されるあの言葉。誰が言ったっけ。思い出せない。言われた覚えはある。けれどその主は一体誰だっただろう。
分からない。分からないけれど、何故かその言葉を思い出したと同時に私の中に渦巻いていた真っ黒いドロドロしたものが、少しだけ洗い流されていく様な気がした。
『感情に素直で、曲がった事が大嫌いな女の子』
あぁ、そんな風に私を揶揄したのは一体誰だっただろうか。私の事をそんな風に言うのは一人しか心あたりはないが、それでも彼が私に言ったと言う確証はない。
言葉が出てくると同時に更に増す頭の痛さ。私は思わず頭を抱えて蹲る。
『私、絵名ちゃんの絵好きだよ。色んな色を使ってて、パワフルで』
確かに言われた。記憶に残っていなくても、言われた時の嬉しさは感覚で覚えている。
思い出せ、思い出せ。これは大切な記憶だ。私の、絶対に忘れてはならない大切な……。
『絵名の絵は人の心を動かす力がある』
其処迄思い出して、パッと、糸が切れた様な、狭い所から広大な場所に出られたかの様な開放感が私の中に広がる。
「……あなた、大丈夫? 具合が悪いなら直ぐにでも保健室に──」
「あ、えっと、大丈夫です。描きます」
頭を抱えて冷や汗を流している私を心配してなのか、試験官は私の顔を心配そうに見つめながらそう言った。先程までの私なら痛みに我慢出来ずに素直に従っていただろう。けれど私から出た言葉はそれを断る言葉であった。
試験官は依然として心配した面持ちだったが、私の意思を尊重してくれるようでその場から立ち去る。そんな行動に内心で感謝をしながらキャンバスに向かう。先程の頭痛は何処へやら。今の私にはただ目の前のキャンバスしか視界に映っていない。
本当の私が分からない? それはそうだろう。中学生で本当の自分が分かる人間なんて、殆どいない。みんな自分と向き合い、手探りで己と相手を模索している途中だ。
けれど、それで良い。それで良いはずである。
迷いが晴れたように、私は筆を動かした。本当の私じゃなくて良い。みんなが褒めてくれた、受け入れてくれた私を描こう。いや、迷いが晴れたは例えが不似合いだ。迷いは確かに未だ健在だ。何方かと言えば覚悟が決まったと言うべきか。
我儘で、直ぐ感情的になって、甘い物が好きで、絵に対して貪欲で。負けず嫌いで、自分の言った事を決して曲げない。そんな不完全な私。
「────あ」
思い出した様に、私は呟く。蚊の鳴く様なその声は、誰の耳に届く事はなかった。
思い出すは雪平先生に出されたあの課題。己の大切なものを描くというその課題は、私を限界の限界まで追い詰めた。今の感覚はそれに似ている。
雪平先生がこんな状況を予測していたかは知らない。ただ一つ、あの課題があったから今私は正常心を取り戻す事が出来たのかもしれない。
簡単なことではない。けれど今の私には活路が少しだけ見出せていたのだ。
描こう。がむしゃらではなく、己と向き合う為に。私は今、合格なんて関係なしにこの絵を完成させたい。そう思いながら私は鉛筆を動かした。