樹のように優しく
暖かな焚き火。
モコモコとしたダウンジャケットの温もり。
身体の中から温めてくれる、火傷しない温度のお茶。
そして体重をかけても倒れない、大切なひとが支えてくれる安心感。
聞かせてくれるギターの音も、焚き火に入れられた木が弾ける音も、僕の好きな風景のひとつ。
空を見上げれば満点の星空があって──
『ひとごろし』
すぐ後ろからはそう、呼びかける声がする。
目を閉じても、小さく丸まっても、耳を塞いで好きだったもの全てから遠ざかってもその声は聞こえてきて、いつしか星々の消えた夜空もひび割れ、その隙間から絶え間なく浴びせられる声と伸びてくる手のひら。
『にがさないから』
腕を取られ、耳を塞いでいた手が外れて全てが自分の中に入ってくる。
至る所を掴まれる恐怖に怯える中、じわじわと近づいてくる手のひらが爪を立てて眼球に触れようとしたその時──
「ゔぇぁぁあ!?」
そんな夢から覚め、ベッドから転がり落ちて現実を見る。
スマホの画面をつけて時間を見れば7時と少し。
スヌーズでもう一度アラームが鳴るまであと5分と言うところで、少なからず寝坊したと言う事実がそこにはある。
......とは言っても、だからどうしたのか、だ。
特段急ぐ事はせずに体を起こし、すでに保護者の外出した静かなリビングで歯を磨きながらそう思う。
学生らしい制服に着替え、上着を羽織り、ソレについているフードを深くかぶって家を出れば、燦々と照りつける痛いほどの日差し。
ここ数年における温度の変化は無慈悲にも僕のやる気を削ぐために熱を撒き散らすが、今更家に戻るのも面倒だ。
自販機で割高なジュースを買いながら駅に向かって歩いていれば、ちょこちょこ見かけるのは急ぎ足で学校に向かう宮益坂女子学園の生徒達。
そういえば保護者が言っていたが、昔に知り合いだった人たちがそっちに進学したらしい。
『女の子だったら行けてたのにね〜』なんて言われて反応に困ったが、たとえ男でも女でも宮女の入試に合格できる気はしないもの。
そも僕は頭がたいして良くないし、宮女は頭のいい女の子達が集まる高校、と言うステレオタイプなイメージがあるしで、あんまり。
そんな宮女の生徒を全く見かけなくなる遅刻確定の時間帯。
ピークを過ぎた電車に乗り込めば、すっからかんの席があちらこちらに。
それならば座らない理由はないと端っこに座ると、自然と上に向いた視線の先にはニュースを映すモニター。
やれ関西で初音ミクのイベントが始まるだの、森林で火災があっただの、そんなのばかり。
それでも僕がそこから視線を外せないのは、電車に乗り込んでから一瞬だけ向けられた『こんな時間に学生が?』という奇異の視線に向き合いたくなかったから。
周りと違うこと、というのは、あまり受けいられる物事ではない。
目は口ほどに物を言う、と誰かが言ったように、その視線が好奇心であれ拒絶であれ、当人の何処かには刺さり続けるのだ。
都立神山高校の最寄駅で下車し、改札でタッチしたICカードを仕舞った手で視線の元になる頬に触れた。
ざり、とした感触。
左のほっぺたを覆うような傷跡は深く、右頬と比べてもその手触りや柔らかさには天と地ほどの差がある。
この傷をつけたのが他人であれば、誰かにこの気持ちをぶつけることもできただろうが...... これを付けたのは自分自身なのだから、ソレをぶつけられる先はない。
ただ心の中で乱反射するだけだ。
「──♪」
みんなが教室で授業を受けている中、がらんとした下駄箱で歌を歌いながら靴を履き替える。
もちろん上機嫌なわけではない。
朝からあんな夢を見たのだ、歌でも歌って気を紛らわさなければ運ぶ足取りも重くなる。
とはいえ、向かうのは教室ではなく、保健室なのだが。
「おはよ...... ございます......」
「──元気がないね、それでも来たことはいいことだ。
褒めてもいい?」
「いやです」
いちおう高校一年生の平均身長よりは高いはずの僕を見下ろして撫でようとしてくる手を受け止め、保健室の先生にうんざりとした視線を送る。
しかし彼女は慣れっこだとでも言いたげな笑みを見せると、さらさらといつものように書類へ記入を始める。
「
よし、それでどう? 近頃は」
「先生、それ昨日も聞かれました」
樹の様におおらかで、優しい人になって欲しいから優樹。
名前の意味を知ったのは小学生の頃、授業で出された宿題みたいなもので聞いた。
その命名を思い出す度に申し訳なくなるのも何度目だろう、今の僕は世話になった人誰1人にも顔向けできないくらいの落ちこぼれである。
夢はない。
人間関係も皆無。
そして挙げ句の果てには人の目を見て話せなくて、困ってる人を助けようと思っても結局声をかけられないまま逃げたりもする。
だから先生の言う『近頃どう?』の質問が、この連日ボディブローの様に聞いているのだ。
「......ご飯は食べてます。
パンとか、あとほうれんそう」
「成長だねえ、流石にもうザラメを少し舐めてごちそうさまでした、なんてやってないでしょ?」
「......」
「......おおっとぉ〜?」
冷や汗が出てきて、手首の辺りを片方の手で弄り始める。
まあ、確かに一番
だって美味しいじゃないか。
ジャリジャリしてるし、噛んだらちゃんと甘いし、白い砂糖を舐めるよりザラメを噛んだほうが食べた気もする。
......ちなみにそれを先生に言ったら、すごい怒られるのはさもありなん。
「まあ今回は不問にするけど、今後は調味料を単体で食べない様にしなさい」
「塩もですか?」
「塩とか一番ダメじゃん? 醤油飲んで赤紙逃れした話でもわかるけどアレあっぶないよ?」
「......」
「ねえ醤油も飲んだの?! 飲むな飲むな飲むな!」
「──筆者の気持ち......」
朝を終えて少しして、机に向き合ってプリントに頭を悩ませる。
今日は現代文の小テストだったらしく、文章をサラッと読めばわかるところはすぐに解き終わったものの、一番最後まで残ったのは『筆者の気持ちを答えなさい』なんていう理不尽な問題。
こう言う問題全般に言えるが、この物語を書いた人にこの解釈は違うよ、って答えを否定されたらどうするんだろう?
いちいち解答を変更したりするんだろうか。
......まあ、今やってる問題の筆者はすでにこの世にいない。
この考えは杞憂でしかない。
「終わりました......」
「おっけー、じゃあ渡しとくね。
──はーい?」
テストを終えて提出すると、見計らった様に鳴るコンコンというノック音。
先生がガラッとドアを開けると、そこにはクリアファイルを持ったオレンジ色の髪の毛があって、その中からチラリと見える表情は少し気だるげだ。
「頼まれたんで、プリント持ってきました」
「ありがとー東雲くん、助かるよ。
どれ、褒めてあげようか?」
「いや、いいっす」
キッパリと断られて凹む先生の向こう側にいるのは彰人くんだ、東雲彰人くん。
入学式の日に一度話したことがあるだけの関係性だが、初対面の相手よりかは存在を晒すことに抵抗は無く、逃げるように隠れたカーテンの裏から顔を出す。
するとちょうどいい機会だと思ったのだろう、先生が小さく手をこまねいた。
「ほら、お礼」
こういうところから他人とのコミュニケーションを通じて、いつかはクラスに馴染めるくらいになって欲しいという先生なりの心遣い。
実際こういう形から始めてくれるのはクラスにぶち込まれるやり方よりずっと嬉しくて、カーテンの裏からドアのところまで歩く途中、どんなふうに喋ろうかと思考をフル稼働させる。
単純なありがとうだけじゃあそこで会話が終わる。
それならどんなふうに繋げるのが一番いいのだろうか、と考えた時、目に映ったのは小テスト。
思い出してみればそうだ、彰人くんは勉強がそんなに得意ではないと言っていた。
それと絡めてみよう。
こちらよりも少し低い身長に視線を落とし、息を吸い込んで覚悟を決め、口を開く。
「──あ、えー......彰人くんはさ、その、今日の小テスト、どんな感じー...... だった、かな?」
「......まあ、あんま良くねぇよ。
抜き打ちだったしな」
「あはは、そうだよね、僕もそんなにだと思う......」
「......」
「......」
終わった。
会話ってこんなに難しかっただろうか?
「はは、それじゃあ東雲くん、ありがとねー」
「あ、はい」
なんかヤバいなと察知したか、先生が即座に話を切り上げ、客のいなくなったドアを閉める。
こちらを向いた彼女の優しい顔が少し心に痛い。
「まあ話そうとしてるのは伝わってたよ。
......だからさ、そんな泣きそうにならないで、次はどうするかを考えよう?」
「はい......」
夕方の家。
自分しかいない家のベッドに倒れ込み、何回も思い出しては枕に対して無慈悲な暴力を飛ばす。
もっと上手くできたとか、つまらない話をしてしまったとか、後悔は絶えない。
どれもこれも僕が対人に弱すぎるのが原因なので仕方がないのだが、他の学生や、それこそターゲットを広げれば多くの人類はもっと余裕であの程度の会話はこなすのだ。
起き上がり、キャスター付きの椅子に座ってベッド横のギターに手を伸ばす。
お父さんからもらったお下がりのソレはすっかり古臭くなってしまったが、それでも音は変わらず奏でられる。
ネットの弾き方講座と親に教えられたやり方で覚えた、決して綺麗とは言い切れない演奏。
しかしこの音が昔を思い出させて、多少僕を前向きにさせてくれた。
このままじゃダメだ。
僕は変わらなきゃいけない、それこそ身近な人達とは気楽に話せるようになって、誰にも迷惑をかけたり心配をされたりしない程度には強くならなきゃ。
人間、誰しも生きていく上では1人。
1人でも生きていけるくらいに、せめて心くらいは強くあらねばならない。
「そうだね、それがいい」
──急に飛んできた同意。
それは膝に置いていたスマホから聞こえてきて、驚きのあまりミサイルが如く自分の体が椅子から射出された。
ギターを庇って背中から落ち、痛みを感じながら立ち上がれば光るのはスマホの画面。
すごい光量が僕を包んだかと思えば、次に目を開けた時、目の前に広がっていたのは家の中にいたとは思えないほどの森林。
周りを見渡しても、そこにあるのは夜空と木々だけ。
頭がおかしくなったのかと振り返ればそこには焚き火があり、それを囲んで2人の男女がちびちびとお茶を口に運んでいる。
「やあ、初めまして。
とりあえずはここに座って一杯でもどうかな?」
「......?!」
「......そうか、驚くよね。
俺はカイト、こっちのパンを咥えてるせいでさっきから話してないのが重音テトだよ」
「
頭がおかしくなったのかもしれない。