車窓から見える景色を他所に、私は力無く座っていた。目の前にはスーツ姿の男性が淡々と運転をしている。伊地知と名乗ったその人は、時々私の様子を窺いながらも、それでも敢えて触れない。そんな様子が目に見えてわかった。
三月の始めである。まだ肌寒い季節。私は家を出て車に揺られていた。最後の最後まで、両親とは会話らしい会話を出来なかったが。それでも、彰人とは最後にきちんと話を出来たから、それはそれでと妥協しよう。あの二人と喋るとなっても何を話して良いか分からないのだが。
あぁでも、出る前、父に制服で行く様に言われたのだ。何であんたの言う事を聞かなければいけないんだと反発したが、けれど他に上等な服を持っていなかった為仕方なく制服で行く事になった。制服。セーラー服を。
「お前は、それで良いのかよ」
私が家を出る際に、彰人に言われた。それはどう言う意図を含んでいるのか一瞬理解が出来なかったが、けれども彰人の顔を見て、あぁ、そういう事かと全てを察した。
彰人は昔から私が絵を描いているのを一番間近で見ていた。そんな私が一歩間違えれば一生絵を描けないかもしれない道に進む事を、恐らく快く思っていないのかもしれなかった。自意識過剰かもしれない。けれども、そう思い上がってしまう程に、彰人の顔は酷く苦しそうだった。そんな顔して欲しくないのに。けれどもそんな顔をさせているのは他ならぬ私だった。
彰人には、呪術師の事を言ってはいない。これを言ってしまっては、彰人を危険な目に合わせてしまう。そう、本能が告げている。確かに可愛げのない生意気な弟だが、それでも愛着と言うものがある。怪我をしたら当然心配するし、怖がっていたら当然庇いたくもなる。彰人が危険な目に合うとなれば言わずと知れる。世間一般で言う仲の良い姉弟ではないのかもしれない。けれどもそこには言い知れぬ何かがあるのだった。
私はそんな彰人の頭を、乱暴に撫でた。彰人の髪は私とは違い少し癖が付いており、撫で心地の良い髪質をしているのだ。これを撫でれるのは姉である私の特権だろう。けれども彰人は、更に顔を歪めた。あぁ、やっぱりそんな顔になる。そんな顔、させたいわけじゃないのに。
心苦しくは、あった。けれどどうする事も出来ないだろう。これから先は私の実力次第だ。美術科に行けるか、それとも落ちて呪術高専に行くか。その全ては、これからの私に掛かっている。そう思うと、無意識に拳を握りしめた。これは先による畏怖なのか、覚悟なのか。
先程の事を想起して、また外を眺める。道は人気の無い山を登っていく。どんどんと、家から遠ざかって行った。
祖父は、どういう人なのだろう。厳しい人なのだろうか。それとも、穏やかな人なのだろうか。
──そもそも、どうして今迄黙っていたのだろうか。呪術師の事も、実家の事も。今の今迄、祖父が居る事も、何も知らされていない。どころか察する事も叶わなかった。雫一つも漏らさずに生きると言うのは、到底真似出来ない芸当である。私には出来ない。
バックミラーを見る。すると、前を向いていた筈の伊地知さんと目が合った。
「どうされました?」
「あ、えっと、その……」
そこで「なんでもないです」と言えれば良かったのだが、どうしてかその時の私は言い淀んでしまった。こんな反応してしまっては何かあると言っているようなものでは無いか。
「……えっと、私の祖父って、どんな人なんですか?」
暫く思い悩み、けれども観念したように口を開いた。この沈黙に耐え切れなかったとも言える。伊地知さんは私の言葉に「どんな人、ですか」と黙りこくってしまった。私の祖父は黙ってしまう程に気難しい人なのだろうか。
目の前で唸っている伊地知さんに怯える。場合によれば私は今此処で扉を開け走行中の車から逃げ出す事も吝かでは無い。
そんな事を思いながらシートベルトのロックに手をかけると、やっと伊地知さんは「そうですね……」と口を開く。
「威厳ある方……ですよ」
「なんか、含みないですか?」
「ない……ですよ」
「あるじゃない! ねぇ、もしかして超怖い人なの!? 嫌なんだけど! 今すぐ逃げたい!」
そう思わず運転席を殴りながら叫ぶ。危ないと思いつつ、それでも叫ばずにはいられない。私のこれからの人生が変わってしまうかもしれない。
体の芯から震えが止まらない。どうしよう、この先受験迄生き抜ける気がしない。もしかしたら呪術高専じゃなく美術科を受験したいと言ったら殺されるのではないか。
因みに祖父は母方の家庭であり、あの恐ろしい母の父親だ。母と同様……いや、もしくはそれ以上に恐ろしい人間だろう。それを思うと、まだ会ってもない上に偏見だらけなのだが、それでもいますぐにこの車から飛び出して逃げ出したい。そんな衝動に駆られる。
──いや、何を考えているんだ。こんな事で美術科に行けると思うのか。誰にどう言われようとも自分の意思は曲げない。そう心に決めたばかりだろう。祖父がどんな人だとか関係無い。私は私の道を行くのだ。
音を立てて頬を叩く。甲高い破裂音が車内に響き、目の前でハンドルを握っている伊地知さんは目を見開いてバックミラー越しに此方を見る。その際車が大きく揺れたが、そんなことはもうどうでもいい。
負けない。絶対に。
呪術師なんてなるもんか。私は画家になるんだ。
弱気になど、彼等の思う壷にもならない。私は、東雲絵名なんだ。絵を描いて、絵と共に生き続ける。それが私で、それが東雲絵名だ。
──だって、私にはそれしかないんだから。
♢
「着きました。此処が東雲邸で御座います」
「…………」
思わず息を吐く。目の前には視界に収まり切らない程に大きな家があった。いや、最早家では無い。屋敷や庭園と言った方が幾分か相応しい様な気さえする。それに何より、目の前で此方に頭を下げている人間達に驚きを隠せない。着物を着ているが、一体この人達は誰なのだろうか。一体何なのだろうか。
横目に伊地知さんを見るが、伊地知さんは此方の事などお構いなしに私の荷物をトランクから降ろしていた。今そんな事をやっている暇かと思いつつ、それでも私の荷物を代わりに降ろしている伊地知さんに向かって何も言えなかった。荷物が思ったより重く、少しばかり苦戦している様だった。
「お帰りなさいませ、絵名様」
息の合った、寸分の乱れもない数人分の声に、思わず肩がビクつく。そして隠れる様に伊地知さんの後ろに身を隠す。
何あれ。
何だあれは。
その洗礼された立ち姿、まるで軍隊のような統率に、私は少しばかり引いた。
こんなの漫画でしか見た事がないぞ。呪術師の家系だからと言って、こんなに規模が大きいなんて思ってもみなかった。こんな出迎えられるなんて今迄一度たりとも無かった。
やっと重し終わった伊地知さんの裾を引っ張りながら、小声で耳打ちする。
「あの、家ってこんなでかいんですか? 使用人が居るなんて聞いてないんですけど」
「おや、もしかして聞いてませんか?」
「何が?」
「あぁ……いや、聞いてないのでしたら後で話しましょう」
そう言って伊地知さんは眼鏡を掛け直す。私はその様子に首を傾げるしかなかった。この現状を説明して欲しかったが、けれどこの様子では口を固く結び梃子でも開かないだろう。
何だろうか。家を出る前に制服を着て行けと言っていた理由が、何となく分かった気がする。子供にとって、制服とは万能である冠婚葬祭、全て通用するのだ。
「お荷物お持ちします」
「え? あぁ、有難う御座います……」
使用人の一人である男性が私の持っているリュックサックやキャリーケースを手に持つ。沢山のスケッチブックやクロッキー帳が入って重い筈なのに、その荷物達を軽々と、しかも片手で持ち上げる。
思わず声が漏れた。よく見ると彼の腕はまるで丸太のように太く血管が浮き出ていた。それを見てゾッとしたものが腹から迫り上がってくる。
これが、呪術師。
正直、呪術師と言うものを理解出来ていなかった。今でも完全的に言えない。けれど予感は確信に変わった。
──どうやら、呪術師を蹴って画家の道に行くのは思うより数倍茨の道らしい。
♢
「では、この部屋でお待ちください」
通されたのはだだっ広い和室だった。旅館と見間違う程の広さに、思わず背筋が伸びる。達筆なのか下手なのか分からない掛け軸、教科書で見た事がある様な絵が描かれた屏風。飾られている日本人形と生花。先日とはまるで違ったセカイに、私は正座をしながらソワソワと辺りを見渡す。縁側に続く障子は閉じられており、けれども外からは鳥の囀りやあの池にある竹が落ちる音が部屋の中に届く。あれの名前は分からない。けれどあれは余程のお金持ちの家にしかないと言う事だけは分かる。因みに伊地知さんは何処かに行ってしまった。
大きく息を吸って、吐く。慣れない匂いが鼻腔を刺激し、落ち着かせる為の深呼吸が余計に緊張を助長させた。
この沈黙が、静寂が、どうしても落ち着かない。廊下を誰かが行き来する気配はないが、それでも今か今かと気を張るのはどうも疲れる。此処に来たのはつい三十分程前だが、それでも辟易する。もう帰りたい。
そう思った瞬間、ハッとする。そうだ、もう帰れないのだ。
あの場所には、もう戻れない。あの時間も、家族で笑い合った日々だって。
唇を噛み締める。分かっていた事だっかが、それでも何だか心に伸し掛かる想いになる。自分で決めた道だ。後悔はないにしても心残りはある。どうせ別れるのだったら後腐れがない別れ方が良かった。
──なんて、今更ifを語ったところでもう後の祭りなのだが。そもそもどんな選択肢を取ろうとも、あの状況では両親との確執も免れなかっただろうに。
どちらにしろ、こんな所に来る事は決定だったのだから。
お母さんとお父さんは、どんな気持ちだったのだろうか。お母さんはどんな心持ちで私に呪術師の道を強制しようとしたのだろうか。お父さんはどんな気持ちで、才能がないと私に言い放ったのだろうか。今となっては知る由もないどうしようもない事。けれど依然として私の中に棘となり、毒となり混在している。まるで呪いの様に。
その時、突然にスマホの通知がなる。静寂な部屋によく響き、思わず辺りを焦りながら見渡す。当然ながら誰も居ないのだが。
見ると、ピクシェアの通知だった。私は何かに弾かれる様にその内容を見る。
「……なんだ、オススメの通知か」
私の呟きは、部屋の中に消えた。
この間から、私はピクシェアに絵を投稿し始めたのだ。才能がないと認めたくなくて。見返したくて。上げればきっと、誰かが見てくれる、認めてくれると信じて。
けれど、現実は私が思っている以上に残酷だった。来るのは毎回オススメの通知ばかり。いいねなんて、付いたことすらなかった。フォロワーなんてもってのほかである。今まで描いた絵を殆ど上げているのだが、その全ては暖簾に腕押し状態である。
今までピクシェアを見ている人間たちが漫画やアニメ系のイラストばかり見ていて絵の事を解っていないからだと思っていたのだが────。
「……もしかして、本当にただ良くなかったの?」
私の絵は、誰にもいいと思ってもらえないのかもしれない?
自己嫌悪に陥っていると、又もピクシェアの通知が鳴る。もしかしてと思い期待してスマホを確認するが、それも空振りで終わってしまった。
今度は人気の投稿の通知だった。ピクシェアをアップテートしてからと言うもの、通知は私の元におかしな投稿ばかりを持ってくるようになった。こんな事ならアップデートしなければ良かったと後悔するが、しかしアップデートしなければピクシェアは使えないのである。
「──何これ」
それは、女子高生の自撮りだった。よく見なくてもそれは何の変哲もないただの自撮りだが、彼女のいいねは300いいねを稼いでいた。けれど、その自撮りは私の目には大層お粗末に見えた。涙袋は膨らませすぎてもう芋虫が入り込んだ状態になり、目なんて大きくしすぎて最早宇宙人の様だった。
……なんて、他人の顔を採点するなんて、とんだ恥知らずだと自己嫌悪に陥る。私も人様にお見せする顔面ではないと言うのに。
本当に、これだけでいいねを稼げるのが甚だ疑問である。
「セカイって、ほんと残酷ね」
そんな溜息をつき、スマホを閉じる。これ以上見ても気分が落ちていくだけだ。
足も少し痺れてきたあたりで、私は立ち上がり、縁側の方に歩いていく。足の脛に血が巡るのを感じながら、障子を開けた。
風が吹く。その冷たい風は部屋の中に入り、元からそんなに暖まっていない部屋は尚更寒くなる。けれどそんな事はどうでも良いと思える程に、庭はとても綺麗だった。時期でもない水仙の花が咲き誇っており、松の木も綺麗に切り揃えられている。
此処が、私の祖父の家。こんな立派な家に住んでいるだなんて、呪術師は相当稼げるのだろうか。まず呪術師というのはどういうものなのだろうか。陰陽師と同じ様なものなのだろうか。そういえば、此処にはあの化け物は見当たらない。そもそも此処に来るまでの道中も見当たらなかった気がする。
いや、考えてみれば家の中でもそうだった。家の中は安全圏だと無意識に思っていたが、そうではないとしたら。
そもそも、そこがおかしいのだ。私にあの不思議な力があるとしたら、その元の血となっている母にだって──。
「絵名様」
廊下の向こうから、声が聞こえる。その声で強制的に現実に戻される。振り向いてみると、伊地知さんが戻ってきていた。
「御当主様の準備が出来ました。行きましょう」
「え? あぁ、そ、そっか」
成る程、この時間はその当主とかいう人の準備時間だったのか。当主──というか、私の祖父なのだが。
当主……か。当主という言葉なんて漫画でしか見た事がない。そんなもの、フィクションだと今迄思っていたが、しかしこうも当然という様に目の前に出されたら もうどうしようもない。そもそもこんな
伊地知さんの歩く背中を駆け足で追いかける。その背広姿を見て少し疑問に思ったのだが、そういえば伊地知さんも呪術師なのだろうか。家に迎えに来て此処に辿り着く迄考えもしなかったが、けれど伊地知さんの様子を見て、とてもではないがそうは見えない。少なくとも、あの使用人とは全く違って見えた。けれど此処に居ると言う事は呪術師なのだろう。
「どうされました?」
「え!?」
視線で気付いたのだろう。伊地知さんは振り向き首を傾げる。
「あー、えっと……」
目を泳がせながら狼狽える。こんな事、聞いても良いのか。けれどもこの流れていく沈黙は私の焦燥感を掻き立てた。何か言わなければ。けれど何を聞けば良い? いや、聞きたい事は山程あるのだが、それでもいざその選択肢を提示されると、何故かその選択肢を手に取るのを躊躇ってしまう。
風が吹く。私と伊地知さんの間には気不味い空気がその風と共に流れていき、肥大化する。それはまるで風船に息を吹き込むが如く、その冷たい空気で居心地の悪さという風船は面を張って膨らんでいく。そうして、その風船が破裂したかのように私は口を開いた。けれどその言葉は消え入りそうなボソボソとしたものだった。
「その、伊地知さんって……あれ、呪術師ってやつなんですか?」
私の言葉に、伊地知さんはまた更に首を傾げる。そして「あぁ」と思い出したように空を仰いだ。
「いえ、私は呪術師ではありませんよ」
「え? そうなんですか?」
予想外だが、けれども納得する答えに、私は少し目を見開く。
「まぁ、元々は呪術師志望だったんですけど、色々あって今は補助監督という位置に落ち着いています」
「補助監督?」
知らない単語に、今度は私が首を傾げる。そもそも私は先述の通り、呪術師について何も知らない。両親に聞けば良かったのだが。けれどもあの空気感で、あんな事があった後に聞けはしなかった。
「補助監督というのは、文字通り呪術師の補助をする仕事です。主に術師の現場への送迎、そして呪術全般の事務仕事、まぁ、その他諸々を担当していますね」
「へ、へぇ」
聞いた内容な少ないが、それでも聞いただけで大変そうだということだけはわかる。事務仕事なんて、そんなの大変以外のなにものでもないだろう。
「この際、呪術師と言う存在を軽く解説していきましょうか」
その言葉に、食いつく。身を乗り出したかったが、けれど私の中の自制心が働き、そこはグッと抑えた。
それは、私が一番知りたかった事だ。呪術師と言う私にとって未だ無明瞭な存在を、やっと理解出来る。理解できたら、私の力が解る。そう思ったのだ。私という、未確定で、意味不明な存在を、解明出来ると、そう確信した。
私と言う存在は、私が一番解らないのだから。
解らず、気持ちが悪い。
伊地知さんは歩みを再度始めながら語り出した。
「まずは貴女が以前から目にしていた化け物。あれは呪霊と言います。
「じゅれい?」
「〝呪〟いに、〝霊〟と書いて呪霊です。呪霊は人間の負の感情が具現化した存在で、呪術師は呪霊を祓う役割を持っています。そして呪術師が呪霊を祓うために使うあの不思議な力、あれは生得術式と言って、それはそれぞれの人間の体に刻み込まれている術式です」
「生得術式……」
伊地知さんの言葉を反芻しながら、自分の手を見る。昔から使っていたそれに名前が付いているという事に驚きだが、こんな力を持っている人間が他にも居ると言う事が底知れず恐ろしい。
「貴女が持っているのは東雲家相伝の術式、『
「……少しくらいは」
ギクリと肩をビクつかせる。何か後ろめたい事があった訳ではないが、けれど何やら見透かされているような、そんな悪寒がしたのだ。
此処では、私の力──元い、術式は何ら珍しくも何ともなかったらしい。安心を覚えつつも、どこか寂しいような、そんな感じがした。けれど矢張りこれは安心して然るべきなのだろう。
「今迄術式を使って呪霊を祓った事は?」
「な、ないです」
そんなの、無かった。友人に憑いている呪霊を引き剥がす事はあっても祓うなんて事はなかったし、抑、祓い方すらも知らないのだから。
「それをこれから学んでいきましょう」
「はぁ」
正直、乗り気はしない。自分で決めた道だからといって、それは最悪の中の最善、私にとって最後の手段だったのだから。けれどもまぁ、やるしかないのだが。
「けれど──」
そう言って伊地知さんは振り返る。その顔は真剣味を帯びており、私はその顔に少し心臓が飛び跳ねた。
「本当に辞めたい。逃げ出したいと思ったら私に言って下さい。全力で貴女を呪術師の世界から遠ざけます」
その言葉が耳に響く。それは私が一番、言って欲しかった言葉だった。目頭が熱くなり、口が震える。涙が出そうな程に感情を爆発させたかったが、けれどそれは堪えた。
違う。この涙を流すのは今じゃない。
「着きました。この部屋に御当主様が居られます」
目を擦り、前を見る。その様子に、伊地知さんは私の顔を覗き込む。
「大丈夫ですか?」
「はい。問題ないです」
そう、はっきりそう伝える。私は何度覚悟を決めるのだろう。いや、何度だって決めてやる。私はきっと、そうやって成長するのだから。
伊地知さんは襖を開ける。その速度は遅く、鈍く見えた。そうして部屋の中が露わになる。私はその部屋を真っ直ぐと、余所見せずに見詰める。
「はっはは。中々剣呑の目をしておるのぅ」
重低音が、響き渡った。襖を開けて、直ぐだった。私すらも全体の構図、その声の持ち主を正確に認識し切る前だった。けれども相手は私より先に私を認識した。
体が、石に成ったかの様に動かない。実際に石になった様な、いや、実際ではない。体の内蔵的には動いて然るべきだ。然し脳が、思考が、動く事を極度に拒否している。これは危険信号であり、本能的な生存逃避だった。
そうして気付く。私が彼を認識した時、その瞬間、私はもう彼の領域に入ってしまったのだ。これは完全に間合いだ。
部屋の中には、老耄た男が座っていた。威風堂々と、見下すように。
「流石、東雲家次期当主と言う訳が」
そう言って男は、「はっはは」と、不敵に笑った。