呪術のセカイ   作:猫山紅葉

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貴方と離している時は、何故か心が安らぐのだ。だから貴方を守るためだったら命さえも惜しくない。そう思ったのだ。


第二十六話 少しの安らぎ

 朝から降っている雪は矢張り夕方になっても止まず、私は一人、人気のない道路を歩いていた。マフラーで口元を覆っているが、鼻頭は寒さに晒され取れそうな程差寒く、痛かった。本来なら伊地知さんが迎えに来てくれるのだが、私は伊地知さんに連絡を掛けて歩いて帰ると伝えたのだった。確かに此処から屋敷まで随分遠いが、それでも頭を冷やしたかったのだ。

 

 納得のいく絵は、描けたと言えば嘘になるかもしれない。けれど今の私の実力で残力では描けた様な気がする。それでも一人で考える暇が欲しかった。流れに身を任せては一人になれる時間すらないのだ。

 

 帰路にある橋を渡る。川から吹き抜ける冷たい風が、矢張り体を震わせる。一人になりたいとは言いつつ、今になって伊地知さんが運転するあの暖かな車内が恋しくなってしまう。今からでも電話を掛けてしまおうか。

 

 ──いや、辞めておこう。伊地知さんを振り回すのは忍びない。

 

 ではこれから絵画教室に行こうか。それも否だ。緊張から開放された今、あまり他人とは会いたくはない。じゃあ何をするか。それはまぁ、一人反省会だ。

 

 反省は、大事である。後悔はしなくても良いが。

 

 色の塗りは……多少は上手く塗れたがまだまだ改善の余地はありそうだ。構図もまぁ、大丈夫だろう。

 

 けれど、いくら反省しても、己に向き合えた事には変わりない。それで良い筈である。

 

「けどまぁ、まだまだ良い絵は描けたのは本当だけどね」

 

 そう呟いて、空を仰ぐ。空は依然として灰色であった。反省の余地はあるが、もう一度あの絵を描けるかと言われればはっきり言って描けない。あれはあの衝動で描けた物であり、今の私が描いたとてそれはなんの意味もない絵になってしまうだろう。

 

 ふと、視界の端に橙色の髪をした少年が映る。その少年は電柱に凭れ乍らスマートフォンを触っていた。

 

「……彰人。何でいるの?」

「おう。終わったか」

「質問に答えなさいよ。何で居るの? 学校は?」 

 

 その正体は我が弟の彰人だった。今の時間はまだ授業が終わっていない筈だ。それなのに何故か彰人は中学校から距離があるこの地域に恰も当然かの様に堂々と立っているのだった。

 

「別にどうでも良いだろ。で、どうだったよ」

「どうでも良くないでしょうに」

 

 そう言って彰人の反抗期染みた態度に呆れ、溜息をつく。きっとサボったのだろう。彰人は真面目な人間だが、それが学に傾く事は一回も無かった。少しは勉強すれば良いのにと思うのだが、彰人曰く、テストの山勘が当たればそれで良いらしい。その山勘とやらが外れたらどうするんだろうと思いつつ、私は敢えてそれを黙ってた。別にそれを伝える程、私はお人好しではない。それで追試になっても身から出た錆というやつだ。

 

「別に。普通よ。少し手応えがあったくらい。あんたに心配される程じゃないわ」

「そうかよ」

 

 そう言って、彰人は私の頭を乱暴に撫でる。頭上に積もった雪が地面へ落ちる。

 

 弟の癖に生意気だ。そう思ったが、それでも何故かその手を振り払う事は出来なかった。

 

 久し振り──という訳ではない。けれど少し合わないだけでも彰人の身長は瞬く間に大きくなっていく。弟の成長は嬉しい筈なのに、少し寂しい気がするのは何故だろう。彰人の手も、体も、昔より大きくなった。けれどそれに伴い何処か薄くなって言っている様な気がした。

 

 気がしただけで、気の所為かもしれないが。

 

「ちょっと。そろそろ離れなさいよ。周りに姉弟って思われたら最悪じゃない」

「そもそも本当に姉弟なんだよ舐めんな」

 

 そう言って今度は強く私の頭を掴む。割れそうな痛みが私を襲い、思わず叫んでしまった。

 

「ちょ、いっだい! 何すんのよ! 放しなさいよ! 暴力反対!」

「おうおう。よえーな。それで良く自分が姉だなんて言えんな」

「はあ!? あんたねぇ……! 良い加減にしなさいよ。姉弟って言うんだったら私の事を尊重したらどうなの!?」

「だったら尊重できる所を見せたらどうだ」

「こんの……!」

 

 そろそろ我慢の限界に近づき、いっそ叫んで助けを呼ぼうかとした所だったが、意外にも彰人はすんなりと手を離した。力を入れていた為、私の体は後ろへよろけた。

 

「ま、元気そうで何よりだ。実家の方で我儘言ってねぇだろうな。あんまり困らせんなよ」

「言ってないわよ」

 

 言える訳がない。あんな空気で、あんな態度。いつもの私なら噛み付いている事だろう。然し彼らは呪術師。分が悪いと言うだけの話ではない。下手したら彼らの逆鱗に触れてしまったら最後、私はもう翌日の朝日は拝めないだろう。例え東雲の娘と言う立場故そんな事態は避けられても、今後の立場は危うくなる。祖父が庇ってくれればまだ良かったのだが、祖父は最早宛にはならない。

 

 居場所が無いと言われればそうだが、私自身、彼処を居場所にしたくないと言うのが本音だ。あんな腐った所を居場所にだなんて、死んでも嫌だ。

 

 一年で、彼処がどれほど腐った場所かと言うのを嫌と言うほど思い知った。

 

 保身、世襲、高慢。血筋を重要視する人間を、沢山見てきた。それこそ時には吐き気を催す程の理不尽も目の当たりにして来た。

 

 夢だと思いたかった。けれども頬に走る痛みがこれを現実だと思い知らされる。

 

 こんな現実は、彰人には絶対教えないけれど。

 

「そう言えば、あんたこれから暇?」

「何だよ。またパシリか?」

「そんな訳ないでしょ。何処かカフェに入ってお話ししましょうよ。奢ってあげる」

 

 私がそう言うと、彰人は眉間に皺を寄せ身を抱いて距離を取る。

 

「お前が、俺に奢る……? 明日は槍でも降るんじゃねぇか?」

「ほんっと失礼なやつ……!」

 

 腹が立ち、握り拳を強く握る。この拳を彰人にぶつけてやろうかとも考えたが、その手を抑える様に後ろに隠した。もう私はさっきの喧嘩で気力を無くした。試験で凡その体力が消耗されたのだ。

 

「行くの? 行かない?」

「お前が誰かに奢るなんてそうそう無いからな。行ってやるか」

「私だって人に奢る事はあるわよ」

 

 全くもって心外である。私だって彰人に奢った事は無数にある。まぁ、それのどれも彰人に頼み事(パシリとは絶対に言わない)の後だったりするのだが。それでも奢った事には変わりないだろう。

 

 私は彰人を一瞥してから背を向け歩き出す。

 

 此処は一度来た事がある。任務で近くの墓地に赴いたのだ。人の先入観とは恐ろしいもので、墓地が怖いと言う感情が一斉に集まり、一級相当の呪霊が現れてしまったのだ。その時は冥冥さんと一緒に祓ったので事なき終えたが、もし私一人だけだったらと思うとゾッとする。

 

 ともあれ何とか任務が終わり、補助監督さんの車に乗っていた時の事だった。車窓からとても雰囲気の良いカフェを見つけたのだ。その時は時間がなくていけずじまいだったが、今は絶好のチャンスだ。幸いにもこの後の予定はない。私は軽い足取りで件のカフェへ向かうのだった。

 

 

 

 

 落ち着いたバラードの曲が店内に流れているカフェの名前は、『bonheur』と言うらしい。意味はフランス語で『幸福』。どんな意図を込めて付けられたかは知らないが、成る程、確かにこの雰囲気は幸福と言っても差し支えが無い。この音楽を聴いていると何処か心が安らいだ。

 

「何飲む? 何でも良いわよ」

「じゃあ、ホットココアとパンケーキ」

「分かった。すいませーん」

 

 彰人の注文品を聞き、私は少しだけ声の音量を上げて店員さんを呼ぶ。店員さんは意外にも早く此方に来て私たちの注文を丁寧にメモを取りながら聞いていた。それから復唱をにながら確認をして奥に帰って行った。それから五分も経たない内に彰人の頼んだホットココアと私の頼んだカフェオレがやってきた。

 

 一口飲んで、程よい苦味と甘さが混在してまろやかな旨さが口内に広がる。うん。確かに値段の相応で美味しい。

 

「どう? 美味しい?」

「……まぁ、悪くない」

 

 素直じゃない奴だ。それは、私も同じか。

 

「それで、最近はどうなの? 相棒くんとは上手くやれてる?」

「まぁまぁだな。取り敢えず場数を踏まなきゃって、色んなイベントに出てる」

「へぇ、私も見に行こうかしら」

「絶対やめろ」

 

 そう言って彰人は苦虫を噛み潰した顔をした。彰人は私にイベントの様子を絶対に見せたくないらしく、どころかお世話になっている喫茶店も紹介してくれない。これはどれだけ頼んでも無理だった。まぁ私も無理に見に行こうとは思っていないが。

 

 けれど、それだけ本気なのだろう。本気であの伝説の夜を越えようとしているのだ。歌い過ぎて喉を枯らさないと良いが、ついこの間私も絵を描き過ぎて倒れてしまったばかりなので偉そうな事は言えない。

 

 ……いや、倒れた張本人だから言える事もあるのか?

 

「で、其方はどうなんだよ。試験、手応えあったんだろ?」

「えぇ……そこ詳しく掘り下げちゃう? まぁ確かに手応えあったけどさ、それでも少しだけ自身ない。もし落ちてたらどうしよう」

 

 対策していたとは言え、まさか今年に限って例外的な自画像だったなんて、誰が思おうか。此処数十年はデッサン試験な筈だし、抑も彼処の学校は〝見た儘を正確に描く〟と言う基礎に重きを置いている校風の筈だ。なのにあんな〝自画像〟という抽象的なお題だなんて、それこそ基盤が歪んでしまうのではあるまいか。他の受験者達も少なからず戸惑っている素振りは見せていた。

 

『受かると良いなぁ。頑張っておったもんなぁ』

 

 今朝祖父が発した言葉が脳裏を過ぎる。

 

 いや、まさかね。

 

 恐ろしい可能性が思い浮かび、それはないと除外する。いくら祖父でも学校に脅しをかけてわざと私を落とす様に仕向けるだなんて、そんな恐ろしい事はしないだろう。

 

 そう思いたい。けれどもそんな恐ろしい事を平然として退けるのが我が実の祖父なのだ。いくらそんな事はしないと思っても、しても可笑しくは無い。

 

 まぁ、そんなあるかどうかも分からない、本人に聞けもしない事に思考を費やしても時間の無駄である。

 

「俺は絵の事はわかんねぇし、受験も経験してねぇから偉そうな事は言えないけどさ」

 

 彰人の言葉に引っ張られ我に返る。彰人の方を見れば、彰人は雪の降っている外を眺めていた。

 

「ま、自身持って良いんじゃねぇの。お前の努力は俺も知ってるし、何よりお前自身が自分の努力を知ってんだろ」

 

 彰人にしては珍しく素直な激励であった。予想外の言葉に、私は目を丸くした。

 

 確かに彰人は生意気で、可愛くない弟だが、それでも他人を気遣える人間である事には変わりはなかった。そんな弟の言葉が何処かむず痒くて、外方を向く。

 

「ふん。何よ彰人のくせに。生意気」

「テメェ、人が下手に出てりゃ図に乗りやがって」

「載ってないわよ。でも、ありがとね」

 

 弟が素直になるのなら、私も素直になろう。いつ死ぬかも分からないこの身。もしかしたら明日死んでしまうかもしれない。だったら、今しか言えない事は、今この瞬間に口にしよう。いつでも言える事は、今日でも良い筈だ。

 

「……お前が素直なのはなんか気持ち悪ぃな」

「………………」

 

 あぁ言えばこう言う。売り言葉に買い言葉。一つ素直にあれば百つっけんどんが帰ってくる。こんな所が私たちは似てしまったのだろう。愛莉はよく私たちの事を似ていると言っているが、もしかしたらこれなのかもしれない。

 

「て言うか彰人。私の事より彰人の事聞きたいんだけど。相棒くんってのはどんな子なの? 良い子?」

「あ? 何だよ急に」

 

 私の言葉に怪訝な顔をしながら身を反らす。急に私が彰人の事について興味を示したから不思議に思ったのだろう。いや、どちらかと言えば不審に思ったと言う顔だ。失礼な。私だって他人に対して興味はある。

 

 彰人は考える素振りを暫く続ける。なんだ。考える程に性格が歪んでいると言うのか。

 

「良い奴では、ある」

「何その含みのある言い方」

「いや、良い奴なんだが世間知らずの気があるんだよ。彼奴の家庭は音楽一家でさ、両親も兄もクラシック一本でやってだんだが、彼奴は父親の厳しい教育に嫌気がさしてストリートの道に入ったんだとよ。けど今迄抑圧されて育ったからか俺達が知っている事を全く知らないなんて事はザラにあんだよ」

 

「それはそれは、大変な事ね」

 

 つまりは私の境遇が産まれてからずっとだったわけだ。それは逃げたくなる。

 

「初めストリートを始めた理由を聞いた時はそんな巫山戯た理由でって腹が立ったんだけどよ、それでも彼奴、歌がうめーの何の。すぐに俺の相棒は此奴しかいねぇって思ったな」

 

 そう語っている彰人の顔は、心の底から嬉しそうであった。

 

 本当に、良い相棒くんなのだろう。そんな相棒くんと出会えた事に、心の底からホッとする。弟が楽しそうで、本当に良かった。

 

「お待たせしました。ご注文のパンケーキとレアチーズケーキでこざいます」

 

 このタイミングで、店員さんがやっと品を持ってきてくれた。持って来た瞬間、彰人の顔がこれ以上にない程に綻んだ。それを見て、私も頬が緩む。いくら生意気になろうと、こう言うところは変わらない。

 

「さ、取り敢えず食べましょう。彰人の話、もっと聞かせてちょうだい」

 

 彰人は口では悪態を吐くも、それでも嬉々として話してくれた。その話があまりに面白く、時間を忘れて聞き入ってしまう程だ。

 

 いつか、彰人の相棒くんにも会いたいな。そう思いながら、優雅な曲と共に愛すべき弟の話に耳を傾けるのであった。

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