冷たい風に身を震わせながら、寒空の下を歩く。受験日の時とは違い雪は降っていないが、冷たい空気は変わらなかった。それでも寒さはだいぶ緩和された様で、今ではマフラーを巻かなくても凍えるという事はなかった。
時間が過ぎるのは早いとは良く言ったもので、あれよあれよと任務や絵画教室の課題をこなしていたらいつの間にか合格発表当日になってしまったのである。いや、いつの間にかでは無いのかもしれない。考えない様に目を逸らしていただけかもしれない。それでも今日までの数日は虚無感で一杯だったくせにいやに時間が過ぎるのが早かった。
そう言えば宮女の合格発表は私の受けた高校より少し早かった様で、数日前に受かったと嬉しそうな声で電話が来たものだ。その時は私も自分の事の様に嬉しく思い、合格祝いに愛莉の好きそうな服を郵送で送ったものだ。何やら愛莉は戸惑っていた様だが、それが私のお祝いの気持ちだという事で受け取って貰った。
そして、私の番だ。今度は私が合格して、夢を掴む番である。
校門に立ち、大きく息を吸う。どうやらもう合格発表の用紙は張り出されている様で、遠くで歓声が轟いている。その声が波となり私に押し寄せる。それはまるで大きか津波の様に。
「……行かなきゃ」
そう、無意識に呟きながら声の聞こえる方へ歩き出す。前に進んでいる筈なのに、校門から彼処までそう遠くない筈なのに、私の足に鉛でも埋め込まれているかの様に進む足が重い。いっその事このまま一生辿り着かなければ良いのにとも思ってしまう。
すれ違う人々は嬉しそうな顔だったり、泣きそうな顔だったり。何なら感情も読み取れぬ程無表情だったりと様々であった。それすら見たくないと思い、私は下を向きながら歩く。任務で死地を超えているからか人間の気配を読み取って人を避けながら歩く事が可能だが、もし前までの私であったなら五秒に一回は人どころか建物や柱に打つかっているだろう。この時ばかりは呪霊を祓っていて良かったなと、心の底からそう思う。
数十年と錯覚する程に──いや、もしかしたら一瞬の出来事の様に思えたのかもしれない。けれども私が悶々と考えている内に、人集りにたどり着いてしまったのだ。
あぁ、とうとう辿り着いてしまった。いや、こんな考え方はあまりにも好ましくない。此処迄来てしまったらもう覚悟を決めなければ。
いつの間にか手の中でぐちゃぐちゃに握りしめていた受験票を広げる。手汗が出ていたのだろう。少し紙が湿ってしまっていた。受験番号は『2678』。それを確認して、私はゆっくりと顔を上げる。ずっと顔を下げていたから気が付かなかったが、意外と合格発表を見に来ている人間は多い様であった。
「2678……2678……」
そう呟きながら、上から順に目を凝らしながら確認する。矢張り番号は全て書かれている訳ではなく、どこかしらが抜けて表記されている。分かってはいたけれど、いざ目の前に叩きつけられると己の事の様にドキッとする。
探して、探して、探して。そして脱力した。
探し物は、どうやら見つからなかったらしい。見落としや思い違いもあり得ない。
無い。無い。無かった。
私の番号が、無かった。
前の番号と、後ろの番号はあるのに、私の番号だけまるで初めから存在していないかの様であった。
夢かと思い、己の頬を抓る。まだ癒えていない傷を強く握る。けれどそんな想いとは無情にも砕かれ、私は膝から崩れ落ちた。
目の前が真っ暗になったとか、そんな生優しいものでは無かった。地面が崩れ去る様な、死に直面した様な錯覚を覚えた。呪霊に遭遇したより、父に夢を否定された時より、己が分からなくなった時より、そんな事すら些細な事と思ってしまう程に、心を串刺しにされた。有り体に言えば絶望した。
私は、私の全てを賭けていたであろう高校受験に、落ちてしまったのだ。
♢
「おかえり。どうだったんじゃ?」
「……あんたには関係ないでしょ」
合格発表から帰ってきたら、意外にも祖父が玄関先で待っていた。矢張り傍には使用人が控えていた。
一番会いたくない人に、出会ってしまった。
悲しさやら、絶望やら、不快感やらがごちゃ混ぜになり、私はぶっきらぼうにそう言った。けれど祖父はそんな私の様子が愉快だったのか、「はっはは」と声を上げて笑った。そんな姿に、矢張り腹が立った。
「まったく。関係ないとは何事だ。今後に関わる事だろう。可笑しな事を言うものだ」
「………………」
まったく、嫌な男である。
きっと祖父は分かっているのだろう。私が落ちた事も、私が今まさに最低最悪な気分だという事も。分かっていて、それでいて楽しんでいるのだ。私の反応を。
弱いからって、馬鹿にして。本当にムカつく。
けれど、本当の本当にムカつくのは、それすら言い返せない自分だった。
「落ちたのか」
そう言って、矢張り笑った。分かっている癖に敢えてそんな事を言うのか。矢張り根性が汚らしい。
私の沈黙が肯定の意だと思ったのか、先程より声を大きく上げて笑う。
「あっははは! そら見た事か。儂の言うた通りじゃ。お主に絵の才能はまったくない。これで分かっただろう。最初から言っておったのに、まったくお主は強情じゃのう。こうでもしないと己の事を俯瞰しようともしない。お主には才能がない。良いか、何度でも言うぞ。お主には、絵の才能がない」
『絵の才能が無い』
「………………」
言葉もでない。それは言い負かされたと言うより、こんな事を本人の目の前で言ってしまえる神経の図太さに呆れてしまっていた。最早彼の言う事に何の感情も湧かない。
普通の人間ならば、此処で慰めるであろう場面である。けれど彼は慰めの欠片も見せないどころか私の転落を馬鹿にした様に笑い飛ばしたのだ。成る程、人間は理解の範疇を越えると困惑しか出てこないのか。
人間……なのか。目の前にいる生物は。そう思う程に私は祖父に対して呆れ果てていたのだ。
「絵名、分かっているな。第一志望が落ちたらお前は今年度から呪術高専に通え。これは決定事項だ」
そう言って、漸く祖父は私の前から退いた。緊張の糸が解れ、私は思わずその場にしゃがみ込む。幸いな事に、私の周りには人っ子一人居なかった。
胃が軋む。腸が気持ち悪い。頭が痛い。吐き気がする。目がズクズクする。今になって今迄の代償と言おうか。負債が一身に降り注ぐ。こんな事なら、無理をするんじゃ無かった。
いや、無理をしなければいけなかった。
今迄のじゃ駄目だったのだ。まだ足りなかった。睡眠時間を削ってでも、食事を抜いてでも、描かなければいけなかった。それが出来ていなかったから、私は夢に敗れたのだ。それは私の自業自得であり、今ではもう取り返しのつかない事だった。
あの時こうすれば良かった。ああすれば良かった。そんな後悔が次々と湧いてくる。今更どうしようもない。けれども自分がもし違う行動をとっていたら違う結末が待っていたのだろうか。
結局、私の絵は誰にも認められなかったと言う訳だ。
そうして後悔の海に溺れていると、ふと、鞄の中に入れていたスマートフォンのバイブが鳴る。そう言えば合格発表の為に通知音を切っていたのだった。
段々と沈んでいく思考から逃げる様に、私は鞄を開けてスマートフォンを取り出す。画面に表示されているのは、私の大切で大事な親友の名前であった。その文字を見た瞬間、私の中にある何かが崩壊した。
私は縋る様に彼女に電話をかけた。
『あ、もしもし絵名? 急に連絡して御免なさい。その、今日合格発表の日でしょ? どうだったかなって……』
愛莉の申し訳なさそうな声が電話越しに聞こえる。その声を聞いて、私自身も申し訳なさでいっぱいになる。
私を一番応援してくれた人間と言っても過言ではない。そんな人に、最高の知らせが出来ない事が、どうしても申し訳無かった。
「……ちゃった」
『え? 何だって? ごめん、聞こえない』
「落ち……ちゃった。ごめんね、一番応援してくれていたのに」
『え……?』
愛莉の困惑した声が聞こえる。あぁ、こんな声、愛莉には絶対させなく無かったのに。此処で落ちてしまったは愛莉の応援を無駄にしているのと同じではないか。
それから、愛莉がどう声かけてくれたか覚えてはいない。慰めていた様にも思えるし、元気づける為に楽しい話題を振ってくれていた様にも思えた。けれども私は愛莉の励ましも虚しく、ただ自責の念に駆られていたのであった。
♢
柱に掛けられている時計の針の音が嫌に鬱陶しく、疲労により昼間はあんなに眠かったのにも関わらず、どうしてか目が冴えてしまっていた。久しぶりに日を跨ぐ前に布団に入れたと言うのに、どう言う訳なのだろうか。
いや、分かっていた。こんな心情のまま眠れる訳がない。明日も学校である。早く寝なければいけないのに、寝ようと思って目を瞑ってもそれは逆効果であった。
暇を潰そうと携帯を開く。通知欄には沢山のいいねがついていた。だけれどそのいいねは決して私の絵に向けられてはいない。私の上っ面だけのアカウントであった。
此処では、私を認めてくれている。私は生きてて良いよって、肯定してくれているとさえ思えた。
こんなに、簡単に。認めてくれている。
簡単に。
こんな、簡単。
「……馬鹿みたい」
携帯を伏せて、布団に潜る。こうしておけば、いつかは寝れるだろう。
針の音が響く。鳥の声が聞こえる。風の音が駆け抜ける。草木が擦れる。スマートフォンのバイブが鳴る。あまりに静か過ぎて、いつもは興味も示さない自然の音が、周りの音が耳にこれでもかと言う程届く。普通なら浸るところだが、今はどれも不快感であった。
全てが嫌で、拒絶したかった。
また、スマートフォンのバイブが鳴る。いつもの事だ。だけれどそれだけで充分であった。限界まで引き伸ばされていた私の精神は引き千切られ、気付いた時には、私は屋敷を飛び出していた。厳重に施錠されている門からではない。塀を飛び越え、普段は車で下る山道を、裸足で駆け降りる。足の裏に木の枝や石が刺さる。けれど今の私にとって、それはどうでも良い事だった。
逃げたかった。
何処かに、こんなぐちゃぐちゃな感情から逃げられるなら、本当にどこでも良かった。
月が嫌味の様に輝いている。寝間着で走っているからか足が絡れ、転ぶ。その時にはもう山の麓であった。此処から先を行けば、知っている道に出られる。私はよろよろと立ち上がり歩き出す。
行く宛など無かった。ただ夜道を歩くだけ。ずっと走っていたからか体が熱って暑い。
「って、わぁ!」
急に足の力が抜け、前に倒れる。アスファルトの冷たさが、頬に伝わる。それと同時に、足の裏の激痛に襲われた。後ろを振り返ると、歩いてきたあアスファルトが赤く染められている。そうか、痛いと思ったら、此処迄怪我をしていたのか。
夢だったら良かったのに。夢だったら、この痛さで目が覚めて、それから合格発表に伊地知さんと向かって、そこに私の番号が書かれてあって、愛莉も、彰人も、お父さんも、お母さんも、おじいちゃんも、五条さんも、家入さんも、冥冥さんも、伊地知さんも、狗巻くんも、おめでとうと言ってくれて、良くやったと言ってくれて、才能があるって言ってくれて、それで家に帰れて、絵を描き続けて──。
「あ……あぁ……う……うぐ……」
涙が溢れ出て止まらない。大きく泣ければ良かったのだが、けれども今の私は泣くのが下手くそな子供の様に、歪な嗚咽が小さく反響する。けれどそんな私を抱きしめてくれる人間はいなかった。
雨が降る。先程まで月が出ていたと言うのに、どう言う事だろうか。もういっその事雨と一緒に全てを洗い流してくれはしないか。全て、東雲絵名という存在を。
熱っていた体が、段々と冷めて行くのが分かる。それを自覚してからか、冷たい空気に体を震わせる。三月の雨の夜。こんな薄着で寒くない訳が無かった。
けれど、その雨も直ぐに止んだ。然しどうしてだろうか。止んだというのに依然として雨音が聞こえる。上を見て、その時漸く己に傘が差し出されている事に気付いたのだった。
後ろを振り返る。私に傘を差し出した人物は、私が泣きたくなる程に会いたかった人物であった。
「……狗巻くん」
「た、高菜?」
狗巻くんは私に傘を差す差しながら心配そうな顔をしていた。
こんな時間に中学生が危ないよ。
そう言えれば良かったのだが、私の口から出たのは言葉にもならない嗚咽だけだった。
「狗巻くん……狗、巻……くん……あぁ……」
膝を付いてしゃがんでくれている狗巻くんに縋る。
無様な姿だろう。けれど今の私にはそれすら考えられない程、我をなくしていた。こんなの、狗巻くんが困るだけなのに。
だけれど、狗巻くんは何も言わなかった。言わないでくれた。ただ私の傍にいてくれた。それがこの上なく申し訳なく、けれど少しの救いになったのだった。
♢
思えば、これは最初から仕組まれていた事なのかもしれない。私は無様にそれに気付かず、掌の上で転がされていたわけだ。
全ての始まりから一年が経った。桜が咲き誇る四月。私は真っ黒な制服に身を包み、東京都立呪術高等専門学校の門を潜った。