合格発表迄の間は宙ぶらりんとは良く言ったもので。試験も終わり、後は発表を待つだけなのだが、私はキャンバスに絵を描きながらぼうっと日々を過ごしていた。今迄受験の為に我武者羅に描いて来たのだが、今はただ何の為に描いているのか。
いや、それでは駄目だ。画家になる為に描かなければいけないのに、受験合格をゴールにしてしまっては本末転倒だ。
けれど矢張り受験に合格しないと話は始まらない訳で。その間に私が何をするべきなのか未だに解を導き出せないでいた。
まぁ、こうしている間にも任務は容赦なく入れられるのだが。今日も午後から新宿方面へ赴かなければいけない。その間に絵を一枚仕上げようと思ったのだが、どうしてか筆が進まない。今迄の焦りではなく、明確な虚無感。これが所謂燃え尽き症候群というものなのだろうか。いつの頃から流行った言葉かは知らないが、それでも今の私を象徴する言葉としてはこれ以上にない程適役だろう。
けれどこうしてはどんどん画力が落ちていってしまうわけで。何かしら描かなければいけないのだが、一体何を描けば良いか皆目見当もつかないのだ。試しに庭園の様な自室から見える庭を描こうと思っても思い通りの絵にならず結局その紙はゴミ箱に丸められている。
「──あー駄目だ。全然描けない。なんでこうなのかしら」
いくら構想を練っても、どうしてか良い絵が描けない。もう駄目だと筆を投げようとするも、矢張り何をしてなくても落ち着かないので、またキャンバスの前に戻る。そしてまた悩むの繰り返し。早朝から繰り返しているこの行動に、もうもううんざりしていた。だからと言ってどうする事も出来ないのだが。
考えが纏まらず、息抜きと称して現実逃避の為にスマホを開く。起動させたのは私が良く使用しているピクシェアであった。
「ふふ、今日もいいね沢山ついてる」
先日投稿したチーズケーキの写真に、1000いいねがついており、私は思わず顔を綻ばせる。我ながらいい写真が撮れた。今度は何を投稿しようか。最近はカフェの写真を投稿していたから、偶には景色の写真も良いかもしれない。
日常アカウントのフォロワーはもう1000人を超えている。まさか此処迄見てくれるとは思っておらず、その勢いに私自身、とても驚いたものだ。最早怖い程に。
──けれど。
「……絵のアカウントは、何も増えてない」
アカウントを移動して、絵を投稿しているアカウントを見ても、フォロワーどころかいいねも何も増えていない。増えていないどころか、何もない。何も反応されていないのだ。それこそ、泣きたくなる程に。
何が駄目なのだろう。構図も、発想も悪くない筈なのに、どんなタグをつけても一個のいいねも閲覧も増えない。
「て、そんな考えが駄目なのよね。これから学べば良いし、私はまだ十五歳。まだまだ時間がある」
そう自分に言い聞かせる様に、少しだけ大きな声を出して口にした。言霊と言う物が本当にあるのなら、私を奮い立たせてくれるかもしれない。けれど私の言葉は虚空に消えて何の効果もない。どうやら言霊は実際になかったらしい。
諦めて椅子に座り、キャンバスに向かう。題材は矢張り庭の景色。私の部屋から見える庭はとても綺麗に保たれており、何も知らない人物が見たら日本庭園に見紛う程迫力のあるものであった。広大な敷地。年中咲いている水仙の花畑、何を奉ってあるかも分からぬ神社。それに連なる無数の鳥居。橋の架かっている池、何処から流れているか分からぬ魚が游いでいる澄んだ川。最初来た時は全てに驚いていたが、今となっては最早生活の一部となり、慣れてしまっのである。
描くとなれば矢張り最初に感じた驚きを表現したいのだが、いかんせん今の私には思い出す事は叶わない。これも記憶障害の所為なのだろうか。そう思うとなんだかやりきれないような、悔しさの様なものが私の中に浮かぶ。落ち込んでもしょうがないとはいえ、矢張り悲しいものは悲しいのだ。
私はどうすることも出来ない虚無感に襲われ、椅子からゆっくりと落ちて畳の上に寝転がる。こうしても私を叱ってくる使用人は今は居なかった。まぁ、足音が聞こえたら急い起き上がり体制を整えればそれで構わない。
絵を描く以外にすることはなく、かといって絵を描くことも儘ならない状況は、悲しいよりも、辛いよりも、何だか暇であった。
暇潰しに天井の木目を数えて見ても、直ぐに飽きた。では埃の数を数えようと部屋の角を見ても、なんと言うことだろうか、この部屋どころか屋敷には埃一つ一ミリも落ちていなかった。当たり前である。屋敷に埃一つ落ちていれば一人の命が消える。そんな家だ。そんな家に埃どころか汚れ一つあるわけがなかった。全くもって理不尽極まりない。埃なんて、生きていれば湧いてくるものを。それすら赦さないのは流石に心が狭すぎではなかろうか。
「……息抜きに何処か遊びに行こうかしら」
そう呟いて、けれども直ぐに却下した。午後から任務だと言うのにそんな時間はない。たまには買い物にも行きたいが、次々と任務を入れられ行く暇もないのだ。
では私の服は何処から仕入れているのかと言えばそれは専ら政治家や国の重鎮の人によるご機嫌伺いと言う名の贈り物である。それら全ては高級品であり、今迄の私からしたら手が出せなかった代物であった。中には私の好みではない服もあったが、それでも面子と言うものがあるのだろう。使用人は送られた服を着ろと無理矢理服を選んで来るのだ。
そんな面子なんて、私にとってはどうでも良い。けれども迫真の様な周りの態度に圧され、仕方なく好みでない服を着ているのだった。今この服だって決して自分で選んだ服ではない。私だって十五歳。思春期真盛りの女の子。自分の着たい服を選びたい。けれどもそれすら赦されないのが東雲家と言うものである。
まるで冷たい鉄格子のような家である。
「あ、そうだ」
唐突に思いつき、私はとある人間に電話をかける。出てくれるかどうか分からない。けれど駄目で元々。出てくれることを祈ろう。
ワンコール。ツーコール。スリーコール。
五回目のコールでもう諦めようと思ったが、以外にも六回目のコールで件の彼女は私の問いに答えてくれた。
『もしもし、絵名。どうしたの?』
「あ、もしもし? ごめんね急に電話して。今大丈夫? 仕事じゃなかった?」
『今日はオフなのよ。それで、どうしたの?』
私がかけたのは、親友の愛莉であった。もしかして仕事かなと思ったが、その心配は杞憂であったようだ。
「いや、なんか用があった訳じゃないけど、何だか誰かと喋りたくって」
『ふふ。なあに?絵名にしてはえらく素直じゃない』
「もう、からかわないでよ」
愉快そうな愛莉とは対照的に、私は何だか悔しい様な、むず痒い様な感じがしてぶっきらぼうに返してしまった。
『どうする? 今から会って話す?』
「あーごめん。私午後から予定あるのよね。此方から電話かけたのに、勝手で御免ね」
『あら残念。ま、そんな日もあるわよね』
私の場合、そんな日しかないのだが。けれどもこうして電話越しでも愛莉と話せるのは有り難かった。愛莉には振り回してしまって申し訳無い話なのだが。
さて、何を話そうか。電話をかけたのは私なのだが、いかんせん話題と言うものがない。実際に顔を見て話せば考えずとも話題が溢れて来るのだろうが、電話越しだと話題探しに困る。勿論当然の如く呪術の事については絶対に話せないし、学校の話題も愛莉以外に友人が居ない身としては学校の話題もない。あるとしたら精々理科室の部屋の内装が微妙に変わったくらいだ。それを言われても愛莉としてはだからどうしたとしか言いようがないだろう。
では何があるか。此処は矢張り──。
「試験、どうだった?」
身近であった大きな出来事と言えば、矢張り受験だろう。私の方は色々あったが、愛莉の方はどうだったろうか。順調にいったのだろうか。
私の考えとは裏腹に、電話越しで愛莉は乾いた笑いをしていた。
『あぁ、聞いちゃう? それ』
何があったのだろうか。
少しの好奇心に促され、私は愛莉の話を深掘りした。
愛莉の口から聞かされたのは、流石愛莉と言わざるを得ない様なあまりに面白過ぎる内容であった。あまりの可笑しさに、私は周りの事など忘れ大声で笑ってしまった。
『ちょっと、笑わないでよ。こっちだって大変だったんだから』
「ごめんごめん。でもあまりに可笑しくって。だって受験票は飛んで木に引っ掛かったと思ったら烏に持って行かれて、散々追いかけ回した挙句、最終的に宮女の屋上に止まって試験開始より早く学校に入る事になったなんて、ふふ、あっはは」
愛莉の話を反復して、我慢出来ず吹き出す。そこは親友らしく、慰めた方が良いのだろうが、あまりに突拍子も無さすぎて笑ってしまった。けれどそこで折れず最後まで喰らい付くのが愛莉の良い所であり、尊敬すべき所でもあった。
暫く笑い、漸く落ち着いた。けれど愛莉の話を思い出すとどうしても吹き出してしまい、どうも駄目だ。電話の向こうでは、愛莉が苦しそうに唸っている。
『もう、私の話は良いでしょ! 絵名の話を聞かせなさいよ!』
「ふふ……いえ、私のは普通よ。普通に学校に行って、普通に試験受けて、普通に面接して、普通に帰った。それだけ。愛莉の話の後じゃあ、パンチもクソもないわ」
『な、なんか腹立つわね』
けれど本当の事である。いくら私があの時悩んでいようと、それは愛莉には関係が無い訳で。それに愛莉の話の後だとどんな話をしようともつまらない駄作になってしまう他ない。
「あぁ、でも帰りに彰人にあったわ。なんか私に会いに来てくれたみたい」
『あらそうなの? 本当、良い弟くんよね、彰人くんは』
「……そうね。今回に限っては同意だわ」
『限ってじゃないでしょ。彰人くんはいつでも良い子じゃない』
「そう? 愛莉って意外と見る目ないのね」
『あんたねぇ』
そう言って、愛莉は呆れた様に笑った。愛莉は彰人を買い被り過ぎだ。彰人はお人好しだが、愛莉が思っている程聖人君子でもない。我儘だし、生意気だし、口が悪いし、食べるなって言ってたチーズケーキを勝手に食べるし、姉である私の事を一向に敬おうとしないし。
今思い出してもムカつく。本当に生意気な弟である。
けれどまぁ、夢に向かって頑張っている事は認めざるを得ない。どうかこのまま曲がる事なく真っ直ぐに夢に向かって走り続けて欲しいものだ。
「……愛莉?」
回想をしている間、愛莉はずっと無言であった。いつもは途切れる事がない私達の会話だが、今日は珍しく愛莉ほ脳の声が偶々途切れる。
『…………絵名、本当に何も無いの?』
「え?」
愛莉の突然の言葉に、私は思わず聞き返す。
「突然どうしたの? 何も無いわよ」
『私はね、絵名。確かに私は絵名の問題を振り払う力を持ち得ないかもしれない。そんな技量も、持ち合わせていない。けど、話を聞く事は出来るの』
「愛莉……」
愛莉の言わんとしている事は分かる。隠せてると思っても、己が思っている以上に外に出ていた様だ。しょっちゅう会っている訳でも無い愛莉にバレる程。
まぁ、当然である。今迄ただの中学生だった親友が、毎日怪我をして学校に来るようになったのだから。私だって逆の立場なら逃げ場を無くしてでも愛莉に聞き出す。
けれど、駄目だ。
「────何でもないよ。何もない。心配しないでよ。私は愛莉の知っている東雲絵名なんだから」
『絵名……」
悲しそうな、悔しそうな愛莉の声を聞いて、胸が締め付けられる。けれど駄目だ。
この事は絶対に愛莉には伝えてはならない。
けど、何よりも駄目なのはこの私だ。
本当に駄目だな、私は。此処迄理解しているくせに、まだ愛莉に甘えたいと思っている自分がいる。そんな事は絶対してはいけないのに。
「でも、有難う。愛莉のその言葉だけで、救われるよ」
これは本音である。愛莉が私を大切にしてくれている。そんな事実が堪らなく嬉しい。泣きたくなる程に。実際、愛莉の言葉を聞いて、目頭が熱くなり
喉が苦しくなった。
けれど、そんな愛莉を騙す様な真似は、矢張り心が傷んだ。
「そっか。変な事を聞いて御免なさいね」
そう言って、愛莉は身を引いた。その言葉に、また胸が痛む。
恐らく、納得はしていないのだろう。けれど私の様子を見て、(正確には聞いて)踏み込む事は逆効果だと悟ったのだろう。この場合、見て見ぬふりが一番の最適解なのだ。
冷たい風が室内に入り込む。私の心も、立場も、立っている場所も、何もかも、宙ぶらりんであった。宙ぶらりん。己ではどうすることも出来ない虚無感。私はその空気に流される様に、畳に倒れ込んだのだった。