コツコツと、足音が響く。手渡された小さな懐中電灯では足元しか照らしてくれない。そんな心許ない状況で、更に心許ない私はまるで鳩の様に辺りを忙しなく見渡していた。何か物音がする度心臓が跳び跳ねそうになる。
中に入って、凡そ十分以上は経っただろうか。それでも何も進展は無いが。
「ていうか、誰か着いてきなさいよ。新社会人だって教育係居るのよ」
勢いで入ってしまったが、今になって恐怖心がぶり返してきた。祖父は端から期待はいていなかったけれど、まさか伊地知さんまで着いて来てくれないとは思わなかった。今更ながらに不安や焦燥、恐怖と寂しさが同時に襲ってくる。誰だってこんな暗くて広い所に一人で放り込まれたら怖いに決まっている。
『二十年前に廃業した〝白田間旅館、当時此の旅館で二十名以上の従業員、観光客が〟行方不明となっていた。一説によると此の旅館で提供されている料理は全て人肉で作られていると言われていた──』
「下らない──とは言えないわね。此処まで来ると」
それは古いオカルトサイトだった。誰が製作したのかも分からない。最後の更新も二千八年で止まっている。何時もは悪趣味なサイトだと唾を吐きながらブラウザバックするのだが、状況が状況だ。私は自らネットで検索をかけた。
案外、一発目に出てきた。どうやらマニアにとっては有名な心霊スポットらしい。従業員や客が行方不明になったと言うのも本当のようだ。恐らくこれが原因で廃業に追いやられたのだろう。全くもって理不尽この上ない。
「そう言えば、呪霊の詳細を全く教えて貰わなかったわね。まだ解っていないのかしら」
私はただ言われるままに中に入っただけであり、此処の呪霊がどんなものなのか教えて貰っていないのだ。呪霊でなくとも、中の地図くらいは欲しい所である。まぁ、そんな事言っても祖父は素直に教えてくれるかは微妙なところではあるけれど。
溜め息をつきながら懐中電灯を色んな方向へ向ける。想像した通り中は荒れ放題であった。飛び散った硝子は地面へ無惨に散乱しており、壁は今壊れても可笑しく無い程にひび割れている。柱からは腐った匂いも漂ってくる。とてもではないがあの鳳グループが買い取る予定の宿とは思えない程にボロボロだ。これがどう変貌するのか、些か楽しみではある。
まぁ、その為には此処に居る呪霊とか言う化物を祓わなければいけないのだが。
何気無しに振り返る。当然の事ながらあの二人は着いて来ていないし、他の人間とて居る訳がない。呪霊だって見当たりはしない。外観だけでも広々ある建物だが、中も相当広く入り組んでおりもう自分がどの階で何処に居るのか分からなくなってしまっていた。せめて現在位置の地図が欲しいところだが、しかし此処は聞くところによると三十年前に廃業したらしい。そんな所に端から地図なんてある筈がなかった。いやい地図が書かれている場所も有ると思うのだが、然し少なくとも此処には無い。
……落ち着かない。こんな所に一人で居る事とか、暗い事とか、辺りに漂っている木材の腐った臭いとか、いや、それも少なからずあるのだが、それよりも此の押し潰されそうな
押し潰されて、身体の中身が全て出そうな程に重い圧。まるで常に銃口を向けられているような、刃先を突き立てられているような、そんな感覚。母や祖父以上ではないにしろ、それと同等位の恐ろしさ。
確実に何か居る。人成らざるモノが、禍々しいモノが此処には居る。
歩みを進めようと前を向く。
球体があった。
真っ黒い、何の歪みもない球体。地面に置かれることなく宙に浮いているそれはまるで初めから存在していたかのように目の前に、道の真ん中に浮いていた。
二十人以上の、行方不明者。
三十年前に廃業となった、旅館。
今でも語られる、語られ続ける心霊スポット。
そうか、だから廃業したのか。
此処の持ち主は出遭ってしまったのだ。災害にも似た此の球体に。だから設備や書類なんかも置き去りに、従業員全員を半ば強引に解雇してまで、夜逃げ同然に逃げた。
然し私はその人間を責める気にはなれなかった。どころか称賛すら送りたい。その人が従業員全員を解雇し、此の旅館を廃業させなければ、今頃数十人が此の球体に飲み込まれてしまっていたのだから。
思わず後に後退る。見てはいけないものを直視してしまったかのような恐怖感。いや、かのような、ではない。直視してはいけないものだ。
『おガぁさん、キョウのごはんははんばーグがいぃな』
『なによ、ソレハきょネンもたべたヂゃない』
『ぶたにグはぉイじいょねぇ』
耳を劈く様な、覆いたくなるよう不快なな声。いや、声と言うのも違う。それはまるで錆びた蝶番の様出会った。
私が今迄遭遇してきた呪霊とは明らかに訳が違う。身の毛のよだつ程に恐ろしい。
『あぃがガガが』
今度は言葉とも言えない〝音〟。返答は、出来なかった。此の言葉に答えたら駄目だと、本能がそう告げている。私の全細胞が、脳味噌が、本能が、逃げろと私自身に警告してくる。
然し、それは叶わなかった。正確に言えば、情けない話だが私は呪霊に背を向けていた。私の頭の中には伊地知さんと祖父の顔で満たされていた。頭を下げてでも見限られてでも助けてもらおうとしたのだった。
其処には道なんてものは無かった。壁が遮っていたのだ。
「──っ! 何なのよ! 一体何だってのよ!」
これが、事の原因なのか。此の球体が、全ての発端なのか。此の球体に二十人以上の人間が取り込まれたのか。
また振り返る。然し其処にはもう球体は無かった。その代わりとでも言うように、また壁があり、当て付けの様に、見せびらかす様に、促す様に、扉があった。まるで入れと言っているかの様だ。
後ろは壁であり、矢張り前に進むには此の扉を開けて中に入らなければいけないらしい。然し正直に言って中には入りたくない。可能ならば此処で蹲りながら助けを待っていたい。
そう考えて、直ぐに其の選択を棄てた。伊地知さんは兎も角、
「……あぁ、もう! 何で私が!」
大声を出しながら扉に向かう。速歩きで、反響する自分の声で心を鼓舞しながらドアノブに手を掛けた。
何で私が命を懸けなければいけないのか今でも思う。あのまま呪術を知らずに生きていたら今頃受験勉強でもしていたのだろうか。夜中まで、絵の勉強をして、雪平先生の酷評に腹を立てながらも、それでも何のそのと思いながらまた絵を描いて。愛莉と放課後に勉強会と言う名の女子会をして、彰人とは偶に喧嘩しながらも一緒にカフェに行って、パンケーキやチーズケーキを食べて、何と無しに生きて行く。
そんな生活を、送れていたのだろうか。
考えるだけ無駄である。抑も此処で死ねばそんな未来は来ることもない。
そんな価値は、有るのだろうか。
こんなリスクを負ってまで、私は美術科に行きたいのか。命と絵を天秤にかけて、それは果たしてどっちに傾くだろうか。
──考えるまでもない。
私はドアノブに掛けている手に、力を込める。
♢
「良いのですか?」
「ん? 何がだ?」
月がまだ空に顔を出している早朝。虫の鳴き声を聞きながら、伊地知と絵名の祖父──東雲八郎は車に乗りながら絵名の帰りを待っていた。暖房のついた車内は快適であり、伊地知は俯きながら時間が過ぎるのを待っていた。抑もこんな状況でなければ八郎と二人で狭い空間に居なければいけないと言う、良く言えば罰ゲーム、悪く言えば拷問は真っ平御免なのだ。
「この件、絵名様には荷が重いのでは? 嘗ての三十年前、当時の呪術師が束になっても祓えなかった特級を、まだ呪霊も祓っていない絵名様に……」
三十年前、球体が出現した其の当時。当然の如く呪術師たちは球体に挑んだ。然しその甲斐も虚しく誰一人として球体を祓う事は出来なかった。
二十人──なんて規模ではない。凡そ五十人あまりが行方不明となっている。遺体は、まだ見つかっていない。
結局祓う事は出来ず、出した結論は此処に閉じ込めると言うものだった。
祓う事は出来ずとも、押さえ込む事は出来る。彼等が選択したのは、現状維持だった。この場に結界を張り、此の旅館に閉じ込める。そうすればこれ以上の被害もでない。
実際にそれは妙案であった。元々多いとは言えぬ呪術師。その数が球体によって減ると言う事態は東雲家にも避けたかった。故にこの案は当時の呪術師にとってとても効果的だったのだ。
然し所詮は現状維持。現状はそう長くは続かない。いや、此処迄三十年。維持と言うには比較的続いた方である。然しそれも〝続いた方〟であり、最悪の中の最善だった事には代わりはない。三十年と言う年月は思うより長く、張った結界は穏やかに緩み解れ、軈て消滅した。けれどもそれはどうでもよかった。調べであの球体は此の旅館から出る事は無いと解っていたから。此の儘忘れ去られた方が都合が良かった。
そう思った矢先に〝あれ〟である。
こんな忘れられた宿を買い取りたいと申し出る人間は存在しないと思っていた。伊知地もそうであり、何よりその時を生きていた八郎も例には漏れなかった。伊知地は書類で見ただけであるが、それでも、それだけでも被害の深刻さを知るには充分であった。
「まぁ、本来ならば悟の坊主の仕事なのは本当だのう。はっはは。ま、あやつの休みが出来たと言う訳じゃな」
「はっはは」と、矢張り特徴的な笑い声をあげる八郎。それがまるで鬼の声かのように響き、伊地知は身を竦める。
あの呪霊は嘗ての特級呪術師でも祓う事は出来なかった。普通ならば、そんな恐ろしい呪霊を数ヵ月前まで呪術師と言う世界を知らなかった女の子が祓える筈が無い。まともな人間ならば、そう思うだろう。いや、まともな人間でなくとも、常識的に考えれば十人中十人がそう考え至るだろう。
けれど、伊地知は心の何処かで、絵名が生きて帰って来ると確信していた。
理由や訳は解らない。本能的とでも言おうか。それでも伊地知は絵名が死ぬ光景を想像が出来なかった。
術式? 違う。
人間性? それも違う。
己でも何故か解らない。けれどどうしても絵名の屍体が脳味噌に思い浮かべないのだ。
解っている。呪術師の世界はそんなに甘くないのは。死なないと思っていた者が瞬きした瞬間に意思の無い只の肉塊になっている事は此の世界では当たり前だ。仲が良かった友人が敵になることも。此の世界で絶対は存在しない。不条理や理不尽なんて、当たり前の様に存在している。
何時だったか、特級呪術師である五条悟は言っていた。呪術師は腐った蜜柑の集まりだと。一つ腐っては、それがまるで波紋の様に広がっていく。確かに解りやすい例えだと伊地知は一人で納得をしていた。
目を瞑る。思い出すはあの小さな背中。彼女の事は何も知らない。人伝にしか聞いたことはない、昨日のあれが伊知地にとって初対面であった。
あの小さな背中に、一体どれだけの重石を背負っているのだろう。どれだけの傷を抱えて居るのだろう。その傷を、重石を背負ったまま、この腐った世界で生きていこうとしているのだ。いや、彼女はまだ呪術師の真意を理解していないのかもしれない。けれどいずれは気付くだろう。この世界の異常さに、不快さに。それに気付いた時、彼女は、東雲絵名は何を想い、どう選択するのだろう。
伊知地には解らない。けれど傍に居る事は出来る。あの小さな、強くて脆い存在を、支えてやることは造作もない。そう思った。
直後、爆発音が響く。地も揺れ、車が音を立てて軋んだ。
「始まったな」
八郎の声など、伊知地には届かなかった。伊知地の目線は、思考は、旅館に全て向いた。旅館は変哲も無かった。爆発音と、地面の揺れだけが辺りに響く。
「見届けようではないか。一人の哀れな女の行く末を」
そう言って、八郎は愉快そうに笑う。
伊地知は彼女の過去を知らない。けれど、未来は見ることが出来る。見届ける事が出来る。
その小さな背中に、大きすぎる荷物を背負おうとする彼女を、ただ傍で支える事は出来る。
祈る。東雲絵名の無事を、武運を。今の伊知地に出来る事は、それだけなのだから。