ところ変わって、中国東部、楚の国。
都彭城では、覇王項羽が、あいかわらず酒色の享楽に耽る日々を送っていた。
「漢軍が漢中から攻め上ってきた」という報告は、すでに届いていたのだが、項羽は本気にしなかった。
「桟道が焼き払われてしまったのに、劉邦が出てこられるわけないだろう。誤報だな」
と軽く考えて、放置していたのである。
しかし西部からの早馬は、その後も毎日のように駆け込んできた。
ここへ至って、ようやく項羽も、
「まさか、本当に劉邦が攻めてきたのか? じゃあ援軍を送らねば!」
と、遅まきながら戦準備に取りかかった。
ところが、まだ軍議も煮詰まらぬうちに、とんでもない急報がもたらされた。
「三秦は、もう漢軍の手に落ちました!
都咸陽は申すにおよばず、秦の土地数千里が、みんな漢に降伏してしまいました。
漢王劉邦は、ますます勢いに乗り、韓信を大元帥として東へ攻めのぼろうとしております!」
項羽は、驚き仰天した。
「韓信だと!?
あの股潜り男め! よくも俺の三秦を破り、咸陽を奪い、劉邦を調子に乗らせやがったな!
よし。この俺が、すぐに西へ行って劉邦を捕虜にし、股潜り男を誅殺して、恨みを雪いでやる!」
項羽が、一気に怒気を膨らませる。
それを見ていた老軍師、亜父范増は、すっと肩をすくめた。
「だから、私が何度も何度も言ったではないか。
『韓信を重用しなさい。もしそのつもりがないなら、すぐに殺して、後の患いを排除しなさい』とな。
それを覇王様が聞かないから、今日、こんなことになったのですぞ」
項羽は、悪戯を見咎められた少年のような無邪気さで、きまり悪そうに苦笑した。
「言わないでくれ、亜父。悪かったよ。
でも心配ない。
三秦王の章邯・司馬欣・董翳なんかは、年寄りのネズミみたいな連中だろ。
咸陽にも、ろくな大将がいないし。
劉邦に破られたのは、あいつらが弱かったせいだ。
この俺が大軍を率いて西へ攻め込めば、劉邦も韓信も、みんな粉になっちまうさ!」
と、そこへ、思わぬ報告が来た。
「ただいま、韓国の張良から使者が到着いたしました。
張良からの表文と……それから、斉国の檄文を送ってきております」
*
項羽は、急いで使者と対面し、二通の手紙を受け取った。
まず張良の表文を開いてみると、内容はこうである。
『韓国の司徒臣張良が、頓首して西楚覇王陛下に上言いたします。
臣は、覇王陛下のおそばを離れた後、本国韓に帰り、旧主の葬儀を故郷の地で営みました。
その後しばらく、臣はあちこち放浪しておりました。
山に入って柴を取り、川に臨んで水を見る。
仙人の住む蓬莱を探して山洞を訪れ、不老不死をもたらず真の仙丹を求めて俗世を離れる。
仙道の真髄に至る道は、あまりに遠く険しく、歩みは遅々として進みません。
しかし、どれほど遠い林や泉に身を置いていても、この心は、いまだかつて1日たりとも覇王陛下の恩徳を忘れたことはございません。
最近、漢王劉邦が、臣を召しかかえてようと、声をかけてまいりました。
臣は、仮病を使って漢王の誘いを断り、無心に山河をさすらうことを続けました。
たとえ二度、三度、いや百度誘われたとしても、臣の気持ちは変わりません。
漢だけではありません。斉国もまた、臣を従えようと接触してきました。
これも臣は固く断りました。
臣に功名心が全くないのを知ってか、斉は二度と誘いをかけてくることはありませんでした。
ところが……
しばらくして、韓国に、斉からの檄文が届いたのです。
その内容は、まさに狂妄。斉は、天下を奪い取ろうと野望しているとしか思えません。
臣は、かつて覇王陛下から聖なる御恩を賜った身。
楚の隣国が乱をなそうとしていると知って、どうして黙っていられましょうか。
そのゆえ、この表文に斉の檄文を添付し、ご報告いたします。
臣が漢王劉邦の考えを推測しますに、おそらく漢王は秦の領土が欲しいだけでしょう。
かつての義帝の約束さえ果たせば、それで満足して軍を止めるはずです。それ以上東へ攻めるつもりは、ありますまい。
しかし、斉の野望は、そんな小さなものではありません。
檄文を送って味方を増やそうとしている以上、天下取りを考えているとみなさざるを得ません。
覇王陛下にとっては、のちのち大きな患いとなりましょう。
どうか、お早く兵を出して、斉を平定してくださいませ。
斉を服従させれば、天下は治まります。
あるいは、予想外に漢が欲をかき、東へ攻撃することもあるかもしれません。
そのときは、斉を討った後で軍勢を西に向けさえすれば、太鼓の一叩きで、たちまち漢王を捕虜にできるでしょう。
臣の卑見(つまらない考え)は、以上のとおりであります。
覇王陛下、どうかご一考くださいませ。
臣張良、戦慄恐懼の至りにたえず……』
項羽は、表文を読み終わると、低くうなった。
「ふーん……
で、斉の檄文っていうのが、これか」
続けて斉の檄文を開いてみると……
『斉王田栄、書して諸王の麾下に拝す。
天子の位は徳によってもたらされ、至上の徳は大いなる公平の精神、すなわち大公によって発揮されるという。
徳が無ければ天位を保てず、大公が無ければ至徳を尽くすことはできない。
項籍(項羽)と劉邦が懐王(義帝)と約束し、「先に関中に入った者を王とする」と決めたことは、天下の誰もが知るところである。
劉邦は刃を血で濡らすことなく関中を取った。
それゆえ、約束通りに劉邦こそが秦王となるべきであった。
しかるに、項籍は約束を破って諸侯を左遷し、人の道に背き、あまつさえ義帝を弑逆してしまった。
項籍には徳がない。大公の精神もない。
項籍は、伝説の悪王たる夏の桀王や殷の紂王の同類である。
滅びた秦の生き残りのようなものである。
国を統治する資格もない男である。
今こそ、天に代わって項籍を討ち、この暴虐なる僭王を誅殺すべきではないか?
庶民百姓は、みな天地の神に項籍の罪を訴えている。
人々には項籍を誅する権利がある。
そこで今、使者を遣わし、謹んで、この檄文をお送りする。
早期に兵を動かし、諸侯で連合して、ともに項籍を討とうではないか。
項籍の罪を正して、徳のある者に位を譲らせることは、天下万民の幸福に繋がるはずである。
この檄文が届きしだい、速やかに行動に移っていただきたい――不宣』
項羽は、もちろん激怒した。
机の上の檄文を、バァン! と手のひらで強烈に叩き、宮殿の屋根が吹き飛びそうなほどのすさまじい怒声を発した。
「おのれ田栄!
俺が決めた領地分配に不満を持って、勝手に斉王を名乗っただけじゃ飽きたらず、天下まで奪おうってのか!
奴がそんな野望を持っている、という話は聞いていたが、どうせただの噂だろうと考えて、見逃してやっていたのに……
こんな檄文を諸国にバラまいて俺の悪口を言い立てただけじゃなく、兵を出して攻めてくるだと!?
……いいだろう。この俺が、今すぐ叩き潰してやるっ!」
范増が進み出た。
「私にも読ませてくだされ」
項羽が、ムスッと顔をしかめたまま、文書を差し出す。
張良の表文。斉の檄文。
范増は、それぞれに目を通すと、眉を高く跳ね上げた。
「これは張良の詭計ですな」
(つづく)