龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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四十一の上 舌戦

 

 

 ところ変わって、中国東部、楚(そ)の国。

 都(みやこ)彭城(ほうじょう)では、覇王項羽が、あいかわらず酒色の享楽(きょうらく)に耽(ふけ)る日々を送っていた。

 

 「漢軍が漢中から攻め上ってきた」という報告は、すでに届いていたのだが、項羽は本気にしなかった。

「桟道(さんどう)が焼き払われてしまったのに、劉邦が出てこられるわけないだろう。誤報だな」

 と軽く考えて、放置していたのである。

 

 しかし西部からの早馬は、その後も毎日のように駆け込んできた。

 ここへ至って、ようやく項羽も、

「まさか、本当に劉邦が攻めてきたのか? じゃあ援軍を送らねば!」

 と、遅まきながら戦(いくさ)準備に取りかかった。

 

 ところが、まだ軍議も煮詰まらぬうちに、とんでもない急報がもたらされた。

「三秦(さんしん)は、もう漢軍の手に落ちました!

 都(みやこ)咸陽(かんよう)は申すにおよばず、秦(しん)の土地数千里が、みんな漢に降伏してしまいました。

 漢王劉邦は、ますます勢いに乗り、韓信を大元帥として東へ攻めのぼろうとしております!」

 

 項羽は、驚き仰天(ぎょうてん)した。

「韓信だと!?

 あの股(また)潜(くぐ)り男め! よくも俺の三秦(さんしん)を破(やぶ)り、咸陽(かんよう)を奪い、劉邦を調子に乗らせやがったな!

 

 よし。この俺が、すぐに西へ行って劉邦を捕虜(ほりょ)にし、股(また)潜(くぐ)り男を誅殺(ちゅうさつ)して、恨(うら)みを雪(すす)いでやる!」

 

 項羽が、一気に怒気を膨らませる。

 

 それを見ていた老軍師、亜父(あふ)范増(はんぞう)は、すっと肩をすくめた。

「だから、私が何度も何度も言ったではないか。

 『韓信を重用(ちょうよう)しなさい。もしそのつもりがないなら、すぐに殺して、後(のち)の患(うれ)いを排除しなさい』とな。

 それを覇王様が聞かないから、今日、こんなことになったのですぞ」

 

 項羽は、悪戯(いたずら)を見咎(みとが)められた少年のような無邪気さで、きまり悪そうに苦笑した。

「言わないでくれ、亜父(あふ)。悪かったよ。

 

 でも心配ない。

 三秦(さんしん)王の章邯(しょうかん)・司馬(しば)欣(きん)・董翳(とうえい)なんかは、年寄りのネズミみたいな連中だろ。

 咸陽(かんよう)にも、ろくな大将がいないし。

 

 劉邦に破(やぶ)られたのは、あいつらが弱かったせいだ。

 この俺が大軍を率(ひき)いて西へ攻め込めば、劉邦も韓信も、みんな粉になっちまうさ!」

 

 と、そこへ、思わぬ報告が来た。

「ただいま、韓(かん)国の張良から使者が到着いたしました。

 張良からの表文(ひょうぶん)と……それから、斉(せい)国の檄文(げきぶん)を送ってきております」

 

 

   *

 

 

 項羽は、急いで使者と対面し、二通の手紙を受け取った。

 

 まず張良の表文(ひょうぶん)を開いてみると、内容はこうである。

『韓(かん)国の司徒(しと)臣張良が、頓首(とんしゅ)して西楚(せいそ)覇王陛下に上言(じょうげん)いたします。

 

 臣は、覇王陛下のおそばを離れた後、本国韓(かん)に帰り、旧主の葬儀を故郷の地で営みました。

 

 その後しばらく、臣はあちこち放浪しておりました。

 山に入って柴(しば)を取り、川に臨(のぞ)んで水を見る。

 仙人の住む蓬莱(ほうらい)を探して山洞(さんどう)を訪(おとず)れ、不老不死をもたらず真(まこと)の仙丹(せんたん)を求めて俗世を離れる。

 

 仙道の真髄(しんずい)に至る道は、あまりに遠く険(けわ)しく、歩みは遅々として進みません。

 しかし、どれほど遠い林や泉に身を置いていても、この心は、いまだかつて1日たりとも覇王陛下の恩徳を忘れたことはございません。

 

 最近、漢王劉邦が、臣を召(め)しかかえてようと、声をかけてまいりました。

 臣は、仮病(けびょう)を使って漢王の誘いを断り、無心に山河をさすらうことを続けました。

 たとえ二度、三度、いや百度誘われたとしても、臣の気持ちは変わりません。

 

 漢だけではありません。斉(せい)国もまた、臣を従えようと接触してきました。

 これも臣は固く断りました。

 臣に功名心が全くないのを知ってか、斉(せい)は二度と誘いをかけてくることはありませんでした。

 

 ところが……

 しばらくして、韓(かん)国に、斉(せい)からの檄文(げきぶん)が届いたのです。

 その内容は、まさに狂妄(きょうもう)。斉(せい)は、天下を奪い取ろうと野望しているとしか思えません。

 

 臣は、かつて覇王陛下から聖なる御恩(ごおん)を賜(たまわ)った身。

 楚(そ)の隣国が乱をなそうとしていると知って、どうして黙っていられましょうか。

 そのゆえ、この表文(ひょうぶん)に斉(せい)の檄文(げきぶん)を添付(てんぷ)し、ご報告いたします。

 

 臣が漢王劉邦の考えを推測しますに、おそらく漢王は秦(しん)の領土が欲しいだけでしょう。

 かつての義帝(ぎてい)の約束さえ果たせば、それで満足して軍を止めるはずです。それ以上東へ攻めるつもりは、ありますまい。

 

 しかし、斉(せい)の野望は、そんな小さなものではありません。

 檄文(げきぶん)を送って味方を増やそうとしている以上、天下取りを考えているとみなさざるを得ません。

 覇王陛下にとっては、のちのち大きな患(うれ)いとなりましょう。

 

 どうか、お早く兵を出して、斉(せい)を平定してくださいませ。

 斉(せい)を服従させれば、天下は治まります。

 

 あるいは、予想外に漢が欲をかき、東へ攻撃することもあるかもしれません。

 そのときは、斉(せい)を討(う)った後で軍勢を西に向けさえすれば、太鼓(たいこ)の一叩きで、たちまち漢王を捕虜(ほりょ)にできるでしょう。

 

 臣の卑見(ひけん)(つまらない考え)は、以上のとおりであります。

 覇王陛下、どうかご一考くださいませ。

 臣張良、戦慄(せんりつ)恐懼(きょうく)の至りにたえず……』

 

 項羽は、表文(ひょうぶん)を読み終わると、低くうなった。

「ふーん……

 で、斉(せい)の檄文(げきぶん)っていうのが、これか」

 

 続けて斉(せい)の檄文(げきぶん)を開いてみると……

 

『斉(せい)王田栄(でんえい)、書(しょ)して諸王の麾下(きか)に拝(はい)す。

 

 天子の位(くらい)は徳によってもたらされ、至上の徳は大いなる公平の精神、すなわち大公(たいこう)によって発揮されるという。

 徳が無ければ天位を保(たも)てず、大公(たいこう)が無ければ至徳を尽くすことはできない。

 

 項籍(項羽)と劉邦が懐王(かいおう)(義帝)と約束し、「先に関中に入った者を王とする」と決めたことは、天下の誰もが知るところである。

 劉邦は刃(やいば)を血で濡(ぬ)らすことなく関中を取った。

 それゆえ、約束通りに劉邦こそが秦(しん)王となるべきであった。

 

 しかるに、項籍は約束を破(やぶ)って諸侯を左遷(させん)し、人の道に背(そむ)き、あまつさえ義帝を弑逆(しいぎゃく)してしまった。

 

 項籍には徳がない。大公(たいこう)の精神もない。

 項籍は、伝説の悪王たる夏(か)の桀王(けつおう)や殷(いん)の紂王(ちゅうおう)の同類である。

 滅びた秦(しん)の生き残りのようなものである。

 国を統治する資格もない男である。

 

 今こそ、天に代わって項籍を討(う)ち、この暴虐(ぼうぎゃく)なる僭王(せんおう)を誅殺(ちゅうさつ)すべきではないか?

 

 庶民百姓は、みな天地の神に項籍の罪を訴(うった)えている。

 人々には項籍を誅(ちゅう)する権利がある。

 

 そこで今、使者を遣(つか)わし、謹(つつし)んで、この檄文(げきぶん)をお送りする。

 早期に兵を動かし、諸侯で連合して、ともに項籍を討(う)とうではないか。

 項籍の罪を正して、徳のある者に位(くらい)を譲(ゆず)らせることは、天下万民の幸福に繋がるはずである。

 

 この檄文(げきぶん)が届きしだい、速(すみ)やかに行動に移っていただきたい――不宣(ふせん)』

 

 項羽は、もちろん激怒した。

 机の上の檄文(げきぶん)を、バァン! と手のひらで強烈に叩き、宮殿の屋根が吹き飛びそうなほどのすさまじい怒声を発した。

 

「おのれ田栄(でんえい)!

 俺が決めた領地分配に不満を持って、勝手に斉(せい)王を名乗(なの)っただけじゃ飽(あ)きたらず、天下まで奪おうってのか!

 

 奴がそんな野望を持っている、という話は聞いていたが、どうせただの噂(うわさ)だろうと考えて、見逃してやっていたのに……

 

 こんな檄文(げきぶん)を諸国にバラまいて俺の悪口(わるぐち)を言い立てただけじゃなく、兵を出して攻めてくるだと!?

 ……いいだろう。この俺が、今すぐ叩き潰してやるっ!」

 

 范増(はんぞう)が進み出た。

「私にも読ませてくだされ」

 

 項羽が、ムスッと顔をしかめたまま、文書を差し出す。

 張良の表文(ひょうぶん)。斉(せい)の檄文(げきぶん)。

 范増(はんぞう)は、それぞれに目を通すと、眉を高く跳ね上げた。

 

「これは張良の詭計(きけい)ですな」

 

 

(つづく)

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