流石に目の前の命を見棄てる事は、到底出来なかった。
宮城県仙台市の某公立高校にて、男子高校生が四名、教室内のロッカーに
一見すれば不可解な怪奇事件なのだが、裏腹に犯人はもう既に特定されていた。それは決して警察などの司法の力ではない。確かに警察の捜査は馬鹿にならない程に優秀なのだが、それより遥かに優秀な補助監督たちがたった一日、二日で内情を調べ上げ、犯人を特定したのだ。
これは呪霊による事件だと、すぐに見抜いた。その判断の速さは凄まじく、その証拠に事件が発覚した二日後に私と五条先生が派遣されたのだ。
その犯人が、乙骨憂太である。
此処で勘違いして欲しくないのだが、乙骨憂太は呪術師ではない。呪詛師とも違う。勿論呪霊でもない。彼は本当に紛れも無く一般人なのだ。ただ一つ、
勿論私達が来る前に宮城を拠点にしている呪術師達が呪霊に立ち向かおうと果敢に赴いたらしいのだが、そのどれも全て返り討ちにあっているのだ。
手も足も出なかったと聞く。だから一級の私と特級の最強呪術師である五条先生が派遣されたのだった。
そして件の少年──乙骨憂太は今目の前で膝を抱えて震えていた。全てを拒むように。まるで何かに怯えているように。
乙骨憂太は、意外にも大人しく高専へ同行してくれた。もう少し抵抗されると思っていたから、正直言って肩透かしを食らった気分であった。まぁ手が掛かるより断然マシだと思うのだが。それでもこの任務は私と五条先生が本当に振り分けられるものだったのかと疑問が残る。
乙骨宅から都立呪術高等専門学校まで、例の騒動は起きなかった。あれだけ様々な呪術師が返り討ちにあっているのに……である。五条先生の呪力量で抑圧されているからなのかは分からない。もしかしたらまた別の原因があるのかも。
「さて、案外早く済んだね。良い事だ」
あっけらかんと、五条先生はそう言った。何を呑気な事を。これからが大変だと言うのに……と言う言葉を飲み込む。どうせ今回も五条先生がどうにかしてくれるのだろう。五条先生は確かに凡ゆる呪術師から反感を受けているのだが、それと同時に絶対的な信頼がある事は確かであった。
それは五条先生が紛れも無く最強だからだ。それ故に五条先生の言葉には責任感が生まれ、説得力が込められる。
「それはそうだけどさ、これから乙骨君はどうなるわけ? このままじゃあの子……」
「そうならない為に僕達でどうにかこうにか上層部を説得するんでしょ。大丈夫。絵名が入れば百万馬力だよ」
「別に私は馬力で動いていないんだけど」
それを言うなら私ではなく五条先生の方が説得力があるように思うのだが。
けれど、五条先生の言っていることはそれとは違うのだろう。
東雲の人間による発言。それだけで全員を頷かせるだけの力を持つのだ。五条先生はそれを宛にしているのだろう。確かに私が共に上層部の元へ赴いた方が何かとやりやすかろう。
問題があるとしたら一つだけ。
「……あの人が私達の意見に異を唱えたら、私の発言は無に帰すと思うんだけど」
「八郎様の事?」
五条先生の発言に、私は言葉の代わりに首を縦に振る。
私がいくら上層部に対して意見をしたところで、祖父が私の言葉に異を示したら私の言葉はもう通らないも同然だ。私が東雲の名を冠していたところで所詮はその孫。私と祖父とでは立場が違い過ぎる。
積み上げて来たものも、権限も、何もかも足りない。悔しいがそれが現実である。この時ばかりは人脈を広げておくべきだったと少しだけ後悔した。まぁ人脈を広げたところでこの呪術師界は如何せん腐っている為後々大変な事になりそうだが。五条先生の言葉を借りるなら、腐ったミカンと言うやつだ。まったく、上手い事を言うものだと一人で感心したものだ。
勿論、だからと言って乙骨憂太に被害が出るのを黙って見過ごせるかと言われればそれは否である。目の前で人が死にゆく様は到底無視出来るものではなかった。
「ま、そこんとこは大丈夫でしょ」
「簡単に言ってくれるね。此方の気も知らないで」
余裕そうに、五条先生はそう言う。その言葉に説得力があるのは矢張り五条先生が最強だからなのだろう。確かに五条先生が上層部に言い負かされている状況は余りにも想像が出来ない。上層部が五条先生に対して怒りを抑えて尚何も言えない構図は容易に想像出来るのだが。その様子を頭に思い浮かべて、五条先生に気付かれないくらいの小ささで吹き出す。
これ迄五条先生の様なちゃらんぽらんな人間に出会った事は一度もなかったが、それと同時に五条先生程に最強の人間は一度だって出会った事はなかった。
「だって、僕は君の事信頼してるからね」
そう言って、五条先生は私の頭を優しく撫でた。その大きな手が私に触れた瞬間、ふと私の心の中に暖かいものが広がっていくのが分かった。
何度か感じたこの暖かさ。私はきっとこの温もりですらも忘れてしまうのだろう。
♢
上層部が居る場所は苦手だ。真っ暗な中に障子が五つ。その裏には卑怯にも顔を見せない上層部の人間。その空間に居るだけで目眩がしそうな程であった。こんな空気だったらセカイの方が何倍も息がしやすい。
「乙骨憂太の秘匿死刑はもう確定しておる」
「ですよねー」
思わず口から漏れ出す。その言葉に反応する人間はこの場には居なかった。
まぁ、確かにこの被害を考えれば納得ではあるのだが。このまま野放しにしておくとどんな被害が出るのかは火を見るより明らかだ。
目線を横にし、五条先生を見る。五条先生は上層部の前だと言うのにも拘らず依然として余裕な笑みを崩してはいなかった。本来なら頼もしいと思うべきなのだろうが、相手はあの五条先生だ。また何か悪巧みをしているに違いないと訝しげな目を向けてしまう。
まぁ、私が心配せずとも五条先生ならどうにかしてくれるのだろう。ああは思いつつこう思ってしまうのは正しく信頼なのではないだろうか。
「早計ですね。まだ十六歳ですよ。もっと穏便に済ませた方が宜しいかと」
「穏便じゃと? それが出来ぬからお主ら二人を派遣させたのじゃ。これまで乙骨憂太を捕らえるが為にどれ程の被害が出たと思っておるのだ。この先を考えれば死刑にするべきじゃ」
「おじいさん達は生き急いでいけないねぇ。もう少し柔らかく考えてくださいよ。そんなんじゃ早死しますよ」
五条先生の言葉に、上層部の人間達は一斉に殺意を露わにする。けれど殺気を出すばかりでこちらに対して何も言わず攻撃もしない状況を見ると腐っても上層部。五条悟と自分達の力量の差を自覚しているのだろう。下手に五条先生の機嫌を損ねて上層部が殺されてしまったらこの呪術界は衰退の一途を辿る事だろう。それは流石に私の望む未来ではない。
勿論、乙骨憂太の秘匿死刑を覆せれば理想的なのだが。
乙骨憂太には、己が秘匿死刑の事を既に伝えているのだ。驚かれたり暴れられたりするのかと思ったのだが意外にも乙骨憂太は冷静だった。冷静過ぎる程に。
いや、あれは冷静ではないのかもしれない。絶望しているが為に我を忘れているのだ。
五条先生は溜め息をつきながら頭を乱雑に掻く。
「完全秘匿での死刑執行? 有り得ないでしょ」
「
乙骨憂太は、自らが死刑になることに頭を縦へ振った。その姿を見た時咄嗟に頬を叩きそうになったが済んでのところで抑えたのだ。確かに命を蔑ろにする奴は嫌いだ。けれどそんな私の価値観は今全てに絶望している相手にとってどうでも良いことだ。
まふゆの時とは状況も何もかも違う。目の前で人が死に逝く様を見て、乙骨憂太は何れ程の絶望を味わったのだろう。想像するまでもなく、痛い程私には分かってしまう。
目の前で人が死ぬ光景は、私が幾度となく見てきたものであった。
「──私は、反対」
その言葉を発した瞬間、私の体全体に全ての視線が降り注ぐ。障子で仕切られた空間であるのにも拘わらず刺さってくるその視線に、私は思わずたじろぐ。
いや、駄目だ。此処で逃げ出してしまっては。今の私は東雲絵名。悔しいがその名前を利用する為にはそれ相応の態度で挑まなくてはいけない。例え今この場で押し潰されそうとも、私は逃げては駄目なのだ。
「……現実的に考えて今乙骨憂太を刺激するのは得策ではないと私は思う。逆に何人呪い殺されるか分かったものじゃない」
冷静に見えていただろうか。これでも心臓がバクバクと音を煩く立てているのだ。
感情論で押し通すのは簡単だ。けれどもそれでは誰も納得をしない。今の私に必要なのは冷静な判断と毅然とした態度。そして相手を頷かせるだけの理論的な言葉だ。正直論理で喋るのは得意ではない。けれどもそうは言ってられないのだ。
乙骨憂太の命が掛かっている。いくらそれが乙骨憂太にとって偽善的で押し付けがましく映っても私は決して目の前で自ら命を捨てようとしている人間を放っては置けないのだ。
「……はて、絵名様。野放しにしても駄目。殺しても駄目となると一体どのようにすれば良いのでしょうか。まさかこれだけ啖呵を切っておきながら何も代替案がないなんて、ねぇ。そんな訳はございませんでしょう?」
一々癪に障る話し方をする人間共だ。私が東雲の人間でなかったら今すぐ殴っていたところだ。
代替案はあることにはある。けれど今になってそれが本当に正しい事なのか少しだけ不安な感情が溢れ出てきた。恐らくこれは凡ゆる人間をも巻き込んだ案であり、恐らく百人に聞けば二十人頷くか否かという具合であった。
考えている暇は無い。けれども失言は許されない。そんな重圧の中、私は震える口を開く。
けれども先に言葉を発したのは横で退屈そうに立っていた五条先生であった。
「乙骨憂太は呪術高専で預かります」
思わず五条先生の顔を勢い良く見る。上層部も騒つき各々困惑した声を漏らしていた。けれど私は上層部とは違う理由で目が飛び出そうな程に驚愕をしていた。
それは……本当に私が今口にしようとしていた言葉だった。
別に五条先生と共有していた訳ではない。どころか今さっき思い付いたものだ。本当ならもう少し後々の事とか様々な事を考え調べてから言うべきなのだろうが、今はそんな時間はなかった。
驚きやら嬉しさやら悔しさやらが入り交じり、少しだけ複雑な感情が頭をぐるぐると回っていた。本来なら私が言って然るべきなのに、まるで五条先生に押し付けてしまったかのような気不味さ。本当に申し訳ない。
おずおずと言った様に、私は五条先生の顔を覗き見る。
「五条先生……」
「ま、任せてよ」
そう言って私に向かってウィンクをする先生。いつもなら気取っている態度に腹を立てるところなのだが、今に限ってはこの上ない頼もしさが感じられた。
「何を言っておるのだ! あれを見す見す生かしておくと言うのか!」
「絵名の言う通り今乙骨憂太を刺激しても逆効果です。乙骨憂太は高専の一年生に編入させ、僕の元で面倒を見ます。それなら文句ないでしょう?」
五条先生の言葉に、その場に居た人間は全員押し黙る。当然だ。あの最強である五条悟が己の元で面倒を見ると言っているのだ。断る理由もそうそう見つかりはしない。
けれど彼等は黙っているばかりで肯定をしようとしない。恐らく不安があるのだろう。いくら最強の五条悟とは言え〝アレ〟を抑え込むのは容易ではない。いや、容易であったとしても五条先生が上層部の思惑通りに到底思えない。恐らく上層部もそれを危惧しているのだろう。まぁ私が上層部の立場だったら同じ事を考えていたかもしれない。
肯定もしなければ否定もしない。それはきっと否定する材料を持っていないからだろう。いくら五条悟に任せるのが不安だったからと言って上層部も心の何処かではわかっている筈だ。野放しにするより乙骨憂太に対して攻撃をする方が遥かに危険度数が高いということに。
暫くの沈黙が続く。それは何よりも重苦しく息が詰まりそうだ。
前から苦手なのだ。この殺伐とした空気は。気軽に息も吸えない。大きく息を吸ったら最後、空気に纏っている棘が肺を、心臓を鋭く刺す感覚に襲われる事だろう。それは嘗て私が本家で一年間感じていたものであった。確かに記憶は朧気なのだが、その空気感は昨日の事の様に思い出せる。
口を開いたのは、五人の内一体誰だっただろうか。障子で仕切られているこの部屋の中では誰がどの声でどの位置に居るのか到底知り得ない。
「──分かった。五条悟。乙骨憂太の秘匿死刑は一時保留とし、貴様に全てを一任する」
それはきっと振り絞った言葉だったろう。言葉の端々に底知れぬ不安の影が確かに見えた。それに答える様に五条先生は「承知しました」と不敵な笑みを浮かべている。
何処から何処までが五条先生の予測通りだったのだろう。私にはきっと知る由もない事だ。ただ静かに、私はその結果を聞いて胸を撫で下ろすのだった。