「はーい。午後の授業やってくよー」
そう言って教員らしく五条先生は教壇で手を叩きながらそう言う。一列に座っている私達はそれに反応する事なくぼうっと外を見たり天井を見たりしていた。
入学してから数日。この学校は午前中に座学、午後に訓練と言う校風であった。然し生徒は私たち以外に居らず、この校舎は伽藍と寂しさを纏っていた。
「……うん。今年度の一年生は余程ドライな子達と見えた」
そんな事、初めから分かっていた事ではないか。
然しその言葉は秤くんは無視出来なかったようで、眉をピク付かせながら「なに?」とドスの効いた声を上げた。
……なんか、面倒毎になりそうな予感。
「その言葉、看過できねぇな。良いだろう。俺がどれだけ熱い男か見せつけてやるよ」
秤くんの言葉にニヤリと五条先生は笑う。
「良いねぇ。そう来なくっちゃ」
「きゃー! 金ちゃんかっこいー!」
「…………」
この中に私以外まともな人間はいないらしい。
そんな呆れている私を他所に、五条さんはもう一度手を叩く。
「良し、みんな、今から出かけるよ」
♢
「呪術高等専門学校一年生の記念すべき第一回の任務先は此処、S美術館です!」
補助監督である伊地知さんの運転で向かった先は、都内でも有名なS美術館だった。
大きかった。本当に。
中だけではない。外にも彫刻像が沢山立っており、美術館特有の匂いも外まで漂っていた。
「──凄い。凄い凄い凄い! 此処、本当に有名な美術館だよ! いつか来たいって思ってたけど、まさかこんな形でこれるなんて! 五条先生、あんた最高!」
「うん。言っておくけど今は任務で来てるだけだからね」
「分かってるって! さ、中に早く入りましょ」
「何も分かってないじゃん」
呆れながらそう言う五条さんを余所に、私は美術館の施設へ走り出す。
此処一年くらいは美術館に行けていなかった。どころか好きに外出する事すら叶わなかった。それが今、目の前に。
やっぱり呪術高専に来て良かったかもしれない。
「何だ、お前絵を描くのか」
興味深げに秤くんはそう言う。確かこの二人には志望校に落ちた事は言っていなかった。と言っても、特段伝える程の事では無いような気がした。
「まあね。これでも中学の時には毎日絵画教室に通っていたのよ」
そう言って私は誇らしげに胸を張る。その自信は心からなのか、それとも虚勢か。
私はあれから絵画教室を辞めてしまった。高専に入学して本格的に呪霊を祓うとなると、どうしても絵画教室にはとてもではないが通えなくなる。抑も今の私がそんな所に通って彼らが面倒毎に巻き込まれないという保証は何処にも無い。
不安の芽は、出来るだけ摘んでおかなければ。
「へぇ、私東雲さんの絵見てみたいかも」
「帰ったらスケッチブックがあるけど見る? 大して面白みもないだろうけど」
「そんなの、見てみないと分からないじゃない?」
そう言って不敵に笑う星さん。その姿が、嫌に眩しかった。
「はいはい。お喋りは此処迄。早速任務の概要を説明するよ」
手を叩きながら、矢張り教員らしく話す五条さん。似合わない筈なのに、どことなくしっくりくるのは何故なのだろうか。
「今回の依頼者は此処の館長。何でも夜中に絵が動き出すからそれを祓って欲しいって」
「それって、所謂七不思議みたいなもんか?」
「ま、分類的にはそうだね。尤も、今回の相手は幽霊じゃなくて呪霊だけど」
「いつも呪霊じゃない?」
秤くんと星さんの言う通りである。けれどまぁ、呪霊も居るのだったら幽霊が居ても可笑しくはない……のか? それか呪霊を幽霊と勘違いしてしまっている節はあるのかもしれない。私自身、呪霊の事を幽霊や怪異と思っていたのだから。
けれど、聞けば聞く程学校の七不思議を想起させる内容であった。
曰く、絵の中にいる女の子の瞳が動いたとか。
曰く、飾ってあるピアノが一人でに鳴り響くだとか。
曰く、飾ってあった絵画が別の所に移動しているだとか。
そのどれも中学の時に噂程度に聞いた事がある内容であった。と言っても中学の頃は噂が行きすぎて本当に呪霊となって出現してしまったのだが。あれは祓うのにとても骨がいった。
今回も、その類なのだろうか。
「死なない様に頑張ってよー。初任務で死んだら笑えないから」
「そんな事を平然と言ってしまえるあんたの方がよっぽど笑えないから」
何だろうか。この学校に入って、五条先生の評価が段々と下がりつつあるのは。噂によれば五条先生は強い筈だが、いや、私だって本能的には分かっているのだが、どうしてもそれを上回る程の鬱陶しさがあるのだ。
五条先生を横目に、私たち三人は館内へ赴く。その間に空が徐々に翳りを見せ、振り返ると五条先生が手印を結んでいた。此処は人通りの多い中に佇む美術館。恐らく外から中の様子が見えぬように帳を降ろしたのだろう。確かに呪霊を祓う姿など、市民の皆様にお見せする訳にはいくまい。
扉の前に立つ。ホームページによれば此処の扉は常時開け放たれているのだが、然し今は頑丈に閉ざされていた。然し頑丈と言うのはあくまで見た目の話であり、実際には私らを招く為に鍵はかけられていなかった。
私はドアノブに手を掛け、開く。
中は、圧倒される程に広大だった。
夢にまで見たS美術館が、今、目の前にある。私はそこに立っているのだ。
「す……っごい。何これ。凄すぎでしょ。って、ちょっと待って、こあの有名な画家の作品まで展示されてんじゃん! さっすがS美術館だわ」
まるで子供の様に、私ははしゃいで中を走り回る。こんな事、通常営業では絶対に出来ない事である。
そんな私の様子を、呆れながら二人は見ていた。
「いや、絵名が一番はしゃいでんじゃねぇか」
「意外な一面だねぇ」
「……うるさい」
ハッと我に返り、顔を逸らしながら悪態をつく。どうやら気付かぬうちに我を忘れてはしゃいでしまっていた様だった。
恥ずかしさやら何やらで少しだけ顔が熱くなる。こんな筈ではなかったのに。
私はそんな恥ずかしさを隠す様に、早歩きで前に進む。一つ一つに目を奪われ、二人に気付かれぬよう横目で見ているが、それは無駄な抵抗であろうか。
辺りを見渡す。広大な敷地。そこに流れている呪霊の気配。館長の思い違いの可能性も私の中に出ていたのだが、どうやらそんな事はなかったみたいだ。
「にしても暗いねぇ。電気付いてないから当たり前だけど」
「灯りがあれば尚の事凄い迫力かもね」
まるでフランスのルーブル美術館の様に広い館内に、どうやら二人も圧倒された様だった。私も二人と同じで、平然を取り繕っているがどうしても作品だけではない。壁や床や天井の装飾に目を奪われる。
いくらくらい掛けたのだろう。数千万、数十億だけでは到底足りない様な気がすらする。まぁ今考えてもあまり意味はない様に思えるのだが。
とある絵画が目に入る。
暗闇の中、蹲って泣いている少女。ただ一つだけ光が差し込んでいるが、彼女の端に付けられた枷の所為で光の元に行けない。
誰か描いたか分からない。けれどその作品からどうしても目が離せない。
その瞬間、何かが落ちる音が聞こえる。
静かな空間に、響くその音は、反響して消えていく。
恐らく私達三人は同時に振り返った。
電気は、付いていない筈である。然しそこにはたった一つの照明に照らされた絵画が壁に飾られていた。
そこには何も描かれていない。真っ黒である。あれが作品だと言うのなら、飛んだ画家を舐め腐った作者である。けれどそんな私の思いは一瞬にして覆される。
まるで泥を落としたかのように額縁から地面へと黒い、ドロドロとしたものがへばりついている。
矢張り私達は同時に下を向く。そこには女性が倒れていた。
一瞬、犠牲者の一人かとも思ったが、その考えは直様捨てなければいけない事になってしまった。
まるで骨が何処其処折れているかの様に関節を四方八方に曲げ、ボキボキと言う音を体がら発しながら立ち上がった。
「ア……アァ……」
目が、無かった。
目だけじゃない。口も、鼻の穴も。何もかも真っ黒であった。まるで穴の先が虚空かの様に。
私達は緊張感を露わにし、戦闘体制を整える。
正直な所、この二人と連携を取れるとは思っていない。二人の術式は知らない。私自身、二人にも己の術式を伝えていない。そんな私達の関係性でまるでパズルの様な連携が取れる筈が無かった。
考える暇もなく、女はまっすぐと私達の方へ走ってくる。
「任せて!」
「星さん!?」
そう叫んだのは、意外にも星さんだった。星さんは私達二人の前に立ち、まるで盾になるかの様に手を広げていた。
何を考えているんだ。こんなの、こんなスピードでぶつかられたらタダでは済まない。
手を伸ばす。然し私が星さんを押すより先に女が星さんにぶつかってしまう。ただ私が出来た事は、星さんの後ろで勢いを緩和させることだけだった。
思いの外、いや、それ以上の威力だった。吹き飛ばされた私達は壁へ激突し、その壁は音を立てて崩れる。けれど私の背中には衝撃は無かった。
「……って、秤くん!?」
「痛ってぇなぁ。たく、なんでお前らは力任せなんだよ」
私の後ろには秤くんが倒れていた。その額には赤い液體が流れていた。私達の衝撃を緩和してくれたのは、秤くんであった。
「金ちゃん! 大丈夫!? ご、ごめんね。こんなつもりじゃ……」
「いいよ。なんか考えがあんだろ」
そう言って星さんの頭を撫でる秤くん。その大きな手で撫でられた星さんはまるで恋する乙女の様に顔を綻ばせながら「金ちゃん……」と呟いた。
……此処で、この状況で
女はぶつかった衝撃でまた床に倒れていた。どうやら耐久性はないらしい。
「因みに、考えってなんなの?」
未だ幸せな夢の中にいる星さんを無理矢理現実へ引き戻す。星さんはハッと我に返り「そうだった」と言って私と秤くんの体を触った。いや、触ったと言うよりタッチしたと言う方が正しい。用事はそれだけだったのか、星さんは息を吐きながら何かをやり遂げたかの様に汗を拭う仕草をした。
「よし。これで大丈夫な筈!」
「いや、だからその大丈夫を説明して欲しいんだけど」
「うーん。別に良いけど、今からだと少し長くなるかも」
そう言って後を振り向く。その向こうにはもう立ち上がっている女が居た。上体をだらしなく下へぶら下げていた。まるで力を持たぬ人形の様に。
「じゃあ後で説明してちょうだい」
「はーい。因みに私は戦闘向きの術式じゃないからそこの所よろしく」
「はぁ!? そう言うのは早く言いなさいよ!」
「来るぞ」
秤くんの言葉に、私達は呪霊を見据える。呪霊はもう走り出しており、既に私の目の前に迫っていた。先程も思ったのだが、この女は嫌に足が早い。しかもこんな細身の体では想像が出来ない程の威力。さっきは秤くんがクッションになってくれたからよかったものの、私と星さんだけでは上半身と下半身が見事にさようならしていただろう。
けれど今、私の後ろにはただ壊れた瓦礫があるだけだった。
あ、もうだめだな。この距離では防げない。そう諦めた時だった。
呪霊が後ろに下がる。まるで何かに引っ張られる様であった。
「──どう言うこと?」
「うっし。成功!」
そう言って拳を突き上げる星さん。その姿を、私は困惑した様に見つめた。
これが、星さんの術式なのだろうか。だとしたら、一体どう言う原理で今のは発動したのだ?
分からない。けれど今分かる事は、目の前の呪霊を祓わなくてはいけない。それだけだった。
♢
「ま、今回は実地試験みたいなもんさ。三人がどうやって戦うのか。それが知りたい」
「それでしたら過去の資料がありますよ」
「それじゃ意味ないんだって。伊地知は本当にダメダメだなぁ」
「す、すみません」
美術館の駐車場。其処に停めている車に体重を預けている五条は、館内の様子を伺いながらそう言った。対する伊地知は姿勢正しく五条の後ろに付いていた。
「呪術師はさ、多少のイカれ具合がないと続けられないんだよ。だから三人を試す。ちゃんとイカれているか」
五条の言葉に、伊地知は目を伏せる。五条の言葉は、どことなく説得力があった。
嘗ての相棒の失脚。それを学んで、五条は生徒により向き合おうとしているのだろう。イカれている人間は呪術師に。そうでない場合は別の道を。伊地知もまた、五条に救われた人間だった。
「と言っても、今回試すのは金次と綺羅羅だけどね」
「え……と言いますと?」
「相手はあの絵名だよ? 普通の精神力で同級生でいられると思う? ただでさえ東雲家というバフもかかっているのに。僕は別に平気だけど、伊地知の場合はそうではないでしょ」
五条にそう言われた伊地知は、図星の様に息を呑む。五条の言う通りだ。
東雲家の
今現在、戦争が起きていないのは東雲家の気紛れ。そう揶揄される程には。
そんな力を持った人間が同級生だなんて、伊地知だったら気を使いすぎて気が触れそうである。
本館を見つめる。外からは中の様子が伺えない。今伊地知に出来る事は、未来ある若者がどうか無事に帰ってくる事だけだった。