きっかけは私なのだろう。けれどそれすらも覚えていない事に罪悪感を感じた。
それは、久々に早く任務が終った時の事であった。その日は青い空を覆い隠す程の曇天であり、じめじめとした空気が漂っていた。昼時であり、空腹を抱えて街を歩いていると、ふと、何やら人の歓声が耳に届いた。
歓声と、それから音楽だろうか。歌声が辺りに響いており、私の周りを歩いていた人達はまるで波のように音楽の方へ吸い込まれていった。その顔は、希望に満ちている。私は何だかその様子が気になり後に続く。流れていく人並みはまるで祭りのようであった。ここ最近は祭りにも行けないのだが、それでもこの賑わいには覚えがあった。
騒ぎの原因は、すぐに分かった。人混みの向こうには二人組の少年と、中年くらいの男性が向き合っている。双方手にはマイクが握られており、まるで喧嘩の様に歌っていた。響いていた重低音の正体は地面に置かれているスピーカーから出ている音楽であった。
「……あれ?」
その中に、見知った顔を見つけた。長らく会っていなかったが、それでも彼の顔を私は忘れたことなかった。あの憎たらしく生意気な顔は、私が今迄の生涯で一番見たことがある顔である。
どうしようか。邪魔しては悪いし、見つかる前に此処から立ち去ってしまおうか。けれどもこいつが歌っている姿なんてこの先一生見れないかもしれない。
悶々と考えているといつの間にか歌は終っていたようで、周りの人間達は拍手をしながら両者に激励を送っている。なるほど、これは所謂ストリート音楽と言うものか。噂では聞いていたのだが生で見るのは初めてだ。
さて、歌も聞き終えたところでさっさと帰ってしまおうと踵を返す。けれど視線を彼奴に一瞬向けた瞬間、双方の視線が交差した。
まずい。そう思ったがもう遅い。少年は人混みを掻き分け私の方へ迷いなく一直線に歩いてくる。逃げても不自然だと思い私は諦めて彼と向き合う。
「……良かったじゃん、彰人」
「何で居んだよ、絵名」
少年──我が弟である東雲彰人は私を見て怪訝な顔をするも、私の腕を掴んでいる彰人の手によって帰るにも帰られない。何で居るんだと問いながらも私が何処にも行かぬよう腕を掴んでいるのは、一種の矛盾のように感じた。
「別に。騒がしいから見に来ただけ。あんたを見に来た訳ではないし」
「てか俺だって分かってたら声をかけろよ。無視してんじゃねぇよ。久しぶりに会ったってのによ」
「仕方無いでしょ。私だって暇じゃないんだから。それとも何? お姉ちゃんに話しかけて欲しかったの? あんたも可愛いところあるじゃん」
「良し。もうお前帰れ」
「はぁ? あんた姉に対してなんなのその態度は」
言い言葉に買い言葉。私達はいつの間にか周りの目など気にする事もなく激しく言い合いをしていた。そんな私達二人に割って入ったのは、先程彰人と共に歌っていた少年であった。
「彰人。その方はどなただ?」
「冬弥。……知らねぇ奴だよ」
「姉に対して随分な物言いじゃない?」
自分で引き留めた癖にそんなことを言う彰人を鋭い目で睨み付ける。長らく会っていないから侮っていたが、こいつは本当に度を越えて生意気な弟であった。何が彰人を守るだ。こいつの場合、私が守らなくても自分一人でなんとかなるかもしれない。
……なんて、非術師が死ぬ気で戦っても四級呪霊ですらも祓えないことを、私は知っている。こんな生意気な弟だが、私が守るべき人間なことには変わりない。それが姉と言うものだから。
そんな事を考えていると、彰人から冬弥と呼ばれた少年はズイッと私に顔を近付けてきた。思わず後ろに仰け反る。
「……何か?」
「貴女は……ゲームセンターの時の……!」
…………憶えがないぞ。ゲームセンターにだなんて、最近行ったことがない筈だ。
まさか、また忘れているのか? だとしたら冬弥くんに申し訳ない。なんだか奏の時と似たような状況である。自分だけ苦しむのならまだしも、こうして私の記憶障害で他人に迷惑を掛けてしまうのは早急にどうにかしなければいけない。
どうにか? 私の記憶が戻らなければどうにも出来ないというのに。
「……ごめん。まったく憶えてない」
一瞬、冬弥くんに話を合わせる事も考えたが、それだとぼろが出やすいのは目に見えている。ここは正直に憶えていない事を白状した。すると冬弥くんの顔はみるみるうちに悲しそうになる。……奏の時も思ったのだが、こうなった場合の罪悪感は異常だ。チクチクと、背中に針が刺されているような感覚である。
しょうがないじゃないか、とか、私だって忘れたくなかった、などの言い訳は、グッと飲み込む。それは相手にはどうでも良い事であり、責任転嫁も良いところだ。記憶を失くして周りに迷惑を掛けていることは事実である。それを私が見ないふりしたところでなんの解決にもならない。
そんな空気を察したのだろう。彰人は呆れながら冬弥くんを指差した。
「青柳冬弥。オレの相棒だ。冬弥。こいつは東雲絵名。まぁ、…………………………姉だよ」
私を紹介するのに随分な沈黙である。どれだけ彰人は私を姉だと認めたくないのだ。私が彰人に何をしたと言うのだ。まったく、失礼極まりない。今はもう彰人ととの遣り取りは思い出せないが、決してそんな酷い扱いはしていない筈──である。多分。
まぁ、そんな事は置いとき、私は彰人の紹介を聞いた後、冬弥くんに手を差し出した。
「宜しくね、冬弥くん。彰人がいつもお世話になってます」
「いえ、こちらこそ。彰人から絵名さんの話は良く聞いてます」
「おい。余計な事言うんじゃねぇぞ。冬弥」
冬弥くんの言葉に被せるが如く、彰人はそう言った。一体何を言っていたのか。想像にも固くない。どうせ駄目な姉だだとかの悪態なのだろう。彰人が私の事を良く言っている筈がない。
けれど、それにしては冬弥くんの私への反応が柔らかいような気がする。普通、相棒が家族に対して悪い印象を語っていれば態度に出るものだが、冬弥くんからはそんな雰囲気が一切感じられない。どころか何だかその逆のように感じられる。
……まさか、本当に?
そこまで考えて、思考を回すのを止めた。私がいくら考えたところで本当の事なんて分からないのだから。
「……彰人」
「あ? 何だよ──って、うお」
眉間に皺を寄せて面倒臭そうにしている彰人に対して自分の財布を投げ付ける。何とか地面に落とさずキャッチした彰人だったが、表情には困惑が滲み出ていた。
「飲み物買ってきてよ。私はミルクティね。冬弥くんは何が良い?」
「え? で、でも……」
「はあ? 何でオレがそんな事しなきゃいけねぇんだよ。自分で買ってこい」
「その財布の有り金でスイーツ買ってきても良いけど」
私の発言に、今度は目を丸くした。それと同時に、彰人は駆け出す。結局甘いものに弱いのだった。単純単細胞の弟が心配になる。あれで良く今迄詐欺にあってこなかったな。お姉ちゃんは不安だよ。
「さて」と、私は近くの花壇の煉瓦に座る。そして冬弥くんに隣に座るよう促した。色々、積もる話もあるのだ。その為に彰人をパシったと言っても過言ではない。
冬弥くんは一瞬戸惑ったような顔をしたが、特に断る理由もないと言う風に大人しく私の隣に座った。
暫く無言の時間が流れる。さて、どう言い出したものか。冬弥くんを座らせたは良いものの、肝心な言葉が出てこない。言いたいことが沢山あるからこそ、纏めるのが大変なのだ。けれどこのまま黙っているのも冬弥くんに申し訳ない。私は考えが纏まらないまま、口を開いた。
「……彰人とは、どうやって知り合ったの?」
私の言葉に、冬弥くんは思い出すように目を細めた。
……彼には、思い出す記憶があるのか。
今はもう昔を思い出す感覚すらも忘れてしまった。昔とはどんなものか。どんな私であったか。どんなに考えても思い出せない。けれども決して冬弥くんを羨ましがったりしない。私は私。他は他だ。一緒くたに考えてしまう程同じなわけではない。どころか立場自体があまりにも違う。比べてしまう方が滑稽と言うものである。
冬弥くんは考えた後、懐かしいように口を開く。
「きっかけは……俺が路上で歌ってた時でした。俺の家庭は家族皆クラシック音楽をしており、父は、俺にクラシックの才能があるとその道を強いました。体育の授業も手を怪我したら楽器が弾けないと受けさせて貰えず、学校行事なんてもってのほか。俺はそんな生活に嫌気がさし、父が毛嫌いしているストリート音楽を始めたんです。その時でした。彰人が俺に話しかけてきたのは。俺が路上で歌ってた時、彰人が一緒に歌おうと言ってくれたのです。一瞬戸惑ったのですが、それでも一緒に歌ってみると意外と息が合い、そのままコンビを組む形になったんです」
「……へぇ」
意外……でもないか。彰人は自分の目的の為ならば手段をも選ばない人間だ。知らない人間に喋る事も造作ないだろう。
血、だろうか。私にも似たようなものはある。私ですらもそう言うところがあるのに、彰人にも当然あるだろう。そんなところで血を感じたくはなかったが。それを言ってしまえば母だって同じだ。何の目的かは分からないが、無理矢理呪術高専に入れたのだ。あれで手段を選んだつもりだったら性根が腐っているどころの話ではない。
家族だからだろうか。両親に恨みはあるが、心の何処であれは両親にとっての最終手段だったと確信していた。
けれど、そうか。彰人はちゃんと相棒を見つけられたのか。そう思うと胸に暖かいものが広がっていく。意外にも彰人に対して僻みなどはなく、心の底から安心した。
彰人には、ずっと歌を続けていて欲しい。……いや、歌に限った話ではない。彰人がどんな道を歩もうと、その道を彰人が本気で歩もうとしているのなら、私は応援するし、必要とあらば手も貸す。まぁ彰人のことだから私なんかの手なんか必要ないとは思うのだが。
今のところはまぁ、彰人が歌を真剣に歌っているので、良しとするか。
「……ありがとうね。冬弥くん。彰人と一緒に歌ってくれて」
「いえ。お礼を言うのは俺の方です。俺も、彰人と出会っていなければずっと一人で歌っていて、諦めていたかもしれない。だから彰人には感謝してるんです」
「そっか……」
冬弥くんの言葉に、私は額に手を遣りながら目を伏せた。彰人。あんた本当に良い相棒を見つけたわね。それにクラシックと言ったら良い所のお坊ちゃんだ。彰人としても願ったり叶ったりだろう。
それにしても、青柳か……何か聞いたことがある名字だ。なんだっけ。
「…………あ」
「どうされました? 絵名さん」
「……いや、何でもない」
思い出した。と言っても今朝ニュースで見ただけだが。確かクラシック音楽家に青柳春道と言う男性がいた筈だ。もしかして、青柳春道の子供ではないだろうか。というか、今の話でほぼ確実だろう。あの人も随分厳格そうだ。
然し、私は敢えてそれに触れなかった。冬弥くんの話を聞いて父親との確執は絶対にあるだろうし、態と自ら地雷を踏み抜く事はするまい。本人にとっても触れて欲しい話題でもないだろう。
「そう言えば、彰人は私の事を何て言ってたの? どうせ我儘だとかの悪態でしょ?」
話題を逸らすように悪戯っぽくそう言った。今、彰人はこの場には居ない。だったらこの状況が好機である。私は問い質す様に冬弥くんに詰め寄る。
けれど私の想像は外れ、冬弥くんは「いえ」と否定した。
「彰人は絵名さんを〝努力家〟と言っていました。自分が歌を始めたのは絵名さんのおかげだって」
「…………」
そうだっけ。まずい。本当に何も憶えていない。
正直に言うと、彰人が何故歌を始めたのか、とんと憶えていないのだ。何故、何の為に歌っているのか。何かに影響を受けたと言うのは薄々憶えているのだが、それ以外は本当に真っ白だ。
まさかその影響が、私だと言うのか。いや、そんな筈はない。昔の事は憶えていないが、彰人の目の前でそんな影響を与える歌を私が歌う筈がない。
けれど、冬弥くんは彰人が歌を始めたのは私のおかげだと言っていた。だとしたら少なくとも彰人の起源に私が絡んでいるのは明白だ。それがなんなのか分からないのだが。
……こんな事、彰人には言えないな。きっかけを与えた人間がそんな事を忘れている事実は、相手にとってショックが大きいに違いない。私だったら考えたくもない話である。何なら怒りに任せて殴りかかるかもしれない。なんて、それは大袈裟だが。それでも、それくらいには落胆させてしまう可能性がある。
と言うか、私が歌を始めたきっかけなら、もう少し敬いをもってくれても良さそうなのだが。まったく。どうして私の周りにはこう礼儀のなっていない人間が多いのか。破天荒だがちゃんと私に対して敬語を使ってくれているえむちゃんの方が大人である。
「だから、俺も絵名さんに感謝をしているんです」
「へ、私? 何で」
冬弥くんの意外な言葉に、私は首を傾げる。感謝? 何故冬弥くんが私に対して何を感謝することがあるのか。
「彰人が歌っていなければ、俺は彰人に出会えなかった。それは絵名さんが彰人に歌を勧めてくれたからです。本当に、有り難う御座います。この御恩は一生忘れません」
そう言って、冬弥くんは私に対して頭を下げる。冬弥くんの旋毛が私の目の前に現れる。
私が呆然とそれを見つめていると、複数の視線を感じた。気が付くと周りの目が私達二人に注がれていた。
「ちょ……、頭を上げてよ冬弥くん! そんなお礼を言われるようなことはしてないし、周りの目があるよ!」
「いえ。絵名さんは俺達の恩人と言っても過言ではありませんので」
「全然過言だよ!?」
話を全然聞いてくれない冬弥くんに、私は全力で頭を上げるよう懇願する。別に頭を下げられること事態は良い。けれど、目が。あまりにも人の目が多く降り注がれている。目立つ真似は極力したくないのだ。
私がどうしようかと狼狽えていると、「おい」と、彰人の重低音が私の耳に届いた。助かった。然しそう思ったのも束の間。振り返り私の目に映ったのは私を軽蔑の眼差しで見つめている彰人の表情であった。
「お前、人の相棒に何させてんだよ」
「あんたには私の狼狽が見えていないの? 嘘でしょ?」
救いの神かと思ったが、私の元に来たのはどうやら不幸の悪魔らしい。
唖然としている私を無視するかのように、彰人は冬弥くんに喋り掛ける。
「おい、冬弥。こんな奴に頭なんて下げなくて良いぞ。調子に乗るから」
「彰人。お前も絵名さんに頭を下げろ。絵名さんのおかげで俺と彰人は出会えたのだからな」
「マジで何の話をしてたんだよ」
それから、冬弥くんと私の攻防は三十分にわたって繰り広げられた。冬弥くんは本当に礼儀正しい子であり、彰人には勿体無い程だ。けれども強情なところは玉に瑕であり、己が尊敬すべき人間と判断したのなら、盲目な程に信仰する。それが彰人も分かっているのか、呆れた顔で冬弥くんと私を見ていた。
私は戸惑いながらも、心の何処かで安心していた。この子なら、彰人を任せられる。彰人は口では強く言っていても、中身は繊細なのだ。強くもあるし、脆くもある。だから冬弥くんならそんな彰人と上手くやれるのではないかと、そう思ったのだ。
ふと、彰人を見る。彰人は心の底から楽しいと言うように笑っていた。それを見て、彰人にとってこの幸せが永遠に続けば良いと、願うのであった。