韓信は、
「引き上げの鐘を鳴らせ」
と命じて、戦闘を停止させた。
天地を震わすほどに響いていた人馬の声が、潮の引くように収まっていく。
しばらくすると、降伏した呂馬通と孫安が、韓信の前に引き出されてきた。
韓信は穏やかに言う。
「汝ら2人、よくぞ降伏を決断した。これは天命に従う行いだ、恥じることはない。
章邯も、早く降伏していれば、こんなところで死ぬことはなかったろうにな」
孫安は、深く、うなだれた。
「はい……
それがしは、たびたび諌めたのですが、章邯は自分の武勇をたのみとするばかりで、耳を貸してくれず……
ついに今日の敗北に陥ってしまいました」
韓信が問う。
「それで、桃林城の守備兵は、どれほど残っている?」
呂馬通が答える。
「兵は500人たらず。他は百姓ばかりです。
我ら2人が行って、城門を開かせましょう。おそらくもう、城兵にも抵抗する気力はありますまい」
その言葉通り、呂馬通と孫安の働きかけによって、桃林城の門は、あっさりと開かれた。
韓信は城内に入って民衆を治めると、翌日には、早くも劉邦の待つ高奴城に引き返していった。
*
韓信が戦の顛末を報告すると、劉邦は、おおいに喜んだ。
降将の呂馬通・孫安は、ここで劉邦に引き会わされた。
ひれ伏す2将に対して、劉邦はニコニコと上機嫌。
「2人とも安心しな! 今日からお前たちは俺らの味方だ。
重く用いるから、しっかり働いてくれよ!」
呂馬通・孫安が退出を許されると、すぐさま韓信が劉邦に奏上した。
「さて……
ついに章邯が滅び、背後の患いは消え去りました。
今こそ臣は、秦の都咸陽を落としに行ってまいります」
かくして、韓信率いる漢の大軍は、満を持して、咸陽へと進発したのである。
*
このとき咸陽の守備についていたのは、司馬移・呂臣という2人の楚将だった。
つい先日「漢軍が三秦を取った」と聞いて、彭城の覇王項羽へ救援を求めたばかりなのに、早くも次なる急報が飛び込んできた。
「漢の大軍が攻めて来ました! すでに扶風(咸陽の少し西)にまで来ています!」
咸陽城内の大将たちは、激しく慌てふためき狼狽し、ツバを散らして対策を議論しはじめた。
司馬移が声を震わせる。
「覇王様の援軍もまだ来ない。我らは小勢だ。一体どうすればいい!?
韓信は、あの強大な三秦を、あっというまに攻め取ってしまった男だぞ。
しかも最近では、咸陽の民衆が『漢王が来た!』と聞いて、首を長くして到着を待っているしまつ。まるで父母を慕うようにな。
こんな状態で韓信に攻められたのでは……
一体どうやって防げばいいんだ!」
呂臣が言う。
「とにかく、救援を求める使者をもう一度送ろう。夜に日を継いで彭城まで走らせるんだ。
確かに我らは小勢だが、力を尽くして城を守っていれば、いずれ范増亜父が手を打ってくださるに違いない」
なんとも頼りない消極的な策ではあるが、他にどうしようもない。
司馬移と呂臣は、咸陽の城門を固く閉ざし、ひたすら防御に徹し始めたのだった。
*
韓信が咸陽に到着したのは、そんな時のことだった。
城に接近すると、韓信は、まず斥候を放って、咸陽城の様子をうかがわせた。
その報告は、こうである。
「城の守将司馬移・呂臣は、城から出ずに固く守って、救援の到着を待っております」
韓信は、無言で考えた。
「ふむ……咸陽の城郭を力攻めで破ることは、なかなか難しい。ここは計を用いて、素早く攻略するべきだな」
そこで韓信は、つい先日降伏したばかりの元楚将、呂馬通を呼んだ。
「呂馬通よ。汝は、漢に降ってから、まだ何の功も為していないな。このあたりで一働きしてみるか?」
「は。私にできることでしたら……」
「よし。では呂馬通よ。お前は、配下の元楚兵を連れて、咸陽城の前に行け。
そして、項羽から与えられた印信批文(印鑑入りの身分証明書)を城の守将に見せ、『我々は彭城からの救援部隊だ』と偽って、城門を開かせるのだ。
私は伏兵を置いておき、門が開いたのを見計らって、城内に攻め入らせる。
この計が上手くいったなら、咸陽攻略の功績は、全て汝のものだぞ」
呂馬通は、表情をくもらせた。
「あの……大元帥のご命令に背くつもりはありませんが、その計略は難しいかと……
私が授かった批文は、ずいぶん前のものです。日付がまったく違いますから、すぐに偽物と見抜かれてしまうでしょう」
韓信は、ニヤリと笑った。
「それもちゃんと考えてある。
酈生の部下に、文士李昞という男がいる。この男が、そういう書類を改竄する達人なのだ。
批文をここへ持ってまいれ。李昞に命じて書き改めさせよう」
というわけで、李昞が韓信の前に呼び出された。
呂馬通が楚軍の批文を持ってくると、李昞は、批文の上に、そっと筆を滑らせた。
息を飲むような緻密な作業が、しばらく続き……
「できました」
と李昞が示した批文を見れば、見事に日付が書き換えられている。
墨の濃淡といい、字の癖といい、もともとあった文字と全く見分けがつかない。
後から改竄されたなどとは夢にも思わぬほどの、自然な出来栄えである。
韓信は批文を見ると、限りなく喜んだ。
「よし。これなら確実に城兵を騙せよう。
では呂馬通。副将孫安と兵5千人に楚兵の格好をさせ、楚の旗を立てて行け。
まずは咸陽の北側、涇水・渭水の小路を通って大きく迂回し、咸陽東南の覇陵へ向かうのだ。
覇陵側から咸陽に近づけば、さも東方から駆けつけたかのように装えるだろう。
そして樊噲、周勃、靳歙、陳武。お前たちには1万の精兵を授ける。
呂馬通の後ろを、ゆるゆるとついていき、城門が開くのを見たら一気に城へ攻め込んで、漢の赤旗を立てよ!」
*
作戦通り、呂馬通は涇水・渭水の小路から覇陵の道へ出た。
そして、東の彭城から来たふうに見せかけ、楚の旗を先頭に立てて咸陽に近づいていく。
咸陽の斥候が、呂馬通軍に気づいて、守将の司馬移・呂臣に報告した。
「覇王項羽様の援軍が到着したようです!
覇陵方面から、楚の旗幟を立てた軍勢が、しずしずと近づいてきております!」
待ちに待った援軍である。
司馬移と呂臣は、大喜びで城壁へ登った。
見れば、楚の旗を掲げた軍勢は、もう城門の目の前まで来ている。
司馬移が、城壁の上から呼びかけた。
「援軍であれば、覇王様の印信批文をお持ちでしょう! お見せいただきたい!」
すると、城門の前に、援軍の大将が……つまり呂馬通が進み出てきた。
「おう! いま批文を打ち込みます! ご確認あれ!」
呂馬通は、矢に批文をくくりつけて、城壁の上へ打ち上げた。
落ちた矢を拾った主将呂臣が、封を開けて中を見ると……確かに項羽の印が入った批文である。
呂臣は、司馬移の顔を見て、うなずいた。
「うん、間違いない。本物の批文だ。
よーし! 城門を開け! 援軍をお迎えせよ!」
門が開くと、司馬移と呂臣が、援軍を迎えるために城外まで出てきた。
「よくぞ来てくださった! 援軍の兵力は、これで全てですか?」
呂馬通が言う。
「いや、我々は前陣ですよ。後陣の本隊が後からついてきております。
このまま門前で後陣の到着を待ち、合流してから城内に入ることにします」
というわけで、しばらく待って、日暮れの頃……
遥か彼方の山すそから、後陣の1万騎が、馬煙を立てて接近してきた。
咸陽主将の司馬移は、後陣が予想外に多いので、驚いた。
「これは大軍だ! 今日いきなり城に入られたら対応しきれんな」
そこで司馬移は馬を走らせ、後陣に駆け寄りながら大声をあげた。
「おーい! 後陣の方々、いったん止まってくだされ!
受け入れ態勢がまだ整っておりませんので、入城は明日にして……」
と、そのときである。
後陣の中から大将6、7騎が飛びだし、司馬移に駆け寄るなり刀を舞わせた。
「えっ!?」
と驚く司馬移。
その首が、一刀のもとに刎ね飛ばされる。
後陣の軍勢はそのまま怒涛のように咸陽城へ押し寄せ、門番を斬り、呂臣を討ち、城内へと攻め込んだ。
後陣の先頭に立っていた大将が、天地を震わせるほどの声を響かせる。
「我らは項羽からの援軍ではないっ!
俺は漢の大将樊噲! そしてこっちは周勃! 咸陽の城兵たちよ! おとなしく降伏すれば命は助けてやるぞ!」
咸陽の兵は、震えあがった。
もともと咸陽では、劉邦の人気が高い。
そのうえ、守将2人もすでに斬られ、城内への侵入まで許してしまったのだ。もはや咸陽の兵は、戦意を完全に失っていた。
城内の軍勢が、声を揃えて叫ぶ。
「漢王劉邦様は仁徳の君です! どうか降伏させてください!」
こうして、ほとんど抵抗らしい抵抗もなく咸陽は落ちた。
樊噲は大いに喜び、あちこちに漢の赤旗を立てて、降伏してきた兵や咸陽の民衆たちを労って安心させたのだった。
(つづく)