沈黙が流れる。それは昨晩と同じくらいの重さがあった。部屋には時計の針の音とキッチンから聞こえる水滴の音、そして外の風だけてあった。後少し、私の心臓の音も。こんなにも静かだと、耳鳴りが私の鼓膜を刺激する。しかしそんな音も、今の私には思考の外であった。私の全思考、全細胞は、一貫して目の前に座っている二人の私の親に向けられている。
真っ直ぐと、両親を見つめる。目を逸らせるのなら逸らしたい。けれど此処で逸らしてしまったら、私はきっとこれからもずっと逃げ続けてしまうだろう。それは絶対に嫌だ。どれだけ震えようとも、私はそれを振り払って突き進んでいかなければならない。それが、東雲絵名という人間なのだから。
なんて、まだ十四年しか生きていない人間が何を偉そうにと自分でも思う。
「……何を、言っているんだ」
沈黙を破ったのは、父の低く、太い声だった。その声は部屋によく響き渡った。その言葉が、私の心臓にズンッと落ちる。それが恐ろしく、思わず背筋が伸びる。しかし、それでも引く事は出来ない。力強く、血を止める程の力で握り拳を作る。
逃げるな。向き合え。そうでなければ私の望む人生は送れない。
「言葉のままよ。私は美術科を受ける」
「お前、自分で何を言っているかわかっているのか」
「そんなの知らない」
そうはっきりと告げる。そんな私に父は眉を顰める。それはそうだろう。娘が投げやりに似た言葉を間髪入れずにはっきりと口にしたのだから。
しかしそんな事、私には関係ない。私の言葉を聞かずに勝手に道を決めるのなら、私だって彼等の言葉を聞く義務はない筈だ。そんな想いも、私にとっては言い聞かせにしかならないのだが。
「勿論、あんたらの世話になんてならない。バイトしたりして自分で学費を稼ぐ。それなら文句はないでしょ?」
そう言って胸を張る。正直言って自信はない。受験勉強も当然ながら、絵の勉強をしながらのバイトは厳しいだろう。しかし、やるしかない。自分の道を決めて歩むというのはそういう事だ。
自分の責任は、自分で取る。それが自分の決断に責任を持つと言う事だ。
「考えたの。絵を描かない私を。あんたらの言う通り呪術高専に入って、それから如何過ごすのか。呪術師はどんななのか想像が出来ないけど、多分、毎日死んだように生きるんだと思う。そんなの、絶対に嫌だ」
簡単なイラストなら、描くかもしれない。だけどきっと、後悔する。絵から離れて、それでも忘れられず、絵画教室に通う同期たちが成長する姿を指を咥えて見る。そんな屈辱、死んでも味わいたくない。考えただけでも眩暈がする。それだけ、私にとって絵は大切で、手放せないものなのだ。
両親は、その話を黙って聞く。その心中は私には全く分からない。そう、私には分からない事だらけだ。けれど、それでも此の儘では私が私でなくなってしまう。私が、亡くなってしまう。それだけは分かる。
今思うと、きっとこれは恐怖ではない。きっと私は、悲しかったのだ。お母さんに打たれた事が、父に才能が無いと一蹴された事が、二人に否定された事が。今でも怖いし、泣きそうだ。
歯を食いしばる。意を決す。それは想像以上に辛く、厳しいものだ。今すぐにでも逃げ出したい。無意識に足が玄関へ向かう。本能的に逃げたいと感じているのだろう。この空気を吸うだけで胃から何か迫り上がってくる。
足に力を入れる。嫌な空気を、肺一杯に入れる。
「だから、お願いします。美術科に行かせてください。二人には迷惑はかけませんから」
頭を下げる。産まれて初めての事だった。本当は、彼等に頭を下げるのは本当に嫌だったが、虫唾が走るが、それでも此方はお願いしている立場故にである。致し方がない。
またも沈黙が流れる。その空気は張り詰めており、
喉が、カラカラになる。これが私の最後のチャンスだ。これを逃せば私はもう二度と筆を取ることは許されないだろう。そう思うと自然と足が震える。けれど逃げ出す事は許されない。それは私が己に課した試練である。
「お前、何か勘違いしていないか」
父が、口を開く。その声は氷の様に冷たかった。その言葉に、私は思考が停止する。想定外で、予測していなかった言葉であった。
「お前は俺たちが呪術高専に通う為にあんな事を言ったと思っているのか? それはお前の勘違いだ」
「何……言って──」
「お前に画家になれる程の才能がないと言ったのは本心だ。今のお前では画家どころか美術科に入ることすら出来ないだろう」
脳が揺れる。一瞬の出来事で理解が追いつかない。それは昨晩程ではないのだが、それでも私が狼狽えるに足る充分な言葉だった。そして理解したと同時にぐるぐると、まるで高速で回ったかのような気持ち悪さが、吐き気が襲ってくる。
「もう一度言う。お前は、画家になれる程の才能はない。努力に足る才能があれば、少しは違ったかもしれないがな」
「そん……でも……」
言葉が出て来ない。
父の、言う通りである。心の何処かで父が私に対して
父は、最初から嘘なんてついていなかった。最初から最後まで、一から零まで本心でしか喋っていなかった。
それに気付けなかったのは、他ならぬ愚かで哀れな私だった。
「……じゃあ、私が今迄ずっと絵を描いてきたのも、全部無駄だったって事?」
絞り出した声は、掠れていた。聞いていて恥ずかしい程に、私は情けなかった。
「才能が無いから、努力しても意味が無いって事?」
父は一瞬黙る。そして閉じていた目を開き、真っ直ぐと私を見た。
「……そうだ。少なくとも、この世界はそう言う世界だ。今のお前に、可能性はない」
息を呑む。昨晩より、打たれたより、強い衝撃を受けた。
才能が無い。
努力の無駄。
可能性は無い。
そんな事を、他の誰でもない、一番尊敬している父に言われ、目の前が真っ暗になる。嘘で無いなら、冗談では無いなら、本当に私は──。
「良いわ」
「……え?」
母が、立ち上がった。ずっと黙っていた母が、徐に。そうして私の前に歩いてきて、止まる。
「やってみなさい。ただし落ちたら呪術高専に入りなさい」
「……良いの?」
「……本当は、良く無いけれどね」
そう言って、溜息をつく。その表情に、思わず私は罪悪感を覚えてしまった。決断を現実にする為に、本当はそんな事を思っては駄目なのだろうけど。それは私の意志の弱さなのだろうか。
「ただし、当初通り実家から学校に通って、呪いを祓いながらにしなさい。そうしたら流石に諦めも付くでしょう」
母の言葉は、母のそれではなかった。まるで他人と喋るような、そんな冷たい空気を孕んでいた。その空気を作っているのは、その鋭い程の目だった。
その眼光だけで人を切り刻めそうな程、貫きそうな程に鋭い瞳。その瞳に射抜かれた人間は、もう立ってもいられないだろう。吐く息ですら震えている。
けれど、そうではない。
私が思うべき想いは、抱くべき感情は、そうでは無いだろう。
「分かった。やってやるわよ。あんたらの力を借りないで、私の実力だけで受かってやるわよ」
己の恐怖を振り払い、宣言する。母も、父も、私をじっと見ていた。私も二人を真っ直ぐと見つめる。その空気は依然として冷たいもの。しかし、私の中には何やら熱く、湧き上がってくるものがあった。
これは、覚悟だ。この熱さは燃え広がり、やがて体全体に巡り指の先までもを刺激した。
♢
「……言っちゃった、言っちゃたよ」
公園のベンチにて、私は項垂れる。先の後悔が沸々と湧いて、消えていく。後悔はないつもりだ。しかし何処か言わなきゃよかったと心の何処かに、隅に転がっている。それは両親を裏切ってしまった事への罪悪感なのか、どうなのか。私の想いを無視する親にくれてやる情なんてない筈なのに。どうしてこうもつっかえるのだろうか。
息を吐きながら夜空を見上げる。白い息がまるで狼煙の様に立ち昇って行く。狼煙だとだとするなら、これは何の合図なのだろうか。
けれど、後悔はしても、これで良かったんだ。後悔よりも、己の想いを殺されるのはもっと嫌だ。だから、これで良かった。
良かった筈、なんだ。
「もう、自分でも分かんなくなってきた……」
膝を抱え、震える。発する声ですらも酷く震えていた。けれど私を慰めてくれる人間なんて、この場には存在しない。背中を摩ってくれる親友も、慰めをくれる人間も、元気づけてくれる弟だって。この公園には、静寂しか広がっていないのだから。私の嗚咽が響く程、この場には誰もいない。まるで此方を嘲ているように私の声を跳ね返す。静けさと、寒さが、私を責め立てているみたいだ。もう夜の九時。この時間に出歩いている人間なんて、そうそう居ないだろう。
夜の公園。私はあれから逃げるように家を飛び出し、そして今公園に滑り込んだ。言ってやったぞという、興奮にも似た感情を抱えながら。
人気も何もないその公園の名前を私は知らない。と言うのも、看板が掠れているのだ。だいぶ前に見た事がある筈なのだが、それでも思い出す事は叶わない。
だいぶ前?
それはいつの時?
「女子高生がこんな時間に危ないなぁ」
頭上から声が聞こえる。
声? 聞こえる筈がない。だって、こんな夜遅くに、しかも人気のない公園に、人なんて居る訳ないのだから。
じゃあ、誰だ?
この目を包帯で覆っている男は、一体誰だ?
──大丈夫、俺たち最強だから。
「──────!?」
本能的に、飛び退く。彼を見た瞬間、頭にノイズが走り眩暈がする。
なんだ?
誰だ?
彼は、何だ──?
包帯で目が隠れている。その筈なのに、何故だろう。包帯越しの目が、あった気がした。それはあまりに不気味で、気味が悪かった。
「わぁ、酷いなあ。そんな逃げる事ないじゃん」
包帯男はそう言ってヘラヘラと笑う。口ではそう言っても、その余裕そうな態度は崩す事はなかった。その態度が、少しだけ鼻についた。直接的に言えば、〝ムカついた〟と言うやつだ。
けれど、それすらも霞む程に、彼には恐怖が優った。
母の比ではないにしろ、対峙するだけで分かる、彼の異常なまでの異様さ。それは飛び退いてしまう程に恐ろしかった。
同じ人間かと、疑ってしまう程に。
「……あんた、誰よ」
「誰だなんて、泣けるね」
泣ける? 何がだ?
私が疑問に思ったと同時、彼は「あぁ、いや、こっちの話」と強引に話を逸らした。話せば話す程、口を開けば開く程、この男の胡散臭さは加速する。私は依然と彼を警戒していた。
けれど、何でだろうか。
何故、彼を見ると安心するのだろうか。
恐怖は確かにある。得体の知れない、そんな気味悪さが。けれどそれど同時に何故か懐かしい感じがするのだ。警戒しているのに、安心する。その相対した感情は、私の中身をぐちゃぐちゃにした。
なんだろうか。けれど、私はその感覚に覚えがあった。
そう、まるで昨晩のような、そんな締め付けられるような──。
ズキンと、頭が痛くなる。また、この頭痛。
ふらつきながら、薄目で御とこを見た。矢張り、知らない顔。けれど覚えがある。これはなんだ?
──私は、何を忘れている?
「大丈夫? 顔色悪いけど」
口では、心配をしている。けれどもその声色はどこか冷たさを孕んでいた。その低く、重い声は公園全体に反響している。
まるで寝言だ。目隠しをしているのに顔色なんてわかるはずが無い。
けれど、どうだろうか。それでも見えると言われても納得してしまうのは、どうしてだろうか。信用出来ないはずなのに、どこか説得力があり、彼の正体が尚の事理解ができなくなった。
「まぁまぁ、座りなよ。悩みがあるならお兄さんが聞くよ?」
そう言って男は私が座っていたベンチに腰掛け、横をポンポンと叩く。その長い足にはベンチは低すぎるらしく、伸ばされた足は持て余されていた。
その奇妙な出立に萎縮してしまう。しかし流れと言おうか、此の儘逃げて家に帰るのも嫌だったので、大人しく隣に座る。男の足は投げ出されているのに対し、私は爪先しか地面に付かなかった。この男は、一体何㎝あるのだろうか。
男はそんな私に対して満足げに笑う。先程から彼の表情を語っているのだが、しかし彼は目を包帯で巻いている。表情なんてわかる筈がない。けれども何故か彼の喜怒哀楽が手に取るようにわかる。彼もまた、視界なんて殆ど遮られているだろうに、私の行動一つ一つ、まるで目に見えるかのようだった。
「それで? なんの悩み? お兄さんに話してみなさい」
そう言って、彼は胸を張る。そう言われても、本当に話して良いのか。呪術の事は勿論、こんな私の個人的な悩みを、初対面の男に話すのはどうも気が進まない。しかし横で待っている男を見て、仕方なく口を開いた。
「親を押し切って自分の道を進む事が、本当に正しかったのかって思って」
「あら、もしかして受験生?」
「まだ中二だけどね」
そう言って手を擦る。思い出すは昨日の出来事。
まさか、否定されるとは思っていなかった。大好きな母に、尊敬する父に。
セカイが、真っ暗になった。息も出来ず、まるで首を絞められているかのように苦しい。そしてそれ以上に、二人を押し切る方がもっと苦しかった。
絵を描かない人生だったら死んだ方がマシ。けれどもそれは両親に嫌われる事と同義ではなかった。私はただ、認められて絵を描いていたかっただけなのに。それすら叶わないのだったら、私は一体何だろうか。何の為に生まれてきたのだろうか。私のこの手は、絵を描く為のものだ。
だから、反抗した。両親から嫌われるのと、絵を描けなくなる。私は前者を選んだのだ。両親に嫌われてでも、絵を続ける。しかし、それは思った以上に辛いものだった。
孤独の海に、沈む。そこに流れ着く島もなく、私はただ独りで漂い続ける。
「親が入れって言われている学校と、私の行きたい学校が別でさ。けど、私はどうしても其処に行きたいから頭を下げてお願いしたの。けどその時の、お母さんとお父さんの顔が忘れられなくて」
あの時の二人の顔は、今でも目に焼きついている。悲しそうな、落胆したような、何かを諦めたような、そんな顔。二人の、あんな顔は生まれて初めて見た。
「だから、どうすれば良かったんだろうって。お兄さんも無い? 親のさせたい事と、自分のしたい事がてんでばらばらだった事」
「ないね」
そう、キッパリと男は答える。そのあまりの直球さに、私は一瞬思考が止まる。
「え……っと?」
「僕の場合、両親とは疎遠だったから。若い頃は両親より使用人としか喋ってなかったよ。それにしたい事もそんなになかったしね、だから昔から行けって言われてた学校に行ったよ」
あまりの情報量の多さに、頭がショートしそうになる。つまり男は使用人を雇う事の出来る程にお金持ちで、恐らく、それ故に両親とも疎遠になり、特にやりたいこともなかったから入れと言われてた学校に進学したと。
……何だか、とても濃い人生だな。というか使用人がいるって、どれだけのお金持ちなのだろうか。きっと私では想像も出来ない程なのだろう。
「……嫌じゃなかったの? 他人から決められた道なんて」
「別に? 案外その学校だって楽しかったし、悔いはないよ」
「そっか」
そう言われ、想像する。自分が美術科に行かず、呪術高専に入る想像を。
きっと、初めは嫌なのだろう。美術科に行った人を羨み、ただ漠然と日々を過ごす。けれどもその先に出会う人々、出来事は未だまだ不明瞭だ。きっと、悲しい言葉彼ではない。楽しいと思う時も確かにあるのだろう。
けれど──。
「でも、あれだね。僕が何もかも嫌になってたらきっと周りの所為にするんだろうな。自分で決めた道じゃないしって」
その言葉に、顔を上げ、彼を見る。彼は私の方を向き、口角を上げていた。
「きっと、他人に決められた道なんて、大した事はできないんだよ。けどね、自分で決めた道なら、どんだけ辛かろうが、苦しかろうが、それは全て自己責任。誰のせいにも出来ない。きっとそれが、己の道を歩むって事なんだろうね」
息を呑む。
そうだ。そうなんだ。
私が今更苦しもうが、それは全て私の自己責任。誰の所為でもない、私の所為。
きっと、私には覚悟が足りてなかった。己の決断と向き合う覚悟が、独りで進んでいく勇気が。だからこうしてずるずるとまるで足に蔦が絡んでいるかの様な感覚が今の今迄ずっと続いているのだろう。
けれど、今覚悟を決めた。
私が、これからどうするか。
「君は、どうかな?」
男は私に問いかける。
私が、出した答えは────。
♢
「おう、おかえり。遅かったじゃねぇか」
「彰人、ただいま。まだ起きてたんだ」
「お前がこんな遅くまでほっつき歩いてるからな」
「ちょっと、人の事非行少女見たく言わないでくれる?」
玄関の扉を開けたら、丁度パジャマ姿の彰人と出会した。昨日の今日で少し気まずいが、それでも無視する事はしなかった。
もう夜の十一時。女子中学生が帰ってくるにはだいぶ遅い時間である。
「親父とお袋はもう寝てる。お前も早く風呂入って寝ろよ」
二人の存在が出た瞬間、体が少し跳ねる。きっと、トラウマになっているのだろう。
けれど、大丈夫。私はもう、大丈夫。
「俺ももう寝──うわ!」
彰人の頭を、乱暴に撫でる。恐らく風呂上がりの髪は暖かく柔らかかった。これをもうそろそろ撫でられなくなると思うと、少し寂しい。
けれど、決めたのだ。
「彰人、大丈夫」
「あ?」
私の言葉に、顔を顰める。しかし私の表情を見た瞬間まるで鳩が豆鉄砲を喰らったかの様な顔をした。
「私は、負けない。誰にどう言われようが、私の道を行くから。だから彰人も、自分の道を諦めずに進みなさいよ」
その言葉を聞き、最初は目を見開いていたが、段々と表情が柔らかくなっていく。
「そうかよ」
「そうよ」
そう言って、私は笑った。どんな笑いなのか自分でもわからない。けれどもそれは決して、悲しみではない。
私は、自分の道を行く。誰にどう言われようが、それは変わらない。
先の事は誰にもわからない。だから、どうせなら希望を持つ事にした。美術科を受けて、合格して、そして画家として成功したら、きっとあの時私を絵の道に進めて良かったと、思って貰えるように。
その道は、決して楽ではないだろう。茨の道すらも安らぎに思える程だ。
しかし、それしかないのだから。
私には、絵しかないのだから。
そして四月、三年に上がると同時に、私は家を出た。