「おはようございまーす」
「ほーい。 ......っと、珍しいねぇ。
天里くんが楽器持ってくるなんて」
ライブハウスのスタッフルーム、そこにあるロッカーにカバンを突っ込んで持ってきたバイト着に着替えていると、やはり休憩中の店長もこのギターが気になるご様子。
いや、この場合はどちらかというと、コレを持ってきた僕に対してか。
さっさと着替えを終えてパソコンの画面を操作してタイムカードを入力すれば、もうここから始業までの1時間ちょっとは練習スペースを使っても文句を言われない時間。
意気揚々とギターを持って飛び出そうとすれば、それを引き止める『あ、ちょっと』という店長の声。
「悪いんだけどね、今日はスタジオひとつしか使えないんだわ。
もう先に来てる子いるから、了解とって2人でひとつの部屋を使ってもらってもいい?」
メンテか何かだろうか、なんて思いながらも、申し訳なさそうに手を顔の前で合わせる店長に向けて首を縦に振り、すっかり落ち着いたはやる気持ちを携えてスタジオ、練習スペースのドアを開ける。
そこには確かに先客がいて、ベースのチューニングに向けられていた集中がこっちに向いた一瞬、ひらひらと胸の前で手を振って挨拶する。
「おはよう、日野森さん」
「......おはよう」
すぐさま意識を手元のベースに戻した彼女は、日野森志歩。
歳こそ同じであるが、別の学校に通っている数週間違いのバイトの先輩。なんだか少し無愛想というか、ぶっきらぼうなように見えるかもしれないが、バイトで対応に困ったときは助けてくれたりもする頼れる人だ。
時折人が足りないバンドのヘルプにも入っていて、そういう意味でも先輩である。
「隣でやっても大丈夫です? 他の場所が使えなくて......」
「別に、いいよ」
了解を取り、ケースから取り出したギターにクリップ型のチューナーを取り付け、立ちながらやるのもアレなのでペタッと座り込んで音を鳴らせば少し高いか。
感覚的なところとチューナーによる機械的なところ。もちろん軍配が上がるのは機械による正確な判定で、チューナーの画面には
ペグを軽く回してもう一度鳴らせば、今度はピッタリだ。
正味、この辺はアコースティックを使っていた経験が活きる。バンドを初めて長田さんにチューナーを借りるまでは耳で聞いて合わせてた時や、精度の悪いスマホアプリのチューナーを使っていた時もあった訳だから、それに比べるとちゃんとした機械を使っていい環境というのは楽で楽で仕方ない。
そんなこんなでチューニングが終わり、クリップを外してアンプに接続。
だいたいどんな音が鳴るのか、なんてのは予想がついているが、それでもこうやってちゃんと鳴らすのは初めて。エレキギターがそうである所以とのファーストコンタクトに緊張しながら6弦解放をいつもの感覚で弾いてみれば──
「ホゥエっ?!」
あまりにも大きく、鼓膜から入ってきて全身に伝わっていく音の振動に背筋が伸びきる。
こんなに音が大きいとは思わなかったし、隣で自分の世界に入って練習していた日野森さんも演奏を止める大きさに慄きながらも、伸び切った背筋を元に戻して右手のピックをもう一度、弦の上にかけた。
原因はピッキング、つまり弦を弾く力が強すぎたというところだろう。
これまでは頑張って大きな音を出さなければと強くやるのが当たり前になっていたが、機械のサポートがある以上は弦を弾く動作に求められるのは丁寧さ。
詰まっていた息を吐き出し、胸いっぱいに深呼吸をしてから丁寧に、音を外さないことを重視してピッキングをしてみれば、聞こえてくるのは許容範囲内の音量で聞こえてくる切り裂くようなギターの音色。
音、という点で見れば少しの違いはあれど、力強さの点に気をつければいつも通りで構わずに奏でることができる。
本当はメトロノームのひとつでも使えば練習になろうが、今はとりあえずこのテンション感のまま一曲を弾ききる。
「とにかく、最低限求めるのは楽譜をそのまま弾けるようになること!
ライブって誰かの心に響かせる演奏をしなきゃならないが、その為にはまず、俺たちでもリカバリできない重大すぎるミスを消すことが第一だからね!」
長田さんの言った最低限。
そこを超えなければパフォーマンス云々を言う権利は無くて、ヘルプで誰か別の人を呼んできた方が良かったね、ってことになってしまう。それは嫌だ。
だからこうして体に、指に、耳に染み込ませるしかない。
擦っても消えない、血塗れの手のひらにもっと深く、強く。
「......ねえ」
何回も繰り返してミスはほぼ無し。
となればここからは盛り上げどころと落ち着くところの把握が課題で、ずっと音をかき鳴らすだけじゃただのうるさいバカになってしまう。
そうなると、サビ前で息を溜めるところが少し難しいか。ギターとボーカル、兼任でやっているとこの辺りで少しズレが生じる。
具体的に言えば、ギターが溜めるタイミングとボーカルが息を溜めるタイミングには一拍から二拍のズレがあって、そこを同時にやってしまうと少し全体としてのまとまりに綻びが生じてしまうような感じ。
となれば、そこはやっぱり分割していかないと。
演奏しながら思考をまとめ、息を吸って歌唱も付け加えての練習を始めようとした時、思いっきり肩を叩かれて声を荒げた日野森さんの声が聞こえた。
「ねえ、鼻血出てるよ!?」
えっ。
そう思った瞬間、スマホのインカメラで映された僕の顔には鼻からたらりと口に向けて流れていく一筋の水滴と、決して意識をしていなかったのに笑顔な表情。
息を止め切れず、そのまま吸い込んだ鼻血は喉の奥へ飛んでいって──
「ゴッ、ゲホァッ!?」
爆発みたいな音を喉から鳴らしながら、唐突な事と痛みに耐え切れず、思わず膝をつく。
ギター自体にはストラップが付いているので心配はないが、すぐさま両手で口元を押さえた。鼻血が出るのはまだいい。
しかし、ソレで地面を汚す事はまずい。
弁償しろなんて言われたら月々のギター使用料金が払えなくなってしまう。
「あわ、あわわ......」
ティッシュを取り出そうとしても両手が塞がっているし、女性の日野森さんに僕のズボンにあるポケットへ手を入れて取ってください、なんて言えないし。
どうしようどうしようと狼狽えていれば、何事かと駆けつけた店長がドアを開ける。
急にギターの音が途切れたのが気になったのだろう、救世主登場かと思えば、こちらの顔を見るや否やその体をふらりとよろめかせる。
「血......」
なんてことだ、店長は血がダメだった!
仕方がないのでふらついてドア前から消えた店長を心配しながらも部屋を出てトイレへ駆け込み、トイレットペーパーで顔を拭く。
もちろん鼻に詰めるのもセット。
そんなこんなで出血が止まり、顔を洗って戻ってみれば、安心したような店長と呆れた様子の日野森さん。
何度も頭を下げ、もう大丈夫だと伝えながらも思い出すのは、さっきインカメラで見せられた自分の顔。
あまり意識はしてなかったが...... あの顔を見たのは2回目だ。
1回目は、獣に堕ちた時に見た、鏡の向こう側に。
今日のバイトはラストまで。
結局あのあと店長は体調を持ち直して元気になって、僕もそれ以降は鼻血が出たりすることもなく仕事を終えることができたので、まあ、セーフか?
帰り道、店長から貰ったクーポン券を見ながら首を傾げていれば、隣を歩いていた日野森さんの視線がその券に向けられていることに気づく。
内容としては特筆するべきものもない、普通に駅前のラーメン屋が新規オープンらしくそこから貰ってきた200円引きのヤツ。
貰っておいてなんだが、僕は別にラーメンが好きな訳じゃない。いや、嫌いってわけでもないのだ。食べると気持ち悪くなったり、昔割り箸で食べたら木の味がして、それ以降あんまり手が伸びてないとかそういう感じ。
しかも喜べない理由はそれだけじゃない。
カバンの横っちょ、レシートとかが詰まっている場所に今朝入れたのは、最寄駅で配っていた、これまたラーメン屋のクーポン。
こっちは300円引き。
別店舗のものではあるが...... 無くても困らないものだ。
もしかしたら好きなのかもな、なんて思いながら、おずおずと店長から貰った方のクーポンを差し出す。
「もしいるなら、これ......」
「え、いいの?」
すると、予想外にも受け取った彼女の顔がぱあっと明るくなる。いや表情は変わってないのだけれど、なんか明るくなった。
そしたらでるわでるわ、高かったから手が出しにくかっただの美味しそうで気になってた、だのの話し。
最初は気圧されたものの、だんだんと『これ2枚目渡したらどうなるんだろう......?』という気持ちが強くなり、カバンから取り出してみれば── ソレは更に加速した。
「ふふ」
怒涛の攻勢に思わず笑みがこぼれてしまって、その声で彼女もまた正気に戻る。
見た目の印象から難しい雰囲気のある人だと思っていた時もあったけど、こういうところがあるから心の中はきっと優しい人なのだろう。
そう思うと笑ってしまって、そのままバスターミナルで手を振った。
「それじゃあ、また」