「はっはは。貴様のその目は変わらんな。まるで鬼の目をしておる」
「…………」
その余裕そうな顔が、更に癪に障る。隠し通せる程の技量を持てれば良かったものの、然しそんな器用でもない私は、言い返す言葉の代わりに顰めっ面を顔面に張り付ける。然しそんな私を見ても、祖父は気に障るどころか、まるでコメディ映画でも観ているかの様に愉快に笑っている。「はっはは」と、矢張り癪に障る笑みを浮かべて。
一目見たとき、化け物だと思った。
怪物とか、妖怪とか、他に言い様は有ったのだろうが、然し化け物と言う言葉の方がこの人間を描写するにあたりしっくり来る様な気がした。
その言い知れぬ、底知れぬ不気味さを表す言葉は、此れが一番だ。あの化け物は、最早人間というには終わっている。
「伊地知や。席を外せ」
「え……? で、ですが……」
伊地知さんはそう言って狼狽える。
瞬間。
その場の空気がガラリと変わった。冷たく、鋭い。息をする事も、震える事も許されないと思える程の空気に、私はただその場に立ち尽くすしか無かった。まるで、空間が数千の針になったかの様な、そんな感覚。そんな感覚の中で動けて、剰え不敬に意見をする人間は、この世の中に一体何れ位の人間が居るのだろうか。
一人として居ないだろう。恐らくだが。
「何だ? 儂の言う事が聞けんのか」
「────ッ!!」
地を這う様な、そんな声。伊地知さんはまるで蛇に睨まれた蛙……いや、むしろ虎に睨まれた蟻の様に身体を震わせている。今迄笑みを浮かべている祖父は、口角を下げ此方を睨んでいる。いや、睨んでいるという言葉すらも過小表現にも思える。
この空気は、この恐怖は、知っている。何度も浴びて、そして何度も潜り抜けてきた。然しそれは慣れ親しんだ空気とは真逆に、何度重ねても慣れる事はなかったが。然しこの場合、震えすら、狼狽えすら許さないと言う様な雰囲気は初めてだが。
大きく息を吸って、焦り恐怖する心を落ち着かせる。然しその甲斐も虚しく、依然として私の心臓は大きく波打ち、体の温度を低下させる。
思い出すは以前の母の姿。遺伝というのは怖いもので、祖父の威厳は、しっかりと母に受け継がれていると見えた。まぁ、残念な事に──いや、安心な事に、私にはそんな性格は、恐怖は受け継がれなかったらしいが。
血は争えないという訳か。私にも同じ様な血が少しでも流れていると思うと、底知れぬ恐怖感があった。
「大丈夫」
「──絵名様?」
「私は大丈夫だから」
そう言って私は伊地知さんを見遣る。伊地知さんは複雑な表情を見せるが、それでも私の意思がブレないと解ると、観念した様に頭を下げた。
「……承知致しました。では私はこれにて失礼します」
伊地知さんはそう言い終わると同時に……いや、最早言い終わる前に襖を開けて出て行く。余程怖かったのだろうか。開け放たれた襖は締められる事なく冷たい風を部屋の中に入り込ませていた。
伊地知さんが出ていった背後を眺めていると祖父は徐に咳き込む。振り替えると、片眼を開けて私を見ていた。よく見ると目元には母の面影が伺えた。
「まぁ、其処に座れ。茶は無いが」
「……要らないです」
「はっはは! 生意気に育ったものだな」
そんな知ったふうな口を聞かれ、妙に癪に触った。私は伊地知さんが出て行った後の襖を締め、祖父の目の前に座る。
初めて祖父と対面する。母と似たような顔立ちの筈なのに、祖父の目は母よりも、父よりも、剣呑としていた。見詰め合ったら射抜かれそうな程に。侮っていた訳では無い。然しいざ目の前に対峙してしまうと震えが止まらない。人間は世にも恐ろしいモノと対峙する時、思考すらも放棄してしまうのだろう。今の私の様に。
こんな恐怖は産まれて初めてだ。母の時とは全く違う。あの時もおそろしかったか、今よりはなかった。
けれど、どうしてだろうか。
そんな私を見て、祖父は「はっはは」と、先程と同様に特徴的な笑い声をあげる。
「そうカッカしなさんな。相変わらず気性が荒いのう。
「……誰か?」
「あぁ、しまった。忘れてくれ。これは言葉の綾と言うものだ。まったく、この歳になるとボケてきていかん」
言葉の綾という言葉は、本来そう言う意味では無いような気もするが、此処で言及するのも何か違う気がした。今の私には、鸚鵡返しは出来ても意見する事は出来ない。強者の前で弱者はただただ黙って刑を待つしかないのだ。其れが弱者に与えられた唯一の権利と義務なのである。
産まれて初めて、己が弱者だと知覚する。普通に生きていればそんなことを思う機会はない筈だが。
鳥の囀りと、竹の音だけが部屋に響く。
「それにしても」
先に口を開いたのは祖父だった。祖父はお茶を飲みながら愉快そうに笑っている。その表情すらも、母と似ていた。
「貴様も強情じゃのう。大人しく呪術師の道を歩めば良いものを。何故未来の無い画家を目指すのか。慎英に影響を受けた所為か」
何処からともなく時代遅れの煙管を取り出し、それを吸う。煙が立ち込め、私にも掛かる。慣れない煙の臭いに思わず顔を顰めた。然し祖父はそんな私に興味ないのか、その手を止める事なく吹かせていた。
祖父は、私が美術科を受ける事を知っている様だった。まぁ、それはそうか。抑も決定権の全てを握っている祖父に黙って受験するなど不可能だった。と言っても、一体誰が説明したのだろうか。母か、それとも父か……。いや、どっちだって良いだろう。問題はその話を聞いて祖父がどう思ったのか。どう決めるのか。それだけだった。
「慎英はな、良い奴だがそれだけだ。男としての威厳もあったものではない。男は女を従わせる位の力は無いとな。見ていて情けない。
「……は?」
両親に対する唐突な暴言に、私の思考は止まった。
綾と言うのは母の名前である。そして、祖父の娘でもある──筈である。
それが何だ。どういう了見だ。実の娘に対して〝失敗作〟と言い放った事実が私には到底受け入れられない。
私を打った母でさえ、私に対してそんな事は言わなかった。そして祖父は母だけではなく、その旦那にも嘲笑ったのだ。
「それに比べて貴様は成功例だのう。東雲家相伝の術式を持って産まれておる。まぁ、男では無いのが少々残念ではあるが、それでも釣りが来る程だわい。貴様も画家になるだなんて子供染た夢は捨てて呪術師になれ。其方の方が幾分か──いや、其方の道が貴様にはお似合いだ」
「……あんたに娘を愛する心は無い訳?」
「有るぞ? お前を産み落としたという功績があるからなぁ。それだけで呪術界に貢献したと言っても過言では無いわい。彼奴の無意味な人生に、頚の皮一枚繋がったどころかまったくの黄金を産み出したのだからな。棚から牡丹餅とはこの事じゃな」
「………………」
聞き方を間違えてしまった。正しくは「あんたに人を想う心はないの?」である。
呆れ、失墜、落胆、期待外れ。今の感情を言い表す言葉は沢山ある。しかし其の何れもが相応しくない。この感情に名前を付けることも甚だ遺憾だ。
きっと彼の目には誰も映っていない。其処に観えているのはただ自分の利益一つ。己を愛してくれる人間ですら、彼の思考の外なのだ。
母は、今迄どんな気持ちで此の家に居たのだろう。数十年、こんな人間に向き合い、そうして落胆して、それはどんなに呪われた人生だっただろう。初対面である私ですらこうだ。母はきっとそれ以上だっただろう。いや、私如きでは想像も出来ない程だ。
そんな空気が、此の家にはあった。
「随分私の事を買ってくれているじゃない」
「お前は〝特別〟だからな」
「はぁ?」
間抜けな声が出た。今迄のどんな言葉はより、それは底の知れた、下らない言葉に聞こえた。きっと相手が違うのならば──父だったならば、私はきっと無様に憘び舞い、鼻唄を歌っていたに違いない。けれど相手が祖父という事もあり、私はその言葉の現実を観ることが出来た。
私は、特別なんかじゃない。決して、それは揺るぎない現実であり、どうしようもない事実である。どれだけ外野が囃し立てようが、それは変わらない。
「……まあ、そう言われてもお前は其れを押し退けてでも自分の道に行くのだろうな」
「……え?」
「やってみろ。それが約束だからな」
それは予想外の言葉だった。てっきり無理矢理にでも呪術のセカイに引きずり込むのだと思っていたのだ。
けれど、蓋を開けてみたらほとほとに呆気ない。藪から蛇ではなく仔犬が出て来たかの様だった。其程までに拍子抜けだったのだ。
「……良いの?」
「あぁ、良いぞ」
そう言って笑った顔が、何処か胡散臭い。然し私としては願ってもない話だった。こんなスムーズに話が進んでいくのは少し……いや、だいぶ怪しいが、それでも此の道を今更引き返す気はなかった。
裏があろうがなかろうが、私に残された道はたった一つだった。
「然しまぁ、貴様も約束を守って貰わなくてはなぁ」
「……約束?」
「落ちたらその道を諦める事。そして受験は呪霊を祓いながら平行して行う事。此の二つだけは守って貰わなくてはな」
あぁ、そうだった。活路を見出だせた喜びで忘れていたが、本来の約束はそれだったのだ。
……出来るだろうか? 絵は何かの片手間で出来る程単純でもないし簡単でもない。それは描いてきた私が一番解っている。
いや、やるしか無いだろう。四の五のなんて、言っている暇じゃない。彼等を認めさせる為ならばこんな芸当を当然の様に出来ていなければ話にすらならない。それは喜劇すらない、只の愚作だ。
「分かった。私も約束を守るから、、そっちも守ってよ」
「承知しておる。二言はない」
話が通じない頭の固い老人だと思っていたが、案外私が思っているよりもっと理性的な人間なのだろうか。
然し、何故だろうか。どうしても不安が拭えない。頭の中で限りなく赤に近い黄色い警報が鳴っている。それが先程の約束を交わしてから大きく膨れ上がった。その原因が何なのか分からないこ此の儘では取り返しの付かない事になるのではないか。そんな不安が拭い切れないのだ。
「どうした? 何か問題でもあるのか?」
「……別に、何も」
然し、根拠も何もない状態で私は何も出来ない。此の不安に蓋をするしかなかった。きっと此の不安も、寝れば忘れるのだから。今はだた、この幸運が逃げない様に合格に向けて努力するしかないのだから。
「二つ聞いて良い?」
「何だ? 申してみろ」
「あんたから見て、私に絵の才能があると思う?」
目を見開いて祖父は私を見る。私もその目を見詰める。母と一緒の、栗色の瞳。母とは違い、濁りきっているが。
「無いな。そんなことをやっている暇があるのなら呪霊を祓っていた方がよっぽど有意義だ」
「……そう」
まぁ、予想通りの言葉だった。けれど私が直接聞いたからと言って面と向かって〝才能がない〟と言われるのは結構堪える。
けれど、もう大丈夫だ。才能がないと言われたのは、今が初めてではない。最も才があり、大好きで尊敬していた父の言葉に比べれば、こんなのは待ち針で指を差してしまった時より痛くも痒くもない。言葉は何を言うかより誰が言うかとはよく言ったものだ。その言葉を聞いたとき、何を戯れ言をと思ったが、案外それは的を射ていた様であった。
才能がなければ、何だ。それなら天才に成れば良いぼ天才は凡人に成れないが、凡人はその気になれば何にでも成れるのだから。
才がなければ、その分其れを凌駕する程に努力すれば良い。それも、本当に本当の精一杯。文字にすることは簡単だが、泥水を啜る程に描き続ければこんな私でも道はある筈である。
私の右手は、絵を描くために存在しているのだから。
「もう一つは何だ?」
興味深そうに、祖父は聞く。先程の質問が愉快だったらしく、口角は依然として上がっている。私は息を大きく吸い、そして静かに吐く。
「──じゃあ、私には呪術の才はあると思う?」
沈黙が流れる。そして「はっはは」と、祖父は声を上げて笑う。
「お前以上に呪いに愛された人間は見たことがない。お前は呪いに望まれて、呪いに祝福されて産まれてきた様なものだ」
そうか、それはこれ以上にないほど有り難迷惑な話であった。