ぐう、とお腹が鳴る。
家のベッドの上、外はすっかり夜で、部屋の電気はついていない。
事実から出る気力も無く、たとえリビングにご飯が用意されていたとしても食べる気は起きない。どうしても今、碧さんと顔を合わせたくないのだ。
スマホを見れば励ましのメッセージが長田さんから送られてきていて、申し訳なさに頭まで塗れて布団を被る。
......熱い。
すぐさま剥がして横の方に寄せた。
別に碧さんの言ったことは間違いじゃないのかもしれない。
ミスを恐れていたらいいものは出来ないとはよく聞く言葉だし、実際楽しもうとする気が僕に無かったのも確かだ。
心に残らない音を無価値だって切り捨ててしまうのは流石に乱暴な気もするけれど、僕の到達したい場所が『想いを双葉ちゃんに伝える』ということである以上、それは致命的。
的を射てるからこそ── 獣に堕ちろ、というその指示に納得がいかない。
それはつまり、僕に人殺しの心を持って生きろと言う事。
それは嫌だ。
今でも夢に見る恐れと、くびきの様に心を縛り付ける全てがそこに詰まっていると言うのに、どうして自分からそこに向かわなければならない?
毒を食らわば皿まで、とでも言いたいのか?
......もう一生分は周りの人を傷つけた。
もう、いいじゃないか。
兄も母も父も、それどころか幼馴染にまで噛みついた。
もうこれ以上牙を向けたくはない。
何もわからないからあんなことを── と、言いそうになったところで歯を食いしばり息をとめる。
......今日は焚き火でも見て、1人でゆっくりしよう。
スマホのロックを外して音楽ファイルを開き、目の前が激しい光に包まれてセカイに向かうと、なぜか光の中からいい匂いがする。
シチューだろうか? もしカイトが作っているのだとしたら珍しい。いつもは簡素なモノで済ませている印象だ、それこそテトの方がそう言うものを作っている印象を受けるが。
そう思いながら光の中を抜け、キャンプに降り立つとそこでは予備用の椅子まで使って客人を出迎えているカイトの姿。
シチューのおかわりを器に入れながらこちらに視線を移し、椅子の余りがないことを示す様に座っているのはブルーシートだ。
さて、その客人が誰かと言われれば、すでに見覚えのある4人。カラオケでこぼした小銭を拾ってくれた人たちで、つい小さな声をあげて指を指してしまう。
「あ...... こんにちは」
「こんにちは」
それは向こうも同様で、くつろいでいたことに申し訳なさを覚えたのか、立ち上がった銀髪の彼女にジェスチャーで座っていて構わないと伝えながら、ブルーシートの上に体育座り。
いつもなら誰なのか、そちらのセカイはどう言う感じなのかを聞くところだけど、今日だけはそんな気分になれず焚き火を見つめる。
「ぜんぜん驚かないんだね......
ほっぺた、大丈夫?」
「気にしないでください、大丈夫だから......」
ピンク色の髪が椅子から垂れて、顔の横を通り過ぎた。
多分言っているのは殴られた場所だろう、触れてみれば今でも痛みが走り、外から見てもそこそこ痛そうな風の痕がついてしまっているというところだろうか。
でも気にする事はない。
こんなものは時間が過ぎれば治る。だから気にしないでくれと言っても、心配が勝って誰かの手が近くを通った時、思わずその手を弾いて拒絶する。
「大丈夫! ......だから......」
弾いたのはテトの指。
彼女は弾かれた指を折りたたんで拳にして何を言うでも無くスプーンを掴み直し、そのまま黙々とシチューを食べ始める。
ああ、こう言う時は謝らなければならない。
でも謝罪の言葉は口から出てこないし、それどころか心の中ではその責任を彼女に転嫁しようとすらしている。
大丈夫と言ったのに触ってこようとしたテトが悪いのだと、僕はちゃんと拒否しただけなのだと。
褒められた思考じゃないと分かりながらもソレをやめる事はできなくて、そんな悪者みたいな自分には、だんだんと焚き火が眩しく見えて来る。
いつしか目を瞑り、顔を俯かせて止まってしまった。
止まってはいけないのに。ここで止まったら、昔と何も変わらないのに。
真っ黒がグレーにまで持ち直していた心の色がまた黒く染まろうとする中、耳元を何かの熱気が通り過ぎる。
少し顔をあげて目を開けば、そこには木皿に入ったシチューを差し出すボブカットの女性の手。優しげな表情は少しだけくびきを解いて、差し出されたソレを受け取る。
「お腹、鳴ってるじゃない?」
スプーンでにんじん多めのシチューを掬って口の中へ入れれば、火の通り切っていない様な硬さに顔を強張らせるが、確かな美味しさがあった。
詰まっていた息が吐き出される。
目の前の強すぎる火ではなく、空を見上げれば優しい星空。
そのまま名前を聞いたりする事なくぽつりぽつりと口から漏れる言葉。ほんの少しだけ楽になった気がする。
こうやってただ聞いてもらうだけも、また──
と、足元を何某かが走って通り抜ける。
僕の方からではよく見えなかったがピンクの人から、そしてボブカットの彼女の方からはよく見えた様で、さっきまでの落ち着き方はどこへやら。
「──なになになに、なんか通ったんだけど?!」
「ちょっ...... えななん、こぼれるってば!」
走り抜ける影。
ソレは暫く焚き火の周りを賑やかしたと思えば、ひどく疲れた様子を見せてもう一度、僕の足元に現れた。
手のひらほどの小ささの獣。
その形はいわゆるネズミの様で、珍しいのはこちらに対して友好的と言うわけでもなければ敵対的と言うわけでもないところ。
「どうした......?」
シチューの中からにんじんを取り出して差し出すが、警戒しているのか手を出す様子はなく、それどころか怯えて震え、周りをキョロキョロと見回し始めた。
これは珍しい事で、テトも興味深そうに覗き込んでいる。
手を差し出して怖くない存在だとアピールしてみるが、それに対して限界が来たのか噛みつこうと口を開く...... ものの、噛みつこうとするふりをしただけで実際にその牙をこちらに突き刺す事はなく、なんだか拍子抜け。
「お前はどこから来たんだろうな」
指の腹でその頭を撫でると目を細め、その姿に何か懐かしさすら覚えたが、なにに対するものかと言われれば昔の自分。
他人の視線に怯えて、理不尽に抵抗しようとする癖に肝心なところで日和って一手遅れてしまった昔の自分。だからだろうか、その姿に動物的な癒しを感じると同時に──
僕は僕の出来ることをしなければならない。
それは今も昔も変わらない指針で、だからこそ獣に堕ちることもまた一つの『出来ること』になってしまうのが受け入れられない。
選択肢としてそこにある事が気に入らないのだ。
とっくの昔に否定した癖に、未練ったらしく大事に大事に最後の逃げ場として放置している今が。だからいつかは、どちらかに舵を切らなければならないとわかっている。
だから、そこが僕の限界。
その限界で伝えたい事が双葉ちゃんに伝わるかどうかなんてわからないけれど、やれるだけのことをしなければ。
「じゃあ、彼女たちを送って来るよ」
「いってらっしゃい」
4人を連れてキャンプを離れていくカイトとテトを見送り、肩に乗ったネズミと一緒にまだ一口しか食べていない、少し冷めてしまったシチューを見下ろした。
情けないよな。
結局自分が傷つくことから逃げてる。
どこまでも卑怯で、無垢な風な顔をして誰かに頼らなきゃ生きていけない癖に。
本当の中身は暴力性の塊なのに。
だんだんと反発心が心の中を満たしていって、その辺に置きっぱになっていた皿に残っていたシチューを掬うと、冷めたものと一緒くたにして喰らいつく。
口の中が爛れる。喉が焼けて、胃袋がこれ以上入らないって言っても詰め込んで、流れそうな物ごと押し込んだ。
「ぐっ、ふぅ...... うぅっ......!」
食べ終わって家に帰って寝て、翌日。
一応伝えられていたスタジオに行って扉を多少雑に開けながら、深々と他の3人に頭を下げた。
「──ちゃんとやります」
僕は── 僕のやりたい様に、やる。