色んなことを忘れていっても、その菫色だけは脳に焼き付いていた。それがどれ程私の救いだったのか、貴方は知る由もないだろうけれど。
第六十三話 忘れぬ瞳
「えー。今日から皆さんの担任になりました。日下部と言います。どうぞ宜しく」
教壇で飴を舐めながら怠そうにそう言うのは、まるで刑事かの様な見た目をした男、日下部篤也であった。校舎内で何度かすれ違う事は何度かあったが、こうして間近で見るのは初めてだ。
第一印象は、無気力そうな中年のおっさん。あとは謎に飴を舐めている。
五条先生の時とは違い、ハイテンションではないが、また癖の強そうな人間が担任に就いたものだ。どうして呪術師は変な人が多いのだろう。もしかしたら呪術師に変な人が多いのではなく、呪術師になったから篇になったのか?だとしたらこの混沌な人選達に納得がいく。私の呪術師経験上、十人会ったら八人は変人である。
月日も経ち、早四月。私達三人は学年が上がり二年生になった。学年が上がったと言う事は当然担任も変わるもので、今目の前に居るのはいつもの五条先生ではなく、先程紹介した日下部先生であった。
「ま、俺みたいな術師はお前らは知らないだろうがな。一応一級術師してます。舐めんなよ」
「なんで初っ端から警戒心剥き出しなんだよ」
日下部先生の言葉に、金次は呆れたようにそう返した。けれどそれに返された言葉を聞いて、私達は首を縦に振らざるを得なかった。
「だってお前ら、超が付く程の問題児じゃねえか」
「………………はぁ?」
思わず三人の声が重なる。
少し待って欲しい。綺羅々や金次ならまだしも、私は品行方正、清廉潔白で高校生活を送ってきた。この二人と一緒にされるのは心外だ。
「問題児って、何ですか」
「何って、有名だぞ、お前ら。任務で行く場所行く場所の建物を破壊して回る三人組って。それに未成年でパチンコ行ってたり、飲酒したり。十二年以来の問題児だって」
「……………」
その言葉に、私達は何も言えなかった。言い返したい気持ちもあるが、それでも少しだけれど、ほんの少しだけど建物も壊してしまった事は事実だ。未成年飲酒も……一回だけ。パチンコは金次の付き添いでたまに……って、あれ。思ったより非行を働いている……?
「ま、それについて俺はどうこうは言わねえよ。あの五条悟の教え子だしな。納得納得」
うんうんと首を縦に振る日下部先生。
どれだけ信用がないのだろう。五条先生は。まぁあんな性格じゃ仕方がないか。
溜め息を吐きながら頭を抱える。平穏に目立たずに高校生活を送ってきたと思っていたのだが、思ったよりも噂は流れているらしい。まぁ、ほぼ〝東雲〟の苗字だからだろう。
呪術師になって二年。この二年で私は東雲の名が如何に強大かが身に染みて解った。それは本当に、恐ろしい程に。
当主でないだとか、なんも権限も持たないだとか、そんな事は最早関係がない。私が東雲の名を冠している限り、私の言葉にはとても強い力が宿るのだ。それこそ、国一つ動かせる程には。
正直に言って、私自身そんな大層な立場は御免である。出来る事なら平穏に、静かに暮らしたい。大好きな絵を描いて、音楽を聴いて、愛莉や彰人とショッピングして。ニーゴの皆と曲を作って。そんな、理想の暮らし。
けれどそんな未来は、私が呪術師になった時に潰えてしまった。
だからこそ、私は今の生活が終わらない様に、必死なのだ。
地獄の中で見つけた小さな光。それを守る為だったらなんだってする。
「そう言えば日下部先生って、シン・陰流の門下生なんでしょ?」
ふと思い出した様に、綺羅々はそう言った。その言葉に「あ?」と、日下部先生は片眉を引き上げた。
「なんで知ってんだよ」
「だって有名だよ? 術式を持たずに一級呪術師に成り上がった男って。かっくいいー」
そう言って机に肘を付く綺羅々。それは揶揄っている訳でも、馬鹿にしている訳でもない。ただ本心からの賞賛。
彼は術式を持たずに一級術師になった天才だ。それは呪術師になったばかりの私の耳にも入る程であった。
「うるせぇな。それでもこの学年には負けるよ」
乱雑に後頭部を掻く日下部先生。そして睨む様に私達を見た。その三白眼の瞳には、なんだか怠そうな色が窺えた。
「あの東雲家の跡継ぎの女。術式に領域展開が組み込まれている男。南十字と言う複雑怪奇な術式を持っている……男? え、お前男なの? ……まぁ良いや。そんな奴等が一学年に揃ったんだ。問題児って言われてもしょうがないだろ」
何がしょうがないんだと言いそうになるのを、ぐっと堪えた。今迄優等生で通っていた私がそんな事を言われるだなんて。
然し、それをいってしまったら術式無しで一級になった日下部先生も相当だろう。どんな修羅を潜り抜けたら一級にまで上り詰める事が出来るのか。まぁ、いうて私も一級なのだが。それでもそれは術式があったからであり、それすら持ち得ない日下部先生が一級になれるのは本当にとんでもないことである。
「ま、何はともあれこの面子で一年過ごしていく訳だが。何か質問はあるか? なければ俺はこのまま職員室に行く」
「あ、はいはい。先生質問!」
「はい。星」
意気揚々と右手を上げる綺羅々。そしてそんな綺羅々を差す日下部先生。その姿があまりに教師と生徒の様で、思わず苦笑いしてしまった。
「先生は結婚してますか」
「呪術師にあまり既婚者は居ない! それは俺もだ!」
「んじゃ次俺」
「はい秤」
「なんで教師目指そうと思ったんだよ」
「命のリスクを考えず教職をやって金が貰えるんだったらそっちの方がいいだろうと思って」
意外と適当な理由だった。恐らくこんな事を一年最初に行われた学長との面談で出した日には退学どころか一発殴られるのではないだろうか。
それからどうでも良い様な問答が三十分くらい続いた。私は我関せずと言った様に、肘を付きながら、窓の外を見た。校庭には桜が咲き誇っている。
春である。私は、また一年生きることが出来るだろうか。
♢
「まぁ、学年が上がったところで生活が変わるなんて事もないけどね」
誰に言うでもなく、独り言の様に呟きながら、自動販売機のボタンを押した。気温もだいぶ暖かくなり、窓から入ってくる風は心地良い温度である。冬の時では考えられない程の風に、思わず溜め息が出そうになる。これだけ暖かくとも夜になれば肌寒くなるのだろう。
寒いのは苦手だ。手が悴んで筆を上手く持てないから。
夜にはまた任務で出なければいけない。二件だけだが、25時に間に合うだろうか。
『周りに抑圧されて、したいことも出来なくて。いつしかしたい事も分からなくなって……消えたいって思って。それは、途轍もなく苦しいんじゃないかな。少なくとも、私はそう思うよ』
「…………」
あれから、雪の様子が何処と無く可笑しい。表立っては変化はないのだが、なんと言うか。雰囲気と言ってしまえばそれはそれで違うような気もする。返答も、話し方もいつも通りの筈なのに、いつもとは違う。人の心の機敏について分かるのが上手くなったからといって、元来私は人に興味が無い性格。変わったとまでは分かっても、どう変わったのか、何故変わってしまったのかまでは依然として分からず仕舞いなのである。
けれど、違うと感じたからと言って私に何が出来ようか。顔も知らない。況してや住んでいる所なんて持っての他。そんな私が他人に踏み込むのは如何なものかと、私の中に住んでいる常識と言う名の住人が邪魔をする。
「まぁ、相手から言って来るのを待つしかないか」
今此処で踏み込んでも碌な結果にならない事はしっている。私に出来る事はせいぜいいつも通り変わらず接する事だ。
然し、どうしてだろう。頭や理屈では解っているのだが、それでも無視出来ないのは。
踏み込んで手を差し伸べたいと思うのは。
私はそこまで、彼女に入れ込んでいると言うのだろうか。
自動販売機で購入した飲み物に付いている雫が私の手を伝い、地面に落ちる。そして地面に斑点を描いた。
また、一年が始まるのか。絵も碌に描けない、やりたくもない呪術師をやりながら。
私はそのまま力なく側にあったベンチへ腰掛ける。新学期と言ったら希望や光が見えそうだが、私にはとてもではないがほの暗いものにしか見えなかった。
同級生である金次や綺羅々はとても優しく、家入さんや五条先生も、健人や伊地知さんも居て、周りに恵まれている筈なのに、どうしてこうも孤独感を拭えないのか。
こう思う私は、最低である。
こんな時、いつも側に居てくれた人が居た。
誰だっけ。まるで優しい花の様な声をした彼。彼が居てくれたら、きっと────。
ふと、足音が聞こえる。五条先生か、家入さんか。もしかしたら綺羅々か金次かの誰かが来たのだと思い、顔を上げる。
私を見つめていたのは、菫色の双眼だった。
灰白色の髪を持ったその少年は、息を切らしながら私を見下ろしていた。
私はその人物をよく知っている。
「────狗巻……くん?」
「しゃけ」
その人物──狗巻くんは、にこりと笑いながらピースをした。
どんな記憶を無くそうとも、彼だけは忘れることはなかった。彼の声、眼差し。それは細部まで思い出せる。
高専に入学してからまったくと言って良い程会っていなかった狗巻くんが、今、目の前に居る。
これは夢だろうか。いや、夢ではない。この胸の高鳴りが、これが現実だと言っていた。
それは、無意識であった。無意識に、私は駆け出し、そして狗巻くんに抱き付いていた。狗巻くんは私に押された勢いで地面に尻餅を付き、私が転ばない様に支えてくれていた。
「な……何で居るの!? え!? うそ、夢!?」
私は我を忘れ、狗巻くんの顔を触る。もしかしたらこれは夢なのかもしれない。私が見ている都合の良い夢。でなければ、彼が此処に居る筈がない。
けれどそんな私の考えは大幅に外れ、私の手に伝わる感覚が現実だと訴える。狗巻くんはそんな私を穏やかに笑って見つめた。その顔を見た瞬間、私の中に何かが込み上げてくるのを感じる。
現実だ。狗巻くんが、今、此処に居る。その事実が、何よりも嬉しかった。いや、嬉しいなんて言葉では言い表せない程、私は激情に襲われていた。
泣きたくなる想いを抑え、私は立ち上がる。衝動で抱き付いてしまったが、端から見たら相当恥ずかしい光景だろう。少なからず私が第三者だったのなら共感性羞恥で恥ずかしくなっていたかもしれない。
ふと、冷静になって同じく起き上がって近くのベンチに座る狗巻くんを観察してみる。前迄のストレートヘアとは打って変わり、髪は癖を出し前髪を上げ、口元には燻んだ水色のネックウォーマーをしていた。服は良く見ると呪術高専の制服を着ており、成る程、彼はどうやらこの東京都立呪術高等専門学校に入学したようだった。
「……随分変わったね」
「すじこぉ」
そう言って、狗巻くんは見るからにどや顔をする。似合っているだろ。そう、言いたげな風に。そんな様子の狗巻くんに、私は思わず笑ってしまった。あまりにも前と変わっていなかったから。変わったのは、外見だけ。それがどうしても嬉しかった。
「狗巻くんも高専入ったんだ。じゃあ後輩だね」
そう言えば狗巻くんは私の一個下だった筈である。今迄先輩後輩と言うカテゴリで考えた事はなかったが、校内となればそうなるだろう。尤も、私自身そんな事はあまり気にしてはないのだが。
けれど、言われるのだろう。『それでは東雲として示しがつかない』と。
確かに記憶が薄れ、屋敷に居た記憶はあまり覚えていない。けれどこの身に嫌と言う程染み付いているのだ。東雲家の恐怖が、あの時のトラウマが。それは拭われる事なくいつまでも私の心を蝕んでいく。
どうしても逃れられない東雲と言う名の〝血〟。私はいつまでそれに縛られなければいけないのだろうか。
いつまで?
────死ぬまで?
「……ツナマヨ?」
私の様子が可笑しいのが分かったのだろう狗巻くんは私の顔を見て首を傾げている。その顔を見て、私の中にある黒く歪んだ思考が、無音で消え去っていくのが分かった。
確かに先輩後輩。私の立たされている立場を忘れる事はできない。けれと狗巻くんを見ているとそんな思考ですらもどうでも良く思えてくる。それが正しい事かどうかは分からない。けれどもそれは私にとって救いであった。
「まぁ、これからよろしくね、狗巻くん」
「しゃけ」
私の言葉に、狗巻くんは笑みを浮かべる。昔と変わらない月の様な笑顔。それを思うと、矢張り心のどこかが溶けていくのを感じた。