漢王劉邦は、櫟陽城に入った。
三秦の都、廃丘・高奴・櫟陽。その3つを、韓信は、いともあっさりと攻め落としてしまった。
韓信の度重なる大功に、劉邦は大喜びだった。
「蕭何相国が、大元帥の才能をいつも誉めていたっけなあ。本当に蕭何の言う通りだったな!」
韓信は、微笑しつつ言う。
「臣の能力ではありません。漢王様が天よりさずかった威光があればこそ、これほどの速さで三秦を平定できたのです」
劉邦が、にやり、と唇を上げた。
「またまた、謙遜しちゃって!
それで韓信よ。三秦を平定したんだから、秦の都咸陽は、もう手の中につかんだようなもんだろう?
いつ咸陽に進むつもりなんだ?」
韓信は、一転して表情を引きしめた。
それほど甘い状況ではない、と、冷静に見通していたのである。
「咸陽を取ること自体は簡単です。
しかし、廃丘を捨てた章邯が、桃林に陣を構えております。
漢軍が咸陽へ向かえば、手薄になった廃丘を、章邯がすぐさま取り返すでしょう。
そして、あの険阻な要害を拠点として、こちらの兵糧輸送路を遮断する策に出るに違いありません。
そうなれば、我らは大変な危機に陥ります。
よって、先にこの患いを断つ必要がある。
漢王様は、しばらく櫟陽に留まり、周囲の郡県を慰撫して味方につけてくださいませ。
その間に、臣が軍を率いて桃林に向かい、章邯を誅殺します。
その後で咸陽を取り、漢王様を都へお迎えいたしましょう」
というわけで、その翌日。
韓信は、曹参、周勃、陳武、辛奇の4将を伴い、1万騎あまりの兵で桃林へと出発した。
*
一方そのころ、桃林の章邯は、廃丘奪還に燃えていた。
先日の戦で受けた矢傷が、ようやく塞がり、痛みも軽くなってきた。
「これなら戦える!」
と、章邯は元気を取り戻し、軍議を重ねていたのである。
そこへ、物見からの報告が舞い込んだ。
「韓信が動きました!
みずから軍勢を率いて、桃林へ接近しております!」
章邯は、すぐに大将たちを集めた。
「股潜り男の韓信め。一度の勝利では満足できず、またも攻め寄せてきている。
お前たち! 力を奮って、先日の恨みを雪いでやれ!」
しかし、大将の孫安は、異論を唱えた。
「章邯様……
今は、この桃林城をひたすら固く守るべきです。
楚の覇王様からの援軍が到着するのを待ち、その後で出撃いたしましょう。
軽々しく戦いに出たら、また股潜り男の計略にハメられてしまいます」
この孫安は、先日の戦でも慎重に行動し、韓信の罠をうまく回避した男である。
あのとき、もし孫安の判断がなかったら……章邯は討ち取られて死んでいただろう。
そえゆえに、章邯も孫安のことは認めていた。
だが、孫安の意見に従えない事情もある。
「孫安よ。わしとて、援軍を待った方がいいのは百も承知だ。
しかしな。何度も早馬を飛ばして救援を求めたというのに、覇王項羽様の援軍は、いまだに到着しないではないか。
いつ来るか分からない援軍をアテにはできん。
もし漢軍に城を包囲されたら、兵糧が尽きて、我ら全員捕虜とされてしまうだろう。
停滞すれば死あるのみ……生きのびる道は、速攻以外にない」
章邯の言うことも、至極もっとも。
彼らは、籠城して安全策をとる余裕さえないほど追いつめられているのだ。
これには、孫安も納得して口を閉ざすことしかできなかった。
かくして方針は定まった。
章邯は、呂馬通・季良・季恒・孫安などの大将たちと、5千騎の兵を率いて、打って出たのだった。
*
章邯の楚軍は、城外にて韓信の漢軍と対峙した。
緊迫した睨み合いの中、韓信は、軍勢の前に馬を進めて、みずから楚軍へと呼びかけた。
「章邯!
あれほどの惨敗を喫して廃丘城を失ったのに、まだ私と戦うつもりなのか?
すぐに降伏するなら、命は保証するぞ!」
章邯は激怒した。
「黙れ股潜りッ! 卑怯な策ばかり弄してないで、たまには気持ちよく戦ってみせい!」
章邯が馬に鞭を入れ、猛然と韓信へ襲いかかる。
対して、韓信の後ろからは樊噲・曹参・周勃が打って出て、章邯の前へ立ちはだかった。
これを見た楚軍の陣から、呂馬通・季良・季恒・孫安の4将が、
「章邯様を孤立させるな!」
とばかり、一斉に駆け出て挑みかかる。
真正面から激突する楚軍と漢軍。
両軍入り乱れて火花を散らし、鼓の声が天震わせる。
刃を交わすこと数十合。
ここまでは互角の形勢に見える……が。
韓信の、氷のように冴えた目が、戦況の小さな変化をとらえた。
「楚軍の後方に、わずかな陣形の揺らぎがある……
あのあたりの敵将は、呂馬通か。
我が軍の攻撃を支えきれなくなっていると見た!」
韓信は、すぐさま腕を振り上げ、鋭く命じた。
「辛奇! 陳武!
敵陣の後方、呂馬通隊を狙って突撃せよ!」
実戦における軍の指揮とは、具体的に何をする仕事なのか?
その要諦はとどのつまり、予備戦力をいつ、どこへ投入するか……その判断に尽きる。
戦いの第一線から一歩離れたところへ、機動力のある部隊を待機させておき、これを臨機応変に動かすことで、戦の流れを制御する。
それこそが、戦闘指揮の基本にして真髄である。
その意味で、韓信の指揮は完璧だった。
楚軍の微妙なほころびを誰よりも早く見抜き、そこを狙って、すばやく精鋭を突っ込ませたのだ。
楚将呂馬通は、ここまで漢軍の猛攻を必死に防ぎ止めていたが、そこへ辛奇・陳武隊の攻撃を浴びて、ついに突破を許してしまった。
1ヶ所が崩れると、あとは早い。
楚軍の陣形はまっぷたつに分断され、たちまち崩壊し始めた。
章邯が、戦況の変化を睨んで、眉間にシワを寄せる。
「崩されたか……ここまでだな。
撤退! 全軍撤退だ! 桃林城に逃げ込め!」
さすがに歴戦の名将章邯、引き際の判断も機敏だった。
命を受けた楚軍が、なだれ打って城へと敗走しはじめる。
だが、逃げる楚軍の目の前に、漢軍が壁となって立ちふさがった。
退路は、すでに辛奇・陳武によって遮断されていたのである。
もちろん、これも韓信の指示。
章邯が焦り、足を止める。
「くっ……どうすればいい!?」
そのとき、大元帥韓信の号令が、漢軍の中を駆け抜けた。
「今だ! 曹参、周勃、進め! 章邯を包み込め!」
こうなっては、もう、おしまいである。
楚軍は四方を漢の兵に囲まれ、なすすべもなく磨り潰されはじめた。
章邯自身も、右へ左へと追い回され、次々に兵を討ち取られていく。
ふと気付けば、周囲の味方は、ほんの数十人を残すのみ……
この激戦のさなか、章邯が突然、
「ぐうッ……!?」
と、うめいた。
章邯の袖口から、赤黒い血が伝い出る。
先の戦いで受けた右肩の矢傷が、再び開いて血を吹き出し始めたのである。
赤く染まった指から、槍が地面に滑り落ちる。
耐えがたいまでの激痛。章邯は、顔面にびっしりと脂汗を浮かべた。
「……もはやこれまで。
だが!
この章邯、股潜り男にひざまずく恥辱は受けぬ!」
章邯は、叫びながら剣を抜くと、自分の首を掻き切り、自決した。
そばにいた楚将季良・季恒も、
「あっ! 章邯様っ!」
と叫んだところを、漢兵の槍に貫かれて、死んでしまった。
一方、呂馬通と孫安は、章邯の死を見るなり、馬から飛び降りた。
「待てっ! 我々は降伏する! 攻撃をやめてくれ!」
かくして、章邯配下の楚軍は、韓信の前に完全敗北したのだった。
(つづく)