母は子供を愛するもの。そう自身に対して思い込みたかったのかもしれないけれど。
東京駅から仙台駅まで乗り継ぎ無しで約二時間。東北新幹線を使えば片道一万円程度で仙台まで着けるのは文明の利器と言えよう。
仙台駅に到着し、私は辺りを見渡す。話しによれば迎えが来ている筈だが、その人物は見当たらない。もしかしたら駅の外で待っているのかもしれないと、外へ足を向ける。
さて、宮城に来たわけだが着いて早々私はそわそわした感覚を覚えた。東京とは空気が違い、空気が澄んでいる。すれ違う人達も心成しか穏やかなような気がした。
階段を降り、改札を抜け、外に出る。外では冷たい風が吹き、空はもう橙色に染められていた。矢張り北の地方だからか何処と無く涼しい。今は心地の良い気温だがきっと冬になると途轍もない寒さになるのだろう。穏やかな場所でも自然には勝てない。けれどもし生まれ変われるのならこんな所が良いなと、人知れず思うのだった。
ふと、歩道の傍らに黒塗りの車が止められていた。何だか身に覚えのある光景に思わず目を細める。
出来るだけ近付きたくなく遠目で見ていると、運転席が開き、運転手と思われるスーツを着た人間が後部座席を開ける。其処から出てきたのは先日の会食相手である髙梨知事であった。そんな堂々としていて市民に騒がれないかとは思ったが、意外にも気付かれないらしく、すれ違う市民達は私達なんかに興味を持つこともなく歩いていたり急いでいるのか走ったりしている。
「お待ちしてりました、絵名様」
「どうも。悪いわね、髙梨知事も東京から帰ってきたばかりなのに」
「滅相もありません。絵名様の為でしたら西へ東へとどんな所にだって駆けつけます」
「あはは……どうも……」
このお世辞は対東雲家のデフォルトなのだろうか。何だかお世辞を言われ過ぎて逆に何も感じなくなってしまった。嬉しいとも勿論思わないし、不快感も段々と薄れて来たのだ。慣れ……と言うものなのだろうか。今にして思えばお世辞を言われることに感情的になっていた方が良かったような気もするのだが、然し何も感じない事によって少しだけ心の負担が減った事もまた事実だった。
これは果たして成長なのか、後退なのか。感情を失う事を成長と呼ぶのなら、随分この世は殺伐としている。
「さぁ、絵名様。向かいましょう」
その言葉と共に、運転手は後部座席の扉を開ける。どうやらこのまま現場へ直行するらしい。まぁ私としても任務をすぐに終わらせられた方が気が楽だ。
私は言われるがまま、芳香剤の香りがする車へと乗り込んだ。
♢
「や、お疲れサマンサー」
そう言いながらアイスを食べている五条先生を、私は呆れながら見ていた。
仙台何処かの有料駐車場。其処で待ち受けていたのは、全呪術師からいちもくおかれ、全呪術師から距離を置かれている呪術師界最強の男、五条悟だった。同行してくれる有り難さと、五条先生の相手は少しばかりの疲労が溜まると言う感情がどっちも押し寄せる。
まぁ、どちらにしろ味方で居てくれたらなら安心なのだが。国が最大技術を使って最強シェルターを作ったとしても五条先生の傍に居た方がこの世の何よりも安全だ。
「いやぁ、長旅ご苦労様。僕は先に着いて観光してたよ」
「見れば分かるわよ。全く、人が急いで宮城に来たって言うのに呑気なものね」
「いやいや。僕だって任務の後だからね絵名とそんな変わんないよ」
本当にそうだろうかと疑わしい姿である。何なら任務ではなく観光で宮城に訪れたと言われた方が何倍も納得出来る。けれども五条先生は特級。言わずと知れた最強の彼が言うのだから、まぁ、本当の事なのだろう。
「さて、此処からは僕達二人だけで行くよ。彼は今自宅に居るみたいだからね」
そう言いながら、五条先生は近くのゴミ箱にソフトクリームを巻いていた紙を投げ捨てる。近くと言っても数メートル離れている位置にゴミ箱は置かれてあり、普通なら外しそうな長さなのだが、矢張り最強の五条先生。まるでバスケットボール選手の様に真っ直ぐと紙はゴミ箱に吸い込まれて行った。
行儀が悪い……とは思ったが、まぁ、それでも落としていない為別に言及することでもないと思い直し口を噤む。私の立場に健人が居たのなら恐らく小言を言っていたに違いない。その様子が鮮明に想像出来てしまい、思わず吹き出しそうになる。健人とは最近全く会えていないが、大丈夫だろうか。無理をしていないと良いのだけれど。
「あのぅ」とおずおずとした様子で髙梨知事が喋りかける。そう言えば彼も居たのだったなと思い出し、私は目線だけ動かして彼を見た。彼は脂汗を真っ白なハンカチで拭う。車の中はクーラーで冷えていたと言うのに身体から湯気が出そうな程に汗をかいていた。私からしたら肌寒いくらいであるのに、どうして彼はこんなにも汗をかいているのだろうと不思議に思う。
「何? どうしたの?」
「いやぁ、良いのですか? 案内しなくて。呪術師によって結界を張られている為複雑な回路になっておりますが……」
「あぁ、それは大丈夫。場所は何となく分かってるし、その結界だってもう順応済みだよ」
五条先生は髙梨知事の言葉に対して退屈そうにそう返した。
流石と言うべきなのだろうか。結界に順応するだなんて並大抵の技ではないだろうに。
けれどまぁ、五条先生の言っていることも分かってしまう。恐らく此処は例の呪霊からは少し離れた場所。それだと言うのに身をよだつ程の呪力を私の体は感じていた。
……先日の髙梨知事の言葉通り〝特級〟だとしたら余程の呪力を持った呪霊なのだろう。どうして祖父は私をこの場に寄越したのか。五条先生なら兎も角私が現場に赴いたとして出来るのは足を引っ張る事くらいではないだろうか。私に実力があるから任務を振り分けたと考えられれば良いのだが、あの人がそこまで考えているとは到底思えない。
抑も私はまだ一級だ。確かに己の等級以上の任務を請け負うこともこの業界じゃあよくある話だが、五条先生が居るのだったら私なんて必要ないのではないだろうか。
……いや、この思考はあまり良くない。最強だからと言って何でもかんでも押し付けてしまっては逆に五条先生の負担になってしまうかもしれない。
『天才だろーがカワイイ子だろーが、キツイことってあるし?』
嘗て瑞希に言われた言葉が、脳裏を過ぎる。
瑞希の言う通りだ。いくら本人が凄い力を持っていようが、本人がそれを望んでいない限りそれはただのガラクタ同然のものであり、勝手に期待を押し付けられても迷惑にしかならない。雪の様に周りの期待に応えたいが為に己を無くしてしまう事もある。
私だって同じだ。祖父や周りは私に呪術師としての才覚があるとまるで神を祭り上げるかのようにそんな戯れ言を口にするが、そんな言葉を掛けられても心なんて動かない。こんなものより絵の才能が欲しかったと願うのは、傲慢と言うやつなのだろうか。
「じゃあ行こうか。向かうは呪われた乙骨家だよ」
そう言って五条先生は先陣を切って歩き出す。私はそんな五条先生の背中を見て深く溜め息を落とした。良くもまぁそんな意気揚々として居られる。私は先の事を考えて気が重いというのに。
今回の被害者の事については資料を見て私も内容は把握していた。
──いや、被害者ではなく加害者と言うべきだろうか。尤も今回の傷者は別に居る。正しく言うなればその少年が原因で怪我人が出たのだ。それでも内容を知ってしまえば彼を責める気にはなれなかった。何なら同情に似た感情さえ湧き上がってくるのだ。
徒歩二十分は掛かっただろうか。件の乙骨家は意外にも住宅街の真ん中に位置していた。もう少しおどろおどろしい場所を想定していた為か少しだけ肩透かしをしてしまった。まぁ考えれば呪霊が居る場所が全て陰鬱な場所に居るとは限らない。確かにそんな場所に呪霊が発生しやすいのは確かではあるが、全てでは無い。其処に負の感情が蓄積されたら、呪霊は何処でも現れるのだ。
それが一番何処であれ。何であれ。
五条先生は覚悟を決めることもなく、まるで決まり切った事の様にインターフォンを押した。私だったら知らない家のインターフォンを押すのを躊躇してしまうのだが、五条先生からはそんな気配は微塵も感じられない。果たしてこの人に緊張と言う言葉は備わっているのだろうか。いや、いないだろう。五条先生が狼狽えている姿なんて想像が出来ない。
三十秒くらい経っただろう。中から物音が聞こえ、それからまた十秒が経ち漸く玄関の扉が開かれた。出て来た女性は幸薄げの顔をしており、頬がたるみ、目には黒い程の隈。そして杜撰に結われた髪は四方に後れ毛を残していた。その明らかに何かしら心の悩みを抱えていそうな風貌に、私は思わず目を見開いてしまた。
「…………どなたでしょう」
女性は警戒心を隠そうとせず、扉を猫が一匹通れる程度しか開けずに怪訝な顔でそう言った。まるで私達を拒絶しているかの様である。
「こんにちは。私達呪術高専の者でして。息子さんの件で少しお話を」
「呪術高専……? どうして高専の方が此方に……。……いえ、こんな事を言っている場合ではないですね。どうぞ中へ。私も少し心当たりがあるのです……。お話を聞いてもらえるのなら、是非もありません……。どうぞ……」
そう言って、顔一つ分の隙間しか開けていなかった扉を、今度は人一人通れる程の広さまで開け放った。警戒心は、まだ薄れていない。当然だろう。突然来た正体不明の男女二人。内一人は奇妙な包帯を目にぐるぐると巻いているのだから。まだ私の方が警戒心を持たれまい。
「失礼」と、五条先生は中へ入る。その仕草には矢張り躊躇は感じられない。私は五条先生の後を追いながら中へ入る。その際女性と擦れ違ったのだが、私は何の声掛けも出来ず、ただ軽く会釈をしただけであった。その女性の視線は酷く、力無く憔悴しきっている。
中に入り最初に目にしたのは杜撰に破かれたカレンダーだった。その次に電話線が切れている固定電話。次に抜けている床。そうして全体を見渡して今までにない驚きが口から出そうになり、既のところで息を飲み込み私の叫びが外に出ることはなかった。
外からでは分からなかった。この家の異常さを。確かに凄まじい量の呪力が感じられた。けれども中に入った瞬間、その身の毛もよだつ程の恐ろしい呪力は外から感じたそれの比ではなく、私が今まで感じたどの呪力より悍ましく、恐ろしいものであった。
もしかしたら、五条先生以上の呪力を持っているのではないだろうか。
通されたのはリビングであった。リビングのカーテンはビリビリに破かれ、机の上も割られた食器や何か分からない種類やらが散乱していた。女性はそれらを適当に片付け、私達に座るよう促した。こんな惨状、何があったか既に言葉にするまでもなく明白であった。
「紅茶は……飲めるでしょうか……。お砂糖はあります。遠方からいらしたのでしたらコーヒーの方が良いのでしょうか。如何せん、来客を迎えたことがあまり無いものですから……。えぇ、そうです。息子が……良い顔をしません。けれど決して人間嫌いという訳では無いですのよ……」
まるで覇気が無いように、力無く女性は独り言の様にポツポツと呟いている。
カチャカチャと音を立てて飲み物を準備している女性を横目に私は五条先生に耳打ちする。
「ねぇ、あの人大丈夫なの? 明らかに憔悴し切ってるけど……」
「まぁね。当然だよ。
「…………」
五条先生の言う通りであった。いつ自分に危害が及ぶか分からぬこの状況。本来なら狂っても可笑しくない。けれど彼女は逃げもせずずっと此処に住んでいる。それはきっと、息子に対して底知れぬ愛があるから。
子を想う親の気持ちは完全には理解出来ない。私はまだ子を持つ親にはなっていないから。けれども家族を想う気持ちは理解が出来る。
きっと彼女は息子が産まれた時から、ずっと母なのだろう。変わる事なく、見捨てることなく。それを愛と呼ばずなんと言うのか。
何て高潔で、高尚な存在なのだろう。その心意気は奏を想起させる。誰かと誰かを繋げて考えるなんて失礼な気がするが、それでもその心持ちは感服に値するのだ。
音を立てて、机の上にお盆が置かれる。見ると女性が此方を見下ろしていた。表情は見えない。ただ逆光で真っ暗であった。
「お願いです……。あの子を……私達を、どうかお助け下さい……」
震えた声である。鼻腔に届く香りで女性が持ってきたのは紅茶でもなくコーヒーでもなく、緑茶だと言う事に気が付いた。