樊噲は、ただの兵卒に変装して、100人の手下とともに司馬欣の陣へやってきた。
陣門の前まで来たところで、樊噲が声を張り上げる。
「我らは、もともと楚軍にいた兵です!
しかし、董翳が漢に降伏したため、不本意ながら我々まで漢軍に入れられてしまいました。
心の中は故郷を慕う気持ちでいっぱいで、早く楚に帰りたいと願っていたところ……
董翳の長男の董式が、高奴城を出て夜回りしているのを見つけたのです。
そこで、手土産がわりに董式を捕らえ、降伏して参りました。
どうか、我々を司馬欣様の手下に加えてくださいませ!」
これを聞いた司馬欣は、大喜びで樊噲らを陣に入れ、董式を引き出させた。
董式の顔を見ると、司馬欣はツバを吐きかけるような勢いで罵った。
「おのれ董式!
お前の父親は、わしと一緒に覇王項羽様に仕えて、王の位をいただいたのだぞ!
どうしてその恩を忘れて漢などに降伏したのだ!
お前も李芝と一緒に牢に囚えておく。
董翳を生け捕りにしたら、みんなまとめて彭城へ送り、覇王様への献上品としてくれるわ!」
そして、董式を縛ってきた者たち……つまり樊噲らを呼び寄せ、上機嫌でこう言った。
「お前たち、よくやった! 董式ほどの剛の者を捕らえてくるとは、お手柄だぞ。
望み通り、わしの手下に加えてやろう!」
目の前にいる兵卒が実は漢の豪傑樊噲であるなど、夢にも思わない司馬欣なのであった。
*
次の日の早朝。
董翳は、漢の赤旗を掲げ、司馬欣の陣へ接近した。
対する司馬欣側は、劉林・王守道の2将を前進させて、戦いを挑もうとする。
と、董翳は、みずから軍勢の前へ進み出て叫んだ。
「待て! 私は戦いに来たのではない!
司馬欣に会って、一言話したいのだ!」
長年轡を並べて戦ってきた仲である。司馬欣の方も、
「話くらいは聞いてやろうか」
と、馬を進めて陣の前に姿を現した。
「話とはなんだ、董翳!」
董翳は、司馬欣に向けて声を張り上げた。
「司馬欣よ! お前は、天の時というものが見えていないし、自分が存亡の危機にあることも理解していない!
そもそも、私たちは秦の人間だ!
項羽は秦王子嬰様を殺し、私たちの部下20万人を生き埋めにした男! むしろ項羽こそ我らの仇敵ではないのか!?
だから私は漢に降伏し、よかれと思ってお前にも誘いをかけたのだぞ!
それなのに、どうして私の書簡を破り、我が部下の李芝を囚え、我が嫡男董式まで生け捕ったのだ!
しかもお前は、『韓信を誅殺し、樊噲を生け捕りにしてやる』などと大言を放ったそうだな!
できるものならやってみろ! もしお前が樊噲と、ただの1合でも戦うことができたなら、私はすぐに馬を降りてお前に降伏してやろう!」
司馬欣は、これを聞いて大笑い。
「はーっはっは! それはいい!
だったら早く樊噲を出せ!
樊噲はどこだ!?」
……と、その時。
「ここだッ!」
司馬欣のすぐそばで何者かが叫んだ。
「え?」
と驚く司馬欣を、1人の兵士が馬上から引きずり下ろす。そのまま兵士は司馬欣の腕をひねりあげ、たちまち地面に組み伏せてしまった。
司馬欣が混乱して目を見開く。
「な……なんだお前は!?」
対して兵士は、天地が震えるほどの大音声を響かせた。
「我は漢の大将樊噲なり!!
司馬欣は俺が捕らえた! 楚兵どもよ、降伏しろ! 降伏すれば命は助けてやる!」
周囲にいた司馬欣配下の兵卒たちは、驚き騒いで地に平伏した。
「降伏します! 漢に降伏します! 命だけはお助けを!」
この様子を見ていた楚将の劉林・王守道は、司馬欣を救出しようと兵を動かした。
だが、そうはさせじと董翳が前から攻めかかる。
さらに、降伏を装って司馬欣の陣にいた樊噲・陳武の手下たちも、背後から攻撃をしかけた。
総大将を失ったうえに、前後から挟撃されては、もうどうにもならない。
楚軍は、あっというまに撃破され、あえなく敗走しはじめた。
だが、いかに逃げようとも、風の如く素早い漢軍の手から逃げ切ることはできなかった。
劉林は追ってきた樊噲に斬られ、王守道のほうも陳武の手勢に囲まれて生け捕りにされ、楚軍は壊滅してしまったのだった。
*
樊噲・董翳らは、司馬欣を縛って高奴城に帰還した。
引きずられてきた司馬欣を見ると、韓信は、バカにしたように鼻息を吹いた。
「司馬欣よ。お前は秦の大将だった男だろう。
項羽は秦にとって憎むべき男。
ならば、漢王劉邦様に従って楚を討つのが当然の理というものではないか?
だからこそ、董翳が書簡を送って説得してくれたというのに……
書簡を引き裂くばかりか、大口を叩いて無礼なマネをしでかすとは。
一体どういうつもりなのだ?」
司馬欣は、答えなかった。
ただ首を低く垂れ、黙っているだけだった。
韓信に対する反発心や敵愾心が、ありありと見て取れる態度。
「命乞いをするつもりはない。殺すなら殺せ」
と、無言の意思表示をしているのである。
そのとき。
董翳が、韓信の前に飛び出して、地面に額をこすりつけるように平伏した。
「韓信大元帥ッ!
司馬欣は、まちがって楚に仕えてしまったのです。決して本心で忠誠を誓ったわけではないのです。
どうか司馬欣の罪をお許しください! 彼を今と同じ身分に封じてやってください!
そうすれば、司馬欣は必ずや、漢のために忠義を尽くすでしょう。お願いでございます!」
戦友の司馬欣を救いたい一心での、悲痛な訴えであった。
これには司馬欣も絆されて、
「董翳……」
と、かすかに瞳を潤ませた。
そこへ、樊噲も進み出た。
「韓信大元帥。俺からも、お願いします。
たしかに司馬欣は降伏を拒みましたが、楚の将が楚のために戦いぬこうとするのは、むしろ立派なことだし……
それに董翳は、今回の戦いの功労者だ。その功績に報いるってことで、願いをかなえてやっちゃもらえませんか」
どうやら樊噲、一度ともに戦っただけの董翳に、早くも親近感を覚え始めたようである。
韓信は静かに微笑すると、兵に命じて、司馬欣の縄を解かせた。
「司馬欣よ。これまでの間違った行いを改めて、今後は天の示す正しい道に従え」
司馬欣は、深く再拝し、命を助けられた恩に感謝を述べたのだった。
*
こうして、三秦は全て韓信の手に落ちた。
韓信は、まず櫟陽城に入って、そこの住民を安心させることに努めた。
同時に、廃丘にいる劉邦にも早馬を送る。
「三秦攻略は完了いたしました。
次は、いよいよ秦の都咸陽へ攻め入ります」
知らせを受けた漢王劉邦は、大喜びで廃丘を出発。
途中、高奴に3日逗留し、お祭り騒ぎをして人民の気持ちを賑わせた。
それから櫟陽城に入り、韓信と合流したのである。
(つづく)
■次回予告■
電光石火の快進撃で秦を平定した韓信。次は項羽の勢力を削ぎ落とすべく、周辺諸国を味方へ取り込む策に出る。
しかし人の心は移ろう雲水。理屈通りにいかぬもの。思いもよらぬ裏切りで韓信の戦略が破綻しかかったその時、懐かしい人物が姿を見せた。いとも頼もしき天下の賢者、帝王の師の再訪である。
次回「龍虎戦記」第四十回
『張良再び』
乞う、ご期待!