秦の都咸陽は、戦闘らしい戦闘もなしに陥落した。
樊噲が戦勝を報告して、翌日。
劉邦は咸陽に入った。
咸陽の人民は、こぞって劉邦を出迎えた。大人の男女はもちろんのこと、老人は介添え人に支えられ、幼子は胸に抱かれて、劉邦の乗る車の周りに詰め寄せたのだ。
人民が言う。
「漢王様は、かつて先に咸陽に入りなさった。関中の主となるべきお方は、漢王様です。
それなのに、項羽が暴力によって約束を反故にして……
我らは日夜、漢王様のことを思い慕っておりました。
その漢王様が、こうしてまた咸陽に戻ってきてくださった……これこそ、万民の幸福です!」
人民は、食べ物や飲み物を献上して劉邦を歓迎した。
劉邦は、人々の好意をたいへん喜んだ。そして、咸陽の古い宮殿を掃除して、腰を落ち着けたのだった。
*
さて。
劉邦が勝利にはしゃぐ一方、大元帥韓信には一息つく暇もなかった。
まずは文武の大将を率いて、主君劉邦への拝礼を行う。
次に、あれこれと命令を飛ばして、咸陽の人民を安心させる。
それから、酒宴を設けて将兵の苦労を慰める……
山のような仕事をテキパキとこなし、あらかた片付けたところで、韓信は劉邦の前へ出て奏上した。
「咸陽は手に入れましたが、まだ安心できる状況ではありません。
この咸陽のすぐ東隣には、項羽に封建された十八王のうち2人が国を構えているのです。
平陽に都する、西魏王魏豹。
洛陽に都する、河南王申陽。
咸陽が破れた今、項羽が攻めてくることは十分考えられる……
このとき、もし魏豹・申陽が項羽と連携したら、我らは3正面作戦を強いられ、極めて不利な状況に陥ります。
よって、すみやかに思案を巡らし、対策を打たねばなりません」
劉邦は、身を乗り出した。
「うん。具体的には?」
韓信が、水の流れるように説く。
「まず第1に、項羽の目を他の方面へ、そらす必要があります。
かつて秦を滅ぼしたあと、項羽が十八人の王を各地に分封しましたが、その人選は不公平極まりないものでした。
そのため、王に封建されなくて不満を持った者たちが、各地で楚に背き始めています。
(第二十回参照 https://kakuyomu.jp/works/16818093086063998484/episodes/16818093091990928440 )
中でも斉の田栄は特に強大で、項羽にとって大きな悩みのタネとなっております。
そこで……
鬼謀の人物を探して楚に送り込み、項羽に利害を説いて、漢の前に斉を討伐するよう誘導するのです。
斉は楚のすぐ北隣にあるうえ、勢力も強い。うまく説得すれば、必ず項羽は斉に矛先を向けるでしょう。
そうやって時間を稼いでいる間に、臣は平陽・洛陽を攻め、魏豹《ぎひょう》・申陽を打ち破りましょう。
こうして関東(中国東部。函谷関より東の領域)に勢力を広げれば、項羽と戦うのも難しくありません」
劉邦は、大きくうなずいた。
「なるほどな。
しかし、項羽と斉を争わせるだなんて、そんな難しいことのできる人材がいるかな……」
そのとき、太中大夫の陸賈が進み出た。
「漢王陛下。
かつて陛下が秦討伐のため西へ進軍していたとき、臣は洛陽で初めて陛下のお目にかかりました。
そのまま陛下に付き従って漢中に入り、今に至るまですでに3年。
臣の父母妻子は、みんな洛陽に住んでおりますが、あれ以来一度も会えておらず、生死すら分かりません。
どうか陛下、臣を洛陽に派遣してくださいませ。
まず父母を見舞い、ついでに河南王申陽を説得して漢に帰順させましょう。
さらに、その足で平陽にも立ち寄り、西魏王魏豹《ぎひょう》にも利害を説いて味方に引き入れたいと思います」
この提案を、劉邦は喜んだ。
韓信は申陽・魏豹《ぎひょう》を討伐すると言ったが、戦わず味方に引き込めるなら、それに越したことはない。
そこで劉邦は、陸賈に黄金10斤(約2.5kg)を旅費として与え、洛陽へと送り出した。
*
河南・西魏の2国は、秦のすぐ東隣、秦と楚に挟まれた位置にある。
北側の西魏と、南側の河南。両国あわせて、さながら楚を守る壁のような形である。
当然、楚を攻めるには、まずこの2国をどうにかせねばならない。
説得工作を引き受けた陸賈の責任は、重大であった。
さて、陸賈は咸陽を旅立ち、河南国の都洛陽へとやってきた。
3年ぶりの我が家に帰ってみれば、父母も妻子もつつがなく、久々の対面に喜ぶこと限りなかった。
その夜。
陸賈の父母は、涙をにじませて言った。
「なあ、倅よ。お前が旅立ってからというもの、我が家は収入も途絶え、その日1日を生き延びる金さえなくなってしまったんだが……
河南王申陽様が、わしらを憐れみ、飲食や衣服の世話をしてくださったのだ。
そのおかげで、どうにか飢えや寒さを凌ぐことができたんだよ。
お前、明日の朝、すぐに申陽様のところへ行っておいで。
そして、この御恩に、しっかりとお礼を申し上げるんだよ」
そういうわけで、翌朝。
陸賈は衣服を整え、河南王申陽に会うため、朝廷に向かった。
申陽は、喜んで陸賈を迎えた。この2人、旧知の仲なのである。
「おお、陸大夫! 久しぶりだなあ!
君が漢王と一緒に西に行ってしまって、長いこと家にも帰ってこないものだから、私は寂しい思いをしていたのだぞ。
いや、よく帰って来てくれた!」
陸賈は丁寧に再拝した。
「漢王様に従って秦を討伐した後、思いがけず、漢王様が私を引き止めまして。それで、漢中までお供して行ったのです。
それに、漢王様は仁徳のあるお方……その漢王様が苦労なさっているのを捨てて去るのは忍びなく、お仕えし続けるうちに、とうとう3年も経ってしまいました。
最近、漢王様が軍を出して三秦を破り、咸陽を占領いたしました。
咸陽から洛陽は目と鼻の先。この機会を逃せば次はない思いまして、漢王様にお暇乞いして、申陽様に会いに参ったのです。
聞けば、私の父母妻子が、長いあいだ申陽様のお世話になっていたとか……
なんとお礼を申し上げてよいものやら。たとえ私の骨が粉となり身が砕けたとしても、この御恩には報いきれません」
申陽は、にっこりと笑った。
「なに、そんなことはよいのだ。
それより、漢王の為人を聞きたい。どのような人物かな?」
……と問うからには、申陽も、項羽と劉邦どちらにつくべきか天秤にかけている、ということだ。
陸賈は、ここぞとばかりに弁舌を振るった。
「漢王様は心が広く、仁義があり、度量が大きいお方です。
それゆえ人民は先を争って帰服し、将士はみんな命を捨てて戦おうとするのです。
今、漢王様は、韓信を大元帥として三秦を平定し、咸陽を占領しました。
四方の郡県が、この情勢を見て次々に帰服してきております。
まさに本物の有道の君主……やがて天下の主となる人は、漢王劉邦様と見て、まちがいございません」
しかし申陽は、なぜか表情をくもらせた。
「やはりそうか……私も、以前から漢王の徳を慕い、漢に帰服したいと思っていたのだ。
しかし、覇王項羽の威風は、あまりにも強すぎる。
もし私が漢王についたと知れば、覇王項羽は、すぐさまこの洛陽へ攻めてくるのではないだろうか?
私はそれが恐ろしくて、決断しきれないのだよ……」
煮え切らない申陽に、陸賈が食い下がる。
「勢いであれば、漢王様も負けてはおりません。
漢王様の軍は強大で、韓信の用兵術もまさに神業です。
もし漢軍が洛陽に来たとしても、軽々しく城外に出て戦ってはなりませんよ。
むしろ、すぐに降伏するのが、一番よい……」
申陽は、手を上げて陸賈の言葉を、さえぎった。
「いや、言わないでくれ。君の言いたいことは分かっている。
しかし、私は迷っているのだよ……」
こう、やんわりと拒絶されて、陸賈は少しずつ心変わりしはじめた。
始めは申陽に利害を説いて漢に降伏させようと思っていたのだ。
だが、申陽は、3年に渡って陸賈の家族を養ってくれた。今もこうして陸賈を懇ろにもてなしてくれている。
その恩を思うと、自分の都合を押し付けるのが、だんだん忍びなくなってきたのである。
結局、陸賈は申陽を説得しきることができず……
かといって劉邦のもとへ帰還するわけでもなく……
何日も何日も洛陽に留まって、だらだらと時間を過ごしてしまった。
(つづく)