韓信は、大軍を進めて高奴城に接近した。
高奴まで残り50里というところで、行く手に敵軍の陣が見えてきた。
耿昌・呉倫が率いる楚軍の迎撃部隊である。
韓信は、みずから軍勢の前に進み出て、楚軍へ向けて声を張り上げた。
「我ら漢の天兵は向かうところ敵無しだ! 汝らも無駄な抵抗はやめて、降伏してはどうだ!」
対する耿昌・呉倫は、
「ふざけるな!」
と怒声を発し、軍勢を駆り立てて攻撃を仕掛ける。
韓信は冷静に片腕を挙げた。
「樊噲。周勃。迎えうて」
「よっしゃあ! 行くぞ周勃!」
「おうよ樊噲!」
土を蹴散らし嵐のごとく攻めかかる樊噲・周勃。
漢の先鋒が楚軍と正面衝突。たちまち刃が火花を散らす。
兵は兵同士、将は将同士、一歩も退かずに戦い合うこと20余合。
息つく暇もないほどの激戦の中、樊噲が勇をふるって繰り出した刀が、ついに楚将耿昌の肩をとらえた。
血飛沫をあげて馬から転げ落ちる耿昌。
そのさまを見て、楚の副将呉倫が青ざめる。
「いかんっ……! 退け! 退けーっ!」
呉倫は慌てて馬を返し、撤退をはじめた。
すかさず韓信が漢軍に命じる。
「今だ!
全軍、進め! 呉倫の軍勢を包みこんで押し潰せ!」
漢の大軍が、呉倫の部隊に四方八方から群がった。
軍は、敗走しているとき最も脆弱になるものである。
そのうえさらに自分たちより何倍も多い大軍に囲まれてしまっては、もはや、ひとたまりもない。
呉倫の兵は、みるみる削り取られていった。
と、その時。
後方で控えていた翟王董翳が、呉倫を救出すべく打って出た。
董翳は手勢を前進させ、呉倫を庇うように漢軍の正面に出て、韓信めがけて大声を響かせる。
「汝、股潜り男め!
章邯様が敗れたのは、何かのまちがいだ!
それを貴様は、たまたま運よく勝利を拾ったくらいで調子に乗りおって……
この私が兵を動かせば、貴様などは、あっというまに捕虜になってしまうぞ!」
韓信は、笑って言い返す。
「董翳よ! お前などは、章邯の下僕に過ぎないではないか。
私は、ただ一戦で章邯に天誅を加えた男だぞ。あまり大口を叩かないほうが良いのではないか?」
董翳は、韓信の挑発を最後まで聞きもせず、
「おのれッ!」
と激怒して突進した。
董翳が、一直線に韓信へと接近し、槍をひねって突きかかる。
韓信もまた戟を舞わせて、戦うこと5、6合。
とはいえ、さすがに董翳は歴戦の勇士。
韓信ていどの腕前では勝負にならない。どうにか攻撃を受け流すだけで精一杯である。
と、そこへ。
左右から、樊噲と周勃が馬を鞭打ち駆けつけた。
「大元帥! いま助けるぞ!」
「董翳、覚悟せい!」
漢軍きっての猛者2人に挟まれ、董翳は一気に窮地へ追い込まれた。
2対1では勝ち目がない。そう判断した董翳は、サッと馬を返して逃げ出した。
そのときである。
逃げようとする董翳の行く手……その山陰から、いきなり漢軍3千騎が躍り出た。
漢の大将辛奇と灌嬰が指揮する伏兵である。
董翳が驚き、思わず馬を止める。
「あっ!? 退路を……塞がれた!?」
そう。辛奇たちは、あらかじめ高奴東の小道から回りこみ、董翳の退路を断つべく待ち伏せていたのだ。
ここまで全て、韓信大元帥の思惑通り。
董翳を挑発し、突出させ、退路を塞いで包囲する……
韓信が仕掛けていた罠に、董翳は、まんまとハマってしまったのである。
董翳は額に焦りの汗を浮かべた。
後悔してももう遅い。漢軍は、太鼓の音を大地が震えるほどに響かせて、四方から董翳の方へ押し寄せてくる……
「くそォッ!」
董翳は、毒づきながら漢の軍勢へ突っ込んだ。
逃げ場はもうどこにもない。ならばイチかバチか、漢軍の包囲を突き破って囲みの外へ出る以外に道はない。
董翳は、右へ左へと槍をふるって漢軍の中を駆け抜けた。
董翳は、秦の名将章邯の片腕として戦ってきた強者である。
それほどの男が死を覚悟で奮戦すれば、ただの兵卒に止められるものではない。
董翳は脂汗と返り血にまみれながら、辛くも包囲を突破した。
だが、ふと気が付けば、董翳の周りには誰もいない。
配下の兵は、途中で残らず討ち取られてしまったのだ。
董翳は、焦りと不安で胸をざわつかせながら、高奴城へと、ひた走った。
とにかく城に逃げ込めば、態勢を立て直せるはずだ。
しかし。
そんな儚い希望は、容赦なく打ち砕かれた。
孤立した董翳の前に、またしても漢軍が壁となって立ちふさがったのである。
もちろんこれも韓信のしわざ。
董翳の逃げる経路を先読みして、何重にも追手を配置していたのだ。
「くそぉっ!」
毒づきながら逃げる董翳。
漢軍は、董翳を追い回しながら、声を合わせて呼びかける。
「降伏しろ!」
「董翳! 董翳!」
「おい董翳!」
「もう諦めろ! はやく降伏しろ!」
ここまで董翳は精一杯に戦ってきたが、味方の兵とはぐれ、援軍のあてもなく、周囲には十重二十重に敵が群がっている……
董翳の心は、ここで折れた。
「……どうにもならん」
董翳は馬から飛び降りた。
「私はもう力尽きた! 漢に降伏したい!」
こうして、抵抗をやめた董翳は、漢兵たちの手で縛りあげられたのだった。
*
董翳は、縄をかけられたまま、韓信の前へ引き出された。
董翳の表情は暗い。
「私の命もここまでか……」
という、深い諦めが見て取れる。
そこで韓信は、董翳に歩み寄り、みずからの手で董翳の縄をほどいてやった。
さらには、
「さあ董翳殿。上座に座られよ」
と、丁重に座を勧めさえするのである。
董翳は、慌てて地面に拝伏した。
「私は、国をなくした捕虜です。命を助けていただいただけでも感謝しきれないのに、これほど重く礼節を尽くしてもらうわけには」
韓信が、薄く微笑む。
「董翳殿。御辺は秦の名将だ。
一度は楚に仕えて王に封ぜられたが、今、心を入れかえて漢に帰順なさった。
おかげで三軍はもう槍や矢を浴びずに済むし、人民も安心して暮らせるようになる。すばらしい決断です。
すでに御辺は漢の臣。どうして私と御辺で身分の上下などを差別する必要がありましょうか」
これを聞くと、董翳は感動に打ち震えた。
殺されるとばかり思っていたところに、この丁重な扱いである。董翳にはもう、ひたすら首を垂れることしかできなかった。
「おそれいりました……
楚を捨てて漢王に降伏いたします。
これからは、命をかけて韓信大元帥の命に従いましょう」
韓信は、深くうなずいた。
「よい心がけだ。
もし御辺が功績をあげたなら、またきっと王に封ぜられるだろう。
さて、それでは、さっそく御辺に働いてもらいたい。
今、塞王司馬欣が櫟陽城にいる。
漢の大軍が攻めかかれば、司馬欣は城を出て防戦するに違いない。
そうなれば兵に死傷者も出るし、司馬欣の首も飛んでしまう。
そもそも、人々に苦労をかけるようなやり方は、良い兵法とは言えない。最良の兵法は、軍勢を動かさずに勝つことなのだよ。
そこでだ。
御辺は司馬欣の戦友であろう。
御辺から書簡を送り、司馬欣に降伏を勧めてくれたまえ。
もしおとなしく降伏するなら、漢王劉邦様は、今まで通りの官位を保証し、必ず重く用いてくださる」
董翳は、うなずいた。
「分かりました。
それでは韓信大元帥、まずは高奴城に入り、住民を安心させてくださいませ。
それがしは、大将の李芝という者を櫟陽へ遣わし、司馬欣に利害を説いて降伏させようと思います」
「よろしい。そうしよう」
韓信は、兵を進めて高奴へ入城した。
すると、どうであろう。「漢軍が来た!」と聞いた高奴の民衆は、門の上に降伏を意味する旗を立て、香まで焚いて、漢軍を迎え入れたのである。
韓信は、城へ入るなり、すぐに全軍に通達した。
「決して高奴の民に乱暴をしないように」
厳しい軍法のおかげで漢の兵士たちが略奪に走ることもなく、高奴の民衆は、みんな安心して喜んだのだった。
(つづく)