それは初めから持っていたかの様な、そんな感覚
体が宙を舞う。春の暖かい空気が体に優しく、思わず寝てしまいそうになった。
然しそう言うわけにもいかず、私は体勢を立て直して地面へ伏せる、その瞬間、私の頭上で秤くんの足が空を切った。そして其の儘秤くんの足を払い、顔面を握る。
「はい。私の勝ち」
「……まじか。この俺が肉弾戦で負けるとは」
「はは。金ちゃんボロ負けじゃん」
本日も晴天なりと言いたくなる程に雲一つ無い晴天であった。そんな晴天の中、私たちは体術訓練をグラウンドで行っていた。体の傷はまだ完治とは言わないまでも、そこそこ動ける様にはなってきた。
締め付けていた秤くんの体を離し、立ち上がる。まだ春だと言うのに、五月半ばになると蒸し暑くなり、運動着の中は汗で濡れていた。動いたから当たり前だが、それでも過去の春とは違い、暑くなるのは早くはないだろうかと思う程であった。年々と暑さが増していている様な気がする。季節外れの蝉がもう鳴き初めていた。
「秤くんはフィジカルに全振りしている節があるね。もうちょっと頭を動かしたら?」
「は。舐めんじゃねぇぞ。俺はなぁ、通知表で2以上出した事はない」
「そう。あんたがバカだと言うことが良くわかったわ」
そう言って私が向けるのは冷たい目。それに対して秤くんは声をあげて笑っている。
一月経ち分かったことは、秤くんの学力はそこまで高くないと言うこと。そこまで? いや、語弊があった。あまりにも、とんでもなく低いと断定した方が遥かに分かり易い。けれどギャンブルや呪術については頭の回転は速いらしく、意外にも論理的思考を持ち合わせていた。恐らく学はないが地頭は良いタイプの人間なのだろう。
然しこういう単純な肉弾戦ではどうにも頭が働かないらしく、こうして何本も私に取られているのであった。もし彼に頭の良さがあったのなら、今頃地面に転がっているのは私の方なのかもしれない。
「星さんはやらないの?」
木陰で私たちを眺めている星さんに向けてそう言う。星さんは訓練に参加しないどころかジャージにすら着替えておらず、制服のまま体育座りをしていた。暑いのだろう。ジャケットを抜いてワイシャツに着替えていた。出来る事なら私もそうして木陰で休んでいたい。
「良いよ。私は後方支援役だし」
そう言って手を振りながら答える星さん。その姿に、少し呆れた。いくら後方支援だからと言って星さんの術式は相手に近づかなければ発動できないだろうに。
「て言って、本当は動きたくないんじゃねぇの?」
秤くんは地面に寝転びながらそう言った。良い加減起きたら良さそうなのだが、依然として地面に倒れ込んだ儘であった。
そんな秤くんの言葉に、星さんは「えっへへ」と舌を出して誤魔化した。男の子だと言うのに、そんな事も忘れてしまう程、可愛らしかった。これじゃ女である私の立場がないではないか。
石段の上に置いてある手拭いで汗を拭い、スポーツドリンクを一気に飲む。こんな暑い日は、嫌に喉が渇く。本当なら甘いジュースが飲みたいのだが、動いた体にそれは良くないと理由も勿論なのだが、そもそも高専内部も自動販売機の種類が思ったよりも少ない。
もっと数を増やしてくれはしないだろうか。
「けど星さん。いつでも私たちが居る訳じゃないから、一人でも戦える術を身につけなきゃ」
「う……わかってるよ。けど私の術式でどう祓えって言うの? 確かに仕組みとしては複雑だけど、攻撃性は皆無なんだけど」
星さんの言う通りである。
一緒に任務に行って分かった事だが、星さんの術式は引き付け、離す。一見すれば便利な術式なのだが、それでも呪霊を祓える能力はないらしかった。
後方支援として特化できればそれで良いのだろうが、恐らく学生のうちはそうはいかない。後方でも、必ず命の危険は訪れる。そうなった場合、己の身を守れるのは矢張り当人しか居ない訳で。そうならない為に。
「ま、その時はその時で俺らが守ってやりゃ良いだけの話だろ」
「いや、人の話聞いてた? いつまでもそうはいかないんだって」
「金ちゃん……」と感激している星さん。そんな二人の遣り取りを見て溜息を吐く。私は何度この二人に対して呆れなければいけないのだろうか。
けれども、そんな呆れも何だか悪くないと思ってしまうのは、一体どうしてだろうか。この空気を、私は意外にも気に入っているのかもしれない。
「おお。やっているねぇ。感心感心」
そんなやりとりをしていると、暑いと言うのに真っ黒い服を着た五条さんがやってくる。午後から任務だと言っていたような気もするが、それは気のせいだっただろうか。目に巻いている包帯が暑そうだ。
「聞いてくれよ五条さん。こいつちんちくりんで細っこいのに力めっちゃ強ぇの」
漸く起き上がりながらそんな事を秤くんは言う。何だろう。褒められている筈なのに何だか貶されているような気がする。まずちんちくりんと言うが、抑も私は平均的な身長だ。そんな馬鹿にされる様な低さではない。
そんなに力があるのかなと己の腕を見るも、腕は包帯で覆われてその肌は見えなかった。正直言ってこの包帯も蒸し暑く、今すぐにでも取りたいのだが、今我慢して傷を癒す事を専念するか、包帯を取って家入さんに怒られるかどちらか選べと言われたら、間違いなく私は前者を選ぶ。こんな私が暑さで苦しんでいるのだから、五条先生もまた更に暑いだろうに。
「まぁ絵名は東雲家で訓練受けてたからね。そこら辺の呪術師よりは強いよ」
そう言って私の頭に自身の手を乗っける五条先生。何故五条先生が得意気なのか。
訓練──と言っても良いのだろうか。一方的ないじめではなかっただろうか。
確かに厳しい訓練がなくては生きて帰る事は出来ないのだが、流石にあそこまで擦る必要はなかったと、今になって思う。あれは最早八つ当たりの域だ。
腹を蹴られ、肌を切られ、頬を打たれ、壁に後頭部を押し付けられる。中には祖父から一本も取れなかったら物置に一日中閉じ込められもした。それはまるで虐待の様に。ご飯も抜かされた時もあった。あの時はお腹が空きすぎて気持ち悪かった記憶がある。人は空腹が過ぎると腹痛になるのだと、その時思い知ったのだった。
思い出して、傷が痛む。彼等に付けられた傷はもう既に癒えているだろうに、どうしてか身体中が波打つ様にズキズキと痛んだ。
「ところで絵名。ちょっと着いて来て欲しい所があるんだけど、今時間ある?」
五条さんの言葉にハッと我に返る。三人分の視線が、私に降り注いだ。その視線から逃げる様に目を逸らしながら口を開く。
「あるけど。どうしたの?」
「ちょっとね」
そう言って五条さんは先を歩く。私は二人に「ごめん」と呟き、五条先生の後を追った。五条先生の足は本当に速く、早足でないと追いつけなかった。
♢
連れて来られたのは武器庫だった。薄暗くジメジメとしているが、内部の威厳さと言おうか、中にあるただならぬ雰囲気だけは骨まで伝わる。
「ここが高専が保有している呪具の全て。東雲家よりは広くはないけれど、圧巻だろ?」
「うん。確かに本家にもあったけど、まじまじと見るのは初めてかも。こんなに凄いんだね」
己では顔は見えないが、恐らく間抜けな顔をしているだろう。
五条さんは真っ直ぐと迷いなく歩きとある小刀を手に取った。
「絵名は今迄術式を使うにあたって不便に感じた事はない? 例えば術式を発動させる時に敵に近づかなければいけないけれど相手が近接戦タイプだったりとか」
「うわ。あるある。逆に視界に収めようとするけど動きが素早くて視界にも入れられないとか。それで何度死にかけた事か」
過去の任務を思い出し、ため息を吐く。一見すると強そうな術式だが、実際に使ってみるとなんだこのクソ術式はと匙を投げたくなる。術式を持って約十六年。未だに使い熟せる気配は見えない。
「ま、それも絵名が未熟な所為っていうのもあるだろうけどね。それでも悩みの根源は断てなくとも緩和する事は可能だよ」
「は? 今腹立つ事言われた様な気がするんだけど」
「気の所為じゃない?」
そんな訳はないだろうと眉を顰める。度々思うが、五条先生は一言多いというか、言わなくても良い事を言う。確かに私は五条先生よりは強くないが、そこまで言わなくても良いだろうに。
私が呆れて外方を向いていると、何かが此方に投げられる感覚があった。振り向いて五条さんから投げられたソレを掴む。私の手にあったのは先程五条先生が握っていた鞘に納められている小刀であった。漆で塗られた真っ黒い鞘に、水仙の模様が施された綺麗な小刀。握ってみると意外にもしっくりくる感覚だ。
「本当は初めから術式で祓えれば良いんだけどね。けど今の絵名ではそれが難しい。だったら呪具を使って意図的に相手に隙を作らせ、祓う。それが一番だと思うよ」
五条先生の言葉に、小型を見る。五条先生の言う通りだと思った。確かに今の私には術式で始まって術式で終わる事は難しかった。今迄術式のみで祓っていたが、そのどれもギリギリの状態であった。
けれど、呪具を使った戦闘だと、50%の勝機が75%にまで引き上げる事が出来る。そう確信があった。
「でも、私刀の使い方なんて知らないわよ」
「そこは大丈夫。絵名を死ぬ程しごきます」
そう言って親指を立ててキメ顔をする五条先生。目隠ししていても表情が何となく分かってしまうのはどうしてだろうか。
鞘から取り出し、刃を見る。良く手入れされており、刃こぼれもしておらず、反射した刃に私の顔が映る。
然しどうしてだろう。思ったより馴染みがあるのは。初めて刀を握った筈なのだが、まるで昔から使っていたかの様な、そんなしっくり感。私はそれを感じながらまた刃を鞘へ納める。その時目に入ったのは、綺麗に描かれている水仙の花。そう言えば本家にも水仙が綺麗に咲き誇っていたなと、ふと思った。
「これ、高専の?」
「うーん、正確には違うかな。此処にあるのは確かに高専保有のものが殆どだけど、中にはちょこちょこ東雲家が貸し出してる呪具があるんだ。その小刀もその一つさ。ま、絵名のって言っても良いかもね」
良くはないだろう。そう思ったのだが、それを態々言うのも面倒臭い。あの家と一緒にされるのは吐くほどごめんなのだが。
「それと、はい。これは僕からの遅めの入学祝い」
そう言って、矢張り五条先生は投げて渡す。今度は固い物ではなく、布の様な柔らかいものだった。見てみると手袋が私の手の中に握られていた。服と同じ色の、真っ黒な薄い生地の手袋。
「……入学祝いって。まぁ、ありがとう」
何だか照れ臭く、少しだけぶっきらぼうな言い方になってしまったが、嬉しいのは本心である。例え望んで入学した訳ではないが、祝われると言うのは存外悪い気はしない。
私は五条さんから渡されたショルダーに小刀を差し、手袋を嵌める。
「うんうん。良いんじゃない? 似合ってるよ」
「いや、武器を装備して似合ってるって言われてもあんまり嬉しくないんだけど」
そうは言っても自分でしっくりきているのは確かであり、己の体や手を見る。まぁ、似合っていないよりはマシか。そう思う事にした。
「でもこれ、高かったんじゃないの?」
「そうでもないよ。一つ五百万くらい」
「…………」
以前の私なら高いと驚愕して横転してたところだが、今の私では「あぁ、確かにそうでもないな」と納得してしまっていた。段々と、東雲家に染まっている様で少し複雑ではあった。
元より呪術師の給料は羽振りが良く、一ヶ月で貰える給料は恐らくそこら辺のサラリーマンより高い筈だ。まぁ、いうてサラリーマンの平均月収がどれくらいなのか私もあまり理解はしていないのだが。それでもあれだけ任務に行っていた且つ東雲家が太い所為もあり、私が月々に貰えるお金は本当に潤っていたのだった。命を掛けているから当たり前だが。
例えるなら、私の口座は新居を一括で購入出来るくらいには溜まっている。これだけ多いと、逆に減らす方が難しい様な気がする。
確かに呪術師は地獄だが、その中で唯一有難いと思う所であった。
私がそう考えていると、五条さんは「よし」と手を叩きながらそう言った。
「じゃあ新しく生まれ変わった絵名には新しい任務を授けよう」
「は? 聞いてないんだけど。私まだ訓練の途中だったし」
「それはそれ、これはこれ。はい行くよ」
そう言って、五条先生は武器庫から出ていく。
本当に勝手な人。傍若無人とはこの人の事を言うのだろう。私はため息を吐きながら再び前を歩く五条さんの後を追った。