貴女は眩しくて、暖かかった。
やって来たのは都内の山の中。其処に件のトンネルはある。山の中だからか街中より寒く、思わず襟に口元を隠してしまう。コートは着てきたのだが、それでも寒い。露出している耳や鼻が寒さで取れそうだ。
目線を動かして、伏黒くんを見る。伏黒くんは平然を装っているが、鼻の頭は仄かにあからんでいた。寒くはないのだろうか。なんて、今現在私自身寒い思いをして居るから気にかける余裕がまったくないのだが。まったく。誰か来るのならマフラーや手袋の一つや二つ持ってきたのに、今回は私だけしか持ってきて居ないではないか。悪い事をしている訳ではないのに、どうしてか罪悪感が募っていく。
「伏黒くんって、今まで呪霊を祓った事は?」
「ちょこちょこ。昔から五条先生の任務に連れて行かれましたから」
「……五条先生、超適当でしょ」
「はい」
意外な即答で、思わず吹き出しそうになる。そうだよなぁ。伏黒くんと五条先生がいつ知り合ったかは分からないが、それでも一、二年しか一緒に居ない私ですらも五条先生の行動にいつも頭を悩まされている。私以上に関わりがある伏黒くんが呆れていない訳がなかった。
「でも、何も考えてない人でもないですよね。あの人」
「……そうね。私もほんの少しだけ、そう思うわ」
ふと、気付く時がある。
何でもない時。それこそ、私と綺羅羅と金次が何気ない会話をしている時、ふと、五条先生を見るのだ。その時の五条先生の顔は、何と言えば良いのだろうか。悲しそうな、されど愛おしそうな顔をしていた。まるで、何かを思い出しているかの様な。その時ばかりは、彼は私達を見てなどいなかった。
私達の遥か向こう側を、彼は見ていた。
彼は一体、その蒼眼で何を見ているのだろうか。
何を、想って居るのだろうか。
「でもそれを覆い隠す程のチャランポランなんですよね」
「…………」
それについては何も擁護が出来ない。まぁ、事実さっきも大事な事を話さずに、直前になって伝えるのだから。五条先生本人だったらすぐに対応出来るのかもしれないが、私自身はそうもいかない。事前準備が必要なのだ。
……心持ちとかの。
「伏黒くんも大変ね」
「まったくです」
そう言って、伏黒くんはため息を吐く。本当に彼は五条先生に困って居るのだなと感じ、思わず苦笑いする。
そう言えば、彼はどの様にして五条先生の弟子になったのだろうか。伏黒くんの性格から言って、自ら打診したとは思えない。まぁ、そう言っても彼とは今さっき出会ったばかりで何も知らないのだが。それでも、それだけは分かる。
では五条先生から? 確かに五条先生は力あるものは積極的に伸ばそうとする傾向はあるが、彼にそんな力があるか? 分からない。けれど先程も五条先生は伏黒くんの事を〝強い〟と言っていた。
横目で伏黒くんを見る。彼は御三家の血筋。それも禪院家相伝の術式も持っている。確かにそれを使いこなせると言うのは強いのだろう。少なくとも、当時中学二年生だった時の私よりかは。あの時の私は恐らく、三級の呪霊にすら劣っていただろう。それを考えれば、よく一級になれたなと、自分で自分を褒めたくなる。
確かに、強いのだろう。歩き方。体の重心の掛け方。余程訓練を受けて来たのだろう。その全てが洗礼されていた。
「伏黒くんはさ、いつから呪霊を祓っているの?」
「え……それ、今関係あります?」
「少し気になってさ」
私の言葉に一瞬怪訝な顔をするが、顔を見て冷やかしではないと分かったのだろう。少し考える素振りをして、口を開いた。
「本格的に呪霊を祓い始めたのは九歳の時ですかね。五条先生の任務に着いて行って、それで必然的に。あの人、訓練も勿論してくれるんですが、それよりも実践で力をつけさせるタイプで、死ぬ程呪霊を祓わされました」
「それ、分かるかも」
本人が現場で学ぶ性質だからだろう。数を熟せば強くなると思っているらしく、私自身、色んな任務に駆り出される事も少なくなかった。だからこそ、話にあがっている五条先生が、容易に想像が出来るのだ。
そんな雑談もそこそこ。暫く歩いた先に、廃墟と化したトンネルが現れた。蔦に覆われたトンネルは、まるで怪談話に出て来そうな程陰鬱としていた。それを感じてか、伏黒くんの傍を歩いていた二匹の犬が吠え出す。この子達は玉犬と言うらしい。伏黒くんの術式の一つだ。
そんな玉犬の声を聞きながら、私はトンネルの方を向く。トンネルから漂ってくる、呪いの気配。
「……居るね」
「はい。気配的に奥に居ますね」
成る程。そんな事まで分かるのか。流石五条先生のお墨付きの術師だ。
……このまま進んでも良いが、それでは伏黒くんを連れて来た意味がない様な気がする。恐らく、五条先生が期待するものではないだろう。五条先生の思惑通りに動くのは癪だが、まぁ、未来の呪術師を育てる為だ。乗ってやるのもまた一興であろう。
「伏黒くん。此処に居る呪霊は何級だと思う?」
トンネルの中に入る前、私はトンネルを指差しながら伏黒くんにそう問うた。私は事前に任務内容を聞いている為分かっているが、生き残る為には気配で呪霊の等級を理解出来なければいけない。少なくとも、私はそうやって呪霊を分析して、祓ってきた。五条先生が私に任せるのであれば、私のやり方でやらせてもらう。
一瞬、伏黒くんは驚いた顔をした。けれども私の言いたい事が理解出来た様で、真剣な顔でトンネルを見る。
「三……いや、二級ですかね」
「お、正解。やるね」
はなから仕組まれて居たのだろう。私にしては少し低い等級の呪霊。当然自分の等級より低い呪霊をあてがわれる事はあるが、今回は伏黒くんに合わせての事なのだろうと、今理解出来た。それでも二級と言うのだから、彼は本当に天才だ。
「よし、じゃあ入ろっか。伏黒くん、帳は降ろせる?」
「はい」
そう言って伏黒くんは呪詞を唱える。すると辺りは夜の様に暗くなり、暗黒の世界を作り出した。帳は初歩的な結界術だが、誰でも使える訳ではない。複雑怪奇な術式であるが、抑もこれは向き不向きが激しい結界術だ。私自身、使い熟すのに随分と手間取った。正直に言って、使えたのは高専に上がる直前だ。
それを、まだ荒削りではあるが使い熟せている。呪霊と対峙してきた時間が長いと言う事もあるが、才能の部分も大きいだろう。
才能……か。私にはまったく持ち合わせて居ないものだ。羨ましい限りである。呪術師としての才はあまり欲しいとは思わないが。出来るなら絵の才能が欲しいものだ。
だとしたら、今私が居る場所はこんな荒んだ山奥などではなく、絵の具に塗れたアトリエだったのに。
「……東雲さん? 行かないんですか?」
「あ、ごめん今行く」
伏黒くんの言葉に、ハッと我に返る。ぼうっとしてしまったのだろう。伏黒くんはトンネル入口前で私を見ていた。
あぁ、駄目だ。今は任務中。集中しなければ命を刈り取られる。
……それに、今更後悔したところで、何もかも無駄だと言うのに。
私は頭を横に振り、思考を放棄する様にトンネルの中へ入る。
中はひんやりとしており、私達が歩く度に、その音が反響する。昔ならこんな不気味な所に入ったら恐怖で足が竦んでいたと言うのに、今はもう何の感情も湧かない。これが慣れと言う奴だろうか。愛莉が見たら心底驚きそうだ。
「それで、中に入って何をするんですか?」
「うーん。一旦向こう側へ抜けようかな。その道中、向こうから顔を出してくれると有難いんだけど」
目を凝らす様にトンネルの向こうを見る。けれど向こう側の出口はあまり見えず、ただ暗闇が延々と続いていた。
……このトンネルは、こんなに長かっただろうか。向こう側の光が見えないなんて、まるで有料高速道路のトンネルではないか。そんな長さのトンネルが市道にあってたまるかと、心の中で突っ込まざる負えない。
「伏黒くん。私は怖くて振り向けないのだけど、入り口はどうなってる?」
私の声が反響する。伏黒くんの返答を待っていたのだが、一向に声が聞こえない。嫌な予感がして振り返るも、そこには伏黒くんの姿はなかった。その代わりと言うかの様に、然程進んでいないにも拘らず、入って来た道は暗闇で塗りつぶされていた。
「……なんで、私っていつもこうなんだろう」
そんな私の呟きは、トンネルの向こうに消えていった。
♢
「────!」
瞬きした瞬間であった。突如として目の前で歩いたいた絵名が消え、思わず身の毛が弥立つ。その瞬間、今迄感じた事がない空気に、伏黒は手で印を結び、構える。
恐らく此処は呪霊の中なのだろう。いつ攻撃されても可笑しくないこの状況に、伏黒は思わず息を呑んだ。けれどこれは恐怖からではない。警戒による緊張であった。
ゆっくりと息を吐き、辺りを見渡す。左右どちらも先が見えない程に真っ暗であり、当然電気も付いていない。今頼りになるのは手に持っている懐中電灯のみ。伏黒が持っている灯りを頼りに此処迄来たのだが、絵名は大丈夫かと、少しだけ心配になる。
──絵名は、強いよ。
五条の言葉が、伏黒の脳裏に過ぎる。確かに絵名は東雲家のご令嬢であり、高校一年唯一の一級術師だ。そしてそれを裏付ける様に、初めて会った時の絵名は恐ろしい雰囲気を放っていた。一度東雲家当主である東雲八郎と会った事があるが、それと似たような雰囲気を醸し出していた。あまりに恐ろしくて、目を合わせられない程に。
けれど、こうも思ったのだ。生き辛さも感じた事のない人間だと。
お金が無くて数日空腹で苦しんだ事も、周りから変な目で見られた事も。そう思うと腹の中から沸々と怒りが湧き上がってくる。微温湯でぬくぬくと過ごしてきた人間の考えている事はあまり分からない。
(……いや、今は考えている余裕はない)
悶々と考える思考を無理矢理放棄し、目の前の呪霊に集中しなければと、伏黒は辺りを見渡す。未だ異常を確認出来ず、暗闇が続いているだけであった。
けれど後ろを振り向いた瞬間、足元で共に来ていた玉犬が吠え出した。
その咆哮は、一瞬遅かった。
目の前に、呪霊は居た。本当に、比喩表現などではなく。一歩踏み出せば顔同士がぶつかりかねないくらいに近い。
「────玉犬!」
伏黒の声と共に、黒の方の玉犬が呪霊に向かって吠えながら噛みついた。けれども噛む力が弱かったのか呪霊が腕を振り払ったと同時に壁へ叩きつけられる。伏黒は横目でそれを確認して、一気に距離を取った。
まさか自分の方へ来るとは。警戒していなかった訳では勿論ないが、それでも残された絵名が心配ではあった。絵名には危険だと判断したらすぐに逃げろと言われたが、今の状況では逃げようとしても背を向けた瞬間に後ろから攻撃されそうである。
距離を取りながら、伏黒は呪霊を観察する。相手は厭らしい笑いを上げて此方を煽っている。言葉は喋れずとも、此方を油断する程の知能は備わっているらしい。その笑みが、本当に不愉快であった。
瞬きをする。それは一瞬の事であった。その一瞬の間で、呪霊は伏黒の視界から消えた。
思わず後ろを振り返る。この一瞬で伏黒の背後に回った呪霊は、伏黒を遠くへ高く蹴飛ばした。
「──鵺!」
手で影絵を作り、そう叫ぶ。すると暗闇の中から鳥の様な動物が現れ、伏黒を抱える。いくら天井が低いとは言え、こんな高さから落ちたら一溜りもない。
なんとか壁や地面に衝突する事はさけ、伏黒は警戒を緩めず真っ直ぐと呪霊を見る。
この呪霊の術式は、一体なんだ? トンネルに閉じ込めるだけなら、二級に区分される訳がない。四級……せいぜい三級くらいだろう。
では、何故──。
考えて、そしてある違和感に気付く。
そう言えば、何か暗闇の向こうから音が聞こえると。何かが蠢いている様な、動物? けれどそれにしては乾燥したカサカサと言う音も混じって聞こえる。
伏黒は内から這い上がってくる気持ち悪さを感じて、後ずさる。この音は、今迄の人生で覚えがあった。それを証明するかの様に、伏黒の足元にいる白の方の玉犬が、甲高い声で吠えまくった。
現れたのは──大量の百足と、鼠であった。それは数え切れない程に無数であり、トンネルの全てを覆い尽くすくらいに、わらわらと群れている。伏黒は即座の判断で鵺と玉犬を解除し、今度は兎を召喚した。
「脱兎!」
すると百足や鼠に劣らない程に多い数の兎が姿を現した。動物の本能だとでも言おうか。兎は目を見張る勢いで次々に百足と鼠を食い散らかしていく。恐らくこれらは術式で動かされているだけであり、元は普通の動物と昆虫だと、伏黒は判断したのだ。
脱兎がそれらを食い止めている隙に、伏黒は呪霊へと距離を詰める。そして懐に隠していた呪具を手に取り、呪霊に振り下ろした。
けれど、その判断は少しばかり遅かった。伏黒の目の前。本当に眼球の2㎜先に、百足の毒針が迫っていた。
──あぁ、終わった。
そう思った瞬間だった。
突如としてトンネルの天井が破壊され、その瓦礫が伏黒と呪霊の頭上に落ちてくる。
「あぁ! 居た!」
見知った声がして振り返ると、そこには絵名伏黒に向かって指を差していた。その姿はあまりにも普通の人間過ぎて、伏黒は呆気に取られる。それはよもや東雲の血を引く人間だとは思えない程に。
地面へ着地し、絵名は伏黒へと駆け寄る。
「大丈夫!? 怪我は……って、何この痣! すっごい痛そうじゃない! ほんっとごめん! 私が目を離したばっかりに……」
そう言って、絵名は伏黒に手を合わせる。
初めて……と言う訳ではない。伏黒の義理の姉にも、こんな反応はされた事はある。けれど赤の他人に真っ直ぐと見られたのは初めての事であった。
彼女は、本当に東雲家の人間なのだろうか。それどころか呪術師にしては普通の感性を持ち過ぎている様にも思う。少なくとも伏黒が出会って来た呪術師で絵名の様な人間は見た事がなかった。
あんな呪われた地獄の中で、彼女は何を見て、何を想って生きて来たのだろうか。
「って、そうだ、呪霊!」
ハッとした様に、絵名は振り向いて戦闘体制に入る。
「絵名さんは大丈夫だったんですか? そっちに呪霊とか……」
「もう祓ったわよ。じゃなきゃ此方に来れないでしょ?」
当たり前かの様に、絵名はそう言った。伏黒は目を見開いて驚いた。まさか自分が齷齪している間に、絵名はなんの傷を負うこともなく、祓ったのだ。
「あんたねぇ、よく伏黒くんに怪我させてくれたわね!」
そう言って、絵名は呪霊に指を差す。呪霊は絵名の言葉を理解しているのかしていないのか。ただくふくふと馬鹿にしたように笑った。そして絵名をも舐めているのだろう。呪霊の足元から今度は蜂を大量に出した。
けれど呪霊は解っていなかったのだ。
絵名が、自分より格上だと言うことに。
絵名は距離を取った。その瞬間、大量の蜂は一塊に凝縮され、破裂した。
「──────!」
伏黒は爆風に目を瞑る。漂ってくるは焦げた臭い。見ると一匹残らず蜂は死滅していた。
距離を詰め、絵名は小刀を鞘から取り出し、呪霊の喉元を一刺しする。けれど呪霊はその得意の腕力で、絵名を投げ飛ばす──筈だった。
絵名は呪霊の腕を掴み、反動をつけて上に投げ飛ばした。
その際、水道管が破壊されたのだろう。大量の水が吹き出し、呪霊の体に降り注ぐ。
「伏黒くん! 鵺を!」
絵名の声を聞いて、伏黒はハッと我に帰った。そして影絵を作って鵺を作る。電気に包まれた鵺は、真っ直ぐと呪霊へ飛んでいった。
水は電気を広がらせる。水を纏った呪霊は、全身に電気が廻り、力なく落ちていく。地面に落ちた呪霊を、玉犬に食べさせた。
「あー。終わったわね」
呪霊が灰になって消えていくのを確認し、伏黒は地面へ倒れ込む。五条の任務に着いていくのも勿論疲れるが、今回は特に疲れた。
安心すると、もう指一本も動かせなかった。
絵名と目が合う。絵名は少し目を見開いて、そして吹き出す。
「もう。そんな所で寝ると風邪引くわよ」
そう言って、絵名は盛大に笑った。
まるで太陽の様なその笑顔に、伏黒は目を離せなかった。太陽も出ていないと言うのに、それはまるで灯火のように照
らしている。
居るのか。呪術師にも。こんな光のような人間が。
伏黒は差し伸ばされた絵名の手を掴む。その手は、あまりにも細く、小さかった。
あぁ、この手を守っていたい。そう、心から思ったのだ。