照らされていない道
「うわっ、ごめんなさい!」
いつもの練習場所、焦った顔で音を止めて深々と頭を下げたのは、手を滑らせてスティックを放り投げてしまった玲央さん。
小走りで転がっていくそれを拾い上げる姿は、夏と春の境目であるこの季節だけで何度見たかわからないほどだ。
「最近ミスが多いな、何かあった?」
「ああ、いや、全然大丈夫です。
気にするようなことじゃないんで」
流石に精彩を欠いている事が露骨に出てしまっていて、中尾さんが珍しく心配な声をかけるが彼女は小さく手を振って『大丈夫』と。
これは経験談なのだが、こういう状態の人が言う大丈夫という言葉ほど信じる意味のないものはない。大概どこかしらに何かを抱えているのだからさっさと言ってしまえば良いものを、それでも相談しないということは重たい何かが彼女の中にあるのだろう。
思えば、玲央さんが集中を切らし始めたのはこの前のライブ終わりに行われた打ち上げから。
「──ん、ちょっと出てくる」
大人組の顔が赤くなって酒の回ってきた頃、座敷の畳を揺らしたのは彼女のスマホに着信が来たことを知らせるバイブレーション。
ソフトドリンクを1人で飲みながらその背中を見送ってご飯を詰め込んでいれば、帰ってきた彼女の顔からは酔いなんてものは消え去っていて、そこにはちょっとした焦りと不安が残っている。
中尾さんも長田さんも気づいた様子はなかった。
つまるところ僕しかその表情を知らない訳だが、あまり軽々しく踏み込むことも無責任だろう。
その時はスルーしたが──
「......ふぅ」
......触れるべき、なのだろうか。
髪を短く、メンズの服装に身を包んだ彼女の中をほんの少しだけ知っているのは僕で、彼女もまた僕の昔を知っている。
それなら幾分固まった思いを吐露しても問題ない相手にだってなれるはずで、もし辛いならばそれを受け止める止まり木の様にできる。
それに、近々ライブだってあるのだ。
ここで解決しておかなければ何が起きるかわかったものではない。
「......なんだよ、こっちばっかジロジロ見て」
「そんなに見てました?」
「それはもう、な。舐め回すようにじーっと!」
「はは、絶対そんな見てない」
「見られてる側はわかるんだよ、そういうの!」
考え事をしながら帰る、練習終わりの街道。
明日からはアウター無しでも問題がなさそうな暑さに嫌な気分になりながらも足を前に出していれば、隣にいた玲央さんに軽く脇腹を小突かれる。
夏が近いからか未だ空は明るく、時計と景色の乖離に首を傾げたくなるような風景。
そんな風景と広告トラックの鳴らすキャッチーな音楽の中、それと無く聞いてみた。
「打ち上げの時の電話、なんかあったんですか? あれから変でしょ、玲央さん」
「まあ...... 何も無かった訳じゃない。
でも高校生に気にされる様な事は無いよ、特にお前にはな。
だから気にせずお前はお前のやる事、ちゃんとやれよ。そうしないと中尾さんからカミナリ落ちるぞ〜?」
話を逸らされたが、まあ、確かに中尾さんに怒られるのは嫌だ。
会社勤め特有の逃げ場を許さない詰めが長田さんに向けられていたところを見て、それだけで本当にやらかさないようにしようと考えたことを思い出して表情が強張る。
......しかし、何かあった事は事実の様だ。
遠回しに踏み込んでくるなと言われた以上、これ以上自分から進んでいく事は無いが、無理はしないでほしい。
すると何かを思い出したのか、彼女は早歩きで少し前に出ると、後ろ向きに進みながら振り向いてこちらを指差す。
「──そういえば、仲直りしたいって言ってた子とは仲直りできたのか?」
「そう、ですね。おかげさまで」
「そっか。 ......そっか。
やっぱりお前はちゃんとしてるわ、ちゃんと向き合ってる」
そう言ってまた前を向き直した玲央さんの声は少し感傷的で、終わり際は吹けば飛ぶような細いもの。
しかしみんながいたから向き合えたのだ。それは僕だけの力では無くて、その中には当然玲央さんも入っているのだから『お前は』なんて言って自分がそうでは無いみたいな言い方はしないでほしい。
「それじゃ、今度は玲央さんの番ですね」
「俺?」
「うん。向き合えるまで、情けなくないって自分で自分に言えるまで、僕にできる手伝いはしますから......
必要になったらいつでも言ってください」
体を傾けて顔を覗き込みながら笑いかければ、彼女はちょっと驚いて、すぐ恥ずかしそうに頬をかく。
「そう? んじゃまあ、そのうちな......
つーかやっぱりお前、笑った時が1番セクシーな感じするな」
「そうですか?
そう見えてるなら、きっとそれも
「前みたいにヘンって言わないのか?」
「もう言わないですよ」
そんなふうに話しながらコンビニに寄ってチキンを買ったりして、駅でお別れ。
彼女はまだ寄るところがある、という話だったが、向かった道は見覚えのある場所。インフルエンザにかかった時に2度3度通った道だから覚えている。
その方向は、確か病院だったはずだ。
「──ただいま」
帰ってこない挨拶を家に響かせ、リビングの椅子でふんぞりかえりながらスマホの動画を見ている碧さんの横を通り過ぎ、買っておいたペットボトルを冷蔵庫から引っ張り出す。
コップに入れて部屋に持って行っても良いが...... 手間だ。
どうせ飲むのに変わり無いんだからペットボトルごと持って行こうとした時、唐突に碧さんから声が掛かる。
「ちょっと」
「......何?」
急な呼びかけに返答が不機嫌な感じになってしまったことを申し訳なく思いながらも彼女の前に立つが、何を言われるわけでも無く、少し悩んだ様子を見せたと思えば『なんでもない』と。
......なんなのだろう。
今日はやたら話をはぐらかされる。
ペットボトルに入ったお茶を飲んでから風呂に入り、湯気を立ち上らせながらタオルで体を拭きながら鏡を見れば記憶にあるものよりも鋭く、攻撃的になった瞳。
すっかり変わった人相を見ていると僕が獣であることを受け入れた事を再認識し、清廉潔白であろうとしない自分が人間としてのランクをひとつ落とした事を理解した。
体の節々に走るのは痛み。
我慢しようと思えば我慢できる程度の筋肉痛の様なものだが、問題はその痛みが現れる頻度だ。
まず体育がある日は確実に現れる。
迷惑かけてしまわない様に全力で何事も取り組む様にしてはいるわけだが、そうすると全力で体全体を使う都合上体力...... というより、寿命みたいなものを削ってる気分になってしまう。
理由はわかっている、単純に僕の体にはリミッターみたいなものがないのだ。正確に言えば、昔に外れたまま。
「あだだだだ......」
体を伸ばし、ミチミチと音を鳴らす筋肉を感じながらもシャツに袖を通す。
だいたいペグハンマーが鉄で出来ていたからと言って小学生の膂力を持ってして頭蓋骨を砕けるか、と言われたら疑問がある。だからおそらく、あの時に体のリミッターが外れておそらくはそのまんま。
それは何かを楽しんだりするときも同じで、入ってくるものに対するカットが行われない結果、楽しくなってくるとすぐにキャパシティをオーバーして鼻血が出てしまうわけだ。
......いや、結果として体育で頼られる事が増えたのは悪い気分じゃない。
でもキツいものはあるのだ。
せめて回復くらいは早くなる様にとやり始めた柔軟をひとしきり脱衣所で終え、疲れ切った体を引きずりながらベッドの上へと放り投げる。
電気を消していざ就寝、というところで鳴り響いたのはスマホの通知音。
油断していたところに飛んできたソレは体を叩き起こし、ほんの少し苛立ちながらも画面を開けばそこには双葉からのメッセージ。
「......楽しそう」
ライブ中に撮られたのだろう写真に添えられたのは、ちゃんとやってる、との言葉。
そもそも、彼女は自分のやりたいことに基本直向きに取り組む人間だ。ちょっと真面目すぎて求めるものが大きくなりすぎてしまうこと、サディストだから難しい物をやらせたがる癖こそあれど、ソレについてこれる仲間がいるならそれ以上の居場所はあるまい。
......ふと思う。
前のライブで双葉に想いを伝えた事によって、僕の中にあったいわゆる大目標は達成されてしまった。
今、天里優樹という人間は夢や目標を持たない宙ぶらりんな状態なわけだが、これから僕はどこへ向かおう?
ただ漠然とバンドを続けるか、それとも明確な目標を探し出し、活動場所を変えて生きていくか。
どの道を選ぶ?
考え初めて少しした頃、正座して座っていた体を横に倒して目を閉じる。
......ともかく、考えるのはそのうちだ。
今は訪れるライブを乗り越えなければならないのだから。