一方。
櫟陽城の塞王司馬欣は、漢軍の侵攻を防ぐため、城外30里ほどの地点に陣をかまえていたのだが……
そこへ、予想だにしない人物が現れた。
董翳配下の大将、李芝である。
司馬欣は、すぐに李芝を陣中に入れて対面した。
「李芝よ、なぜお前がここに? 董翳に何かあったのか?」
李芝は、董翳から預かった書簡を差し出した。
司馬欣が開いてみると、その書に曰く――
『翟王董翳、塞王の麾下に再拝して申し上げる。
君も覚えているだろう。かつて秦は無道であったから、諸侯が離反し、楚兵が侵攻してきた。
楚の勢いに敵わず追い詰められた我々は、章邯様の命に従って、楚に降伏したのだ。
あのときは、ああする以外にどうしようもない状況だった。
ところで今、漢王劉邦が秦に進出してきた。
漢王は心が広く仁義を大切にする人物で、度量も大きいから、天下の人々が心を寄せている。
思えば、かつて義帝は約束したのだ。「先に関中に入った者を王とする」と。
だが、楚の項羽が約束を破り、劉邦様を漢中の南鄭に左遷した。
いつの世も、天命は徳のある者に下される。
それが証拠に、漢軍は東征を始めてから向かうところ敵なしではないか。
韓信の用兵術は、古の兵法者、孫子や呉子を彷彿とさせる。
桟道を修理すると見せかけて、陳倉道から密かに攻め寄せ……
知略によって散関を取り……
廃丘を水の底に沈めて……
まるで蓆を巻き取るように、いとも簡単に城を落としていく。
勢い破竹の如しとはこのことだ。
私は、天意に従って、すでに漢に投降した。
命を保証され、賓客としての待遇を受けているし、王の爵位も保てている。
司馬欣よ。君は孤立してしまっている。
おそらく、このままでは城を守り切ることはできまい。
私と君は、唇歯の間柄……唇と歯のように近く親しい関係ではないか。寒さも温かさも、ともに味わってきた仲ではないか。
君も降伏したまえ。2人で同じ船に乗り、一緒に生き延びよう。
ここに幕賓李芝を差し向け、書簡を送って申し上げる。
塞王よ、どうか私の言葉に耳を傾けてくれ――不宣』
司馬欣は、書簡を読みながら、目を見張った。
そして読み終わったとたん、激怒して書簡を引き裂き、怒鳴り散らした。
「董翳……情けない奴!
董翳は負けたかもしれんが、わしは負けてはいないぞ! 戦いもせずに股潜り男に降伏するなど、男のすることではない!
おい! 誰か、このバカをつまみ出せ!」
と、司馬欣は李芝を追い出すよう部下に命じた。
李芝は、左右の腕を兵士につかまれて、嘆きながら言う。
「塞王様! あなたの兵力は数万人。大将も、わずかに3、4人を擁するのみです!
章邯様も董翳様もすでに敗れて、他に味方はおりません。
覇王項羽は、はるか遠くの彭城に留まっていますし、近隣の国からの援軍も望めない。
そのうえ塞王様は、計略では韓信におよばず、武勇では樊噲に敵わない。
とうてい勝ち目はありませんぞ!
いったん敗北してしまえば、我が家にも戻れず、故国にも留まれなくなる……そうなってから後悔しても遅いのですぞ!」
司馬欣は、火のように目を怒らせて、剣を抜いた。
「貴様ァ! わしには知恵も勇気も無いというのか!?
よかろう。ならば樊噲を生け捕りにし、韓信を誅殺してみせよう。
その後で貴様の首も刎ねてくれる!」
李芝は笑った。
「はっはっは!
いやいや。漢軍を打ち破るとか、樊噲や韓信を生け捕りにするとか、そんな大げさなことは、なさらずともよろしい。
もし漢の兵士をたった一人でも生け捕りにできたなら、私の首を刎ねていただいて結構!
私は少しも怨みませぬ。
しかし……
私の推測では、塞王様は、最初の一戦で韓信の手に落ちてしまうでしょうな」
これを聞くと、司馬欣は、ますます怒って李芝を縛り、囚えてしまった。
そして、配下の大将劉林・王守道の2人に1万騎あまりを授けて先陣とし、司馬欣自身は4万騎で後陣に備え、漢軍の待つ高奴城へと押し寄せていったのである。
*
李芝の部下たちは、主が捕縛されたと知ると、慌てて高奴へ逃げ帰った。
彼らが董翳に報告する。
「司馬欣は、書簡を破り捨て、李芝様を拘束してしまいました。
さらには、軍勢を進発させて、この城へ急速に接近しております!」
董翳は、このことをすぐさま韓信にも伝えた。
韓信が、機嫌よく笑う。
「はっはっは!
無知の匹夫司馬欣め、私に戦いを挑んできたか。
まな板の上の肉のようなものだ。この私が、あっというまに生け捕りにしてやろう」
ほどなくして、城外の見張りから報告が入った。
「司馬欣が5万騎あまりで押し寄せてきました。
ここから50里(20km)ほどの場所に陣取っております」
これを聞いて、黙っていられなかったのが樊噲である。
樊噲は、司馬欣が「樊噲を生け捕りにしてやる!」と気勢を挙げていたと聞いて、腸を煮えくりかえらせていたのである。
「韓信大元帥! どうか、俺を出撃させてくだされい!
司馬欣の野郎、俺をバカにしやがったそうじゃありませんか。
奴をここへ引きずってきて、侮辱された恨みを雪いでやる!」
韓信は、にやりと笑う。
「その意気やよし。
では、御辺に必勝の計を授けてやろう」
韓信は、樊噲の耳元へ口をよせて、何かヒソヒソと耳打ちした……
*
さて、その夜。
樊噲は、董翳の陣を訪れた。
「なあ董翳殿。
司馬欣ってやつは、なんであんなに無礼なんだ? 貴公の書簡を引き裂き、李芝を牢獄にブチこんでしまったそうじゃないか。
早く司馬欣を生け捕りにしないと、貴公は、いい笑いものですぞ」
董翳の表情は暗い。
「おっしゃる通りで……まったく、赤っ恥です……
しかし、どうやって司馬欣を捕まえればよいものやら」
樊噲は言った。
「こんな手はどうかな?
まず、貴公の一族の誰かを縛らせてほしい。
で、俺が100人ほどの兵と一緒に、夜中にこっそり司馬欣の陣に行く。
そして『楚に降参したい。手土産として董翳の一族を捕らえてきました』と、もちかけるんだ。
司馬欣はきっと信じるだろう。
夜が明けたら、貴公は司馬欣に攻撃をしかけてくれ。
俺たちは司馬欣の陣の中にいて、不意打ちで司馬欣を捕まえてやる。
そうすれば、総大将を失った楚軍は、完全に混乱してしまうだろう」
董翳が目を輝かせた。
「おお! すばらしい計だ! 貴公が考えなさったのか?」
樊噲が、照れて頭を掻く。
「いやあ、実は韓信大元帥の入れ知恵で」
董翳は苦笑した。
「なるほど、さすがですなあ。
そういうことなら、長男の董式を縛るのがよいでしょう。
董式は武勇に優れた男でしてな。私にとっては大事な嫡男でもある。これを捕らえて行けば、司馬欣は、きっと信用します」
樊噲は大いに喜び、ただの兵卒のような姿に着替えた。
そして董翳の長男の董式を縛り、大将陳武や精兵100人とともに、夜中に司馬欣の陣へ忍んでいったのである。
(つづく)