「......お互い、事情は分かったね?」
小さく頷いた彰人くんに着ていたダウンを渡し、怪訝な顔をしながらも、顔を合わせたほんの少しの時間で共有した事実を噛み砕く。
まず、他のセカイというのは存在する。
彼がここに来る前に滞在していたストリートのセカイは、僕のまだ見つけられていない本当の想いとはまた別の想いを糧に作られたセカイ。
彰人くんはそんなセカイから、ストリートの中に現れた穴に落ちて、この白き森のセカイへと来てしまったのだという。
......ここ、下なの? という疑問こそあれ、他のセカイがあることにはそこまで驚いていない。
自分1人だけの特別なんて存在しないのだから、そういうモノだ。
そんなこんなで落ちてきて、タイミング悪く獣に襲われて、それを報告された僕に助けられていまに至る、というわけだが。
にしても不思議なのは、彰人くんの様子だ。
「クソ、ついてねえ......」
悪態こそ吐くものの、その声色は苛立ちというよりももっとこう、現状に対する一時的な安堵というか、まるでお化け屋敷でようやっと怖い場所を抜けて、青空の下に出られた時のような安心の声だ。
別に安心するような状況じゃない。
このキャンプだって焚き火があるから獣が近づかないだけだし、もしかしたら彰人くんを追ってここにさっきの犬が突っ込んでくるかもしれないのに、その安心というのは──
「彰人くん、犬、苦手?」
「はぁ? なんで今......」
「結構重要かもしれないんだ、誰にも言わないから、ここだけ教えてくれないかな?」
片膝をつき、くたびれた様子で座り込む彼に視線を合わせて答えを乞う。
今後、必ず役立つ事。故に言葉に全霊の心を込めて、キャッチボールにしては強めにボールを投げ渡す。
よっぽど嫌なのか、それともその答えを情けないものだと考えているのか、彰人くんはこちらの目と焚き火を交互に見て、観念したように言葉を絞り出した。
「......まあ、そうだよ。
昔に色々あってな」
「ありがとう。
その色々って、噛まれた感じ?」
「......」
「そっかぁ、痛いもんね」
となると、やはり。
その言葉から疑念が確信に変わると同時に、彰人くんの視線が僕の顔から外れ、すぐ後ろへとシフトする。
言葉よりも先、振り返った視界に入ってきたのは、音を殺して忍び寄ってきた大型犬くらいのサイズである獣が牙を剥き出しにして飛びかかってくる姿。
狙っているのは── 『犬』に恐怖を抱いた彰人くんだ。
獣は恐怖から生まれてくる。
それが誰の恐怖から生まれてくるのか?
普通に考えればこのセカイを構築する想いを持った僕。
でもそれじゃあ獣の数は有限だし、それこそテトやカイトが常駐するほどじゃあないだろう。
となれば、この犬を生み出したのは彰人くんが犬に対して抱いた恐怖。
腹を括り、振り返りざまに左腕を前に出してその牙を受ければ、瞬間流れ込んでくる犬という存在へのちょっとした恐怖や、元々持っていた感情を押し流す負。
それらに耐えながら口の隙間に横向きのペグハンマーを捩じ込み、ねじってつっかえ棒のようにする事でそれ以上食い込まない様にしてから、後ろで腰を抜かしている彰人くんに落ち着き払った笑顔を向けた。
「──まずは一回落ち着いて、深呼吸。できる?」
「いや、落ち着けっつったって...... 大丈夫なのかよ、それ!」
「うん。
だから落ち着いて、深呼吸だ」
大きく息を吸い込む音。
目を閉じてその行為に彼が集中した瞬間、ハンマーを手放してフリーになっていた右手で犬の首根っこを掴み、力任せに勢いよく持ち上げてからその辺の石に投げ落とす。
その衝撃で緩んだ顎から左手を抜けば、獣は血を流す事なく気絶する。
その隙にベルトから紐を取り出して手足を縛れば、それと同時に落ち着きを取り戻した彰人くんが立ち上がった。
やはり犬に向ける視線からは恐れが見える。
きっと相当に根深いのだろう、一朝一夕でこの獣を無害にすることは難しい。
ならば、とひとつ提案する。
「触ってみる?」
「いや...... つか、また噛まれそうだしな......」
「噛まないよ、ほら、ぐでーっとしてる。
この子たちは死なないから寝てるだけだし、それに、こういうところから慣れていけば、道端で吠えられてもビビらなくて済むかも!」
「──そう、かもな......」
思うところがあったのだろうか。
彼は深く考え込み、幾重の葛藤と決断の末、その手をゆっくりと柔らかな毛並みに伸ばした。
触れた白い毛はその手に合わせて柔らかく曲がり、犬は飽きることなく、そのささやかで控えめなスキンシップを受け入れる。
自分のことではないけれど、ほんの少しほころんだ彰人くんの表情につい、こちらも笑顔になる。
「第一歩だね!」
「おう」
その後、目覚めた犬を逃して2人でくつろいでいれば、カイトとテトが帰ってくる。
彰人くんのことを2人に話してみれば、帰る方法をネルと一緒に探してくるとカイトが居なくなり、焚き火の前で3人、テトの持っていたフランスパンの切り身を口に詰め込んだ。
「美味えな、これ」
彼がそういうのもわかるのは、かけられた甘いソースが絶品だからだ。
はちみつっぽい自然な甘さと、シナモンの様な香りの強いスパイスがいい感じにマッチして、すっかり僕もこの味がお気に入りだ。
家で飲む様に一本欲しいくらい、なんて言ったら、先生にまた怒られてしまいそうだが。
「そういえば、彰人くんのセカイには他にも人がいるの?」
「ああ、白石...... って言ってもわかんねえか。
ま、そのうち会うだろ」
「そうだねえ、彰人くんともここで会えたんだから、その人達とも会えるかな。そうなったら上手く喋れる自信ないから、彰人くんにはいて欲しいけれども......」
「甘えんな」
「ゔっ」
それからは彼の夢を聞いたり、テトを交えてギターの演奏に合わせて歌ったり。
久しぶりに他人と過ごす楽しい時間はあっという間で、彰人くんが帰る方法を見つけたカイトが帰ってきたのが、少し惜しいとすら思えるほど。
連れられるまま少し歩けば、放置されていた小屋の中にある床下収納の扉が光っており、おそらくはそこから帰れることができると。
扉を開けた先は僕達には鮮明には見えないが、彰人くんの表情を見る限り、その先に彼のセカイが現れているのだろう。
お互いに小さく手を振って一時の別れを告げようとすれば、体を半分ほど入れた彰人くんが『あ』と何かを思い出した様に振り返り、こちらに指を刺した。
「言い損ねた。
「......わかった!」
消えてしまった後ろ姿に手を振り続け、行き場の無くした手のひらをぎゅっと握りしめる。
言われたからには行かなければならない。
行動として、カタチとして、ようやく前に進む時が来たのだ。
ふんす、と気合を込めて、さあ僕も帰ろうとスマホを左手で取り出そうとしたその時、ガッとカイトの手がその腕を力強く掴む。
何事かとその顔を見れば笑顔のまま。
するとそれに合わせて今度はテトが僕の右手を取り、肩をかされる様な形で小屋の中から連行される。
まるで犯罪者の様な扱い。
なんなのか、と問いただせば、彼は一言。
「怪我したね?」
その言葉の意味を理解すると同時に、スゥーッと顔から血の気が引いていくのを感じ、どうにか抜け出せないかと踠くが、どうしようもなく彼らの捕縛は解けない。
──これまで数回、それこそ片手で数えられるほどしか獣を相手取っていないが、噛み付かれたことは何度もある。
噛み付かれれば牙が残り、それを取り除く事になるわけだが──
「い、いやだぁー!」
「ワガママ言わないよ、カイトも今日は優しくしてくれるってさー」
「前もそう言ったじゃん!」
それが...... もう...... 本当にやりたくない。
詳細は伏せるが、もはや治療なのに殺そうとしてるくらいの痛みが流れ込んでくるわけだ。
そりゃあ逃げ出したくもなる。
しかし今回、2人はそれを許さない姿勢。
治療場のドア前には脱走防止のためにネルを待機させるほどの徹底ぶりだ。
こういう時は楽しいことを考えればなんとかなる。
──次はどんな曲を覚えようかな。
明日、彰人くんとどんな話をしようかな。
もし次に来るなら、このセカイにどんな人が──
「ゔぁ゛ぁ゛あ゛ぁ゛ぁ゛っ゛!!?」
結論。
普通に無理。