張良から送られてきた表文、これは張良の詭計である……
范増にそう指摘されて、項羽が目を丸くした。
「詭計? つまり俺を騙そうとしてるってことか?」
范増が、うなずく。
「さよう。
『韓国の司徒臣張良』などと名乗ってはいるが、奴が漢王劉邦とべったりなのは明々白々。
この表文も、劉邦のために送ってきたとみて、まちがいあるまい」
「狙いは?」
「劉邦は、咸陽を占領した。
当然、覇王様からの反撃を予想しているはず。
そこで、覇王様が先に斉を攻めるように仕向け、時間を稼ぐ……と、まあ、そんなところでしょうな」
項羽は、首を横に振った。
「いやいや。張良は、俺に仕えてた時期もある。張良は、俺のことを深く尊敬してくれてるよ。
しかも、張良は体が弱いから、世捨て人みたいになって、不老長寿のために仙人の修行をしてたんだろう?
そんな奴が、いまさら劉邦のためなんかに働くかな?
こうやって表文を送ってきたのは、きっと俺に恩返しをするためだよ。
張良の言うとおり、さっさと斉を討って、その次に劉邦を倒そうじゃないか」
単純というのか、純粋というのか。自分は慕われている、と信じて疑わぬ項羽なのである。
君主としては、いささか頼りないが、一人の男としてなら、これはこれで一つの魅力。
范増も、思わず苦笑しながら諌めた。
「覇王様。そんなに深く信じなさるな。張良は詐りの計を多用する男ですぞ」
「じゃあ亜父は、斉を攻めるなっていうのか?」
「いや。それが難しいところだ。
斉王を名乗る田栄の反乱は、確かな事実。しかも、その勢力は、すでにかなりの大きさになっている。
もし覇王様が咸陽へ向かえば、必ず田栄が彭城を攻めるでしょう。
本拠地の危機は、たとえるなら、安心して寝ているときに、いきなり布団を剥ぎ取られるようなもの。
そういう患いを背後に抱えたままでは、劉邦に勝つことも、おぼつかなくなる。
ここは、あえて張良の計略に乗り、先に斉を討つしか、ありますまい。
しかし漢王劉邦は心腹の疾……つまり、最も危険な内臓の病気だ。対応を緩めるわけにもいかぬ。
西魏王魏豹と河南王申陽に命じ、厳重に守りを固めさせて、漢軍の東進を食い止めるのが良かろう。
その間に覇王様が急いで斉を討伐し、すぐさま軍を西へ向けて、劉邦を討つのです」
項羽は、力強く、うなずいた。
「よし!!」
かくして項羽は、すぐさま軍を動かし、斉国へと出発した。
戦に向かう項羽の顔は、先日まで酒と女に溺れていた男とは思えぬほどの、生き生きとした生気に満ちていたのだった。
*
一方……
秦と楚に挟まれた中国中央部の国、西魏。
土肥えて民も富んだこの国の都平陽に、西魏王魏豹の宮殿がある。
ある日、魏豹の元に、宮殿の門番から報告が届いた。
「韓国の張良が、西魏王様に謁見を求めて来ております」
魏豹は、不審げに眉をひそめた。
「張良だと? 何をしに来たのだろうか」
魏豹の腹心、大夫周叔が言う。
「張良は説客です。
古の蘇秦・張儀さえ、張良の弁舌には及びません。
漢王劉邦のために、何か説きに来たに違いありません」
魏豹は鼻で笑って、佩刀の鞘を手で叩いた。
「張良が説客ならば、私にはこの宝剣がある。
バカなことを言う奴は、たちどころに斬ってやろうじゃないか!」
周叔は、慌てて止めた。
「それはいけません!
張良の名声は天下に知れ渡っている。下手に手を出せば、西魏王様の方が世間から後ろ指を指されることになります。
だからあの覇王項羽様も、張良を殺すことができなかったのです。
ここは、礼儀正しく張良と対面するしかありません。
しかし、絶対に張良の言うことに耳を貸してはなりませぬぞ」
魏豹は、
「なるほど」
と、うなずいて、張良を迎え入れるよう部下に命じた。
*
宮殿の奥で、張良は魏豹と対面した。
お互いに型どおりの礼を済ましたところで、魏豹が問う。
「さて、張良殿。貴公は漢王劉邦の臣であろう。
それが一体なんの用で、我が国にやってきたのか?」
張良は、にこりと柔らかく微笑んだ。
「私は韓国の臣です。
漢王は、秦を討つまでという約束で、韓から私を借りていただけのこと。
それゆえ、秦が滅びた後、私は漢王の元を離れて、本国韓に戻りました。
ところが最近、漢王が漢中から出てきて、秦の都咸陽を占領しました。
そして、使者を送ってきて、しきりに私を招聘するのです。
私はもう、人間社会での出世など望んではいません。
しかし、漢王は仁徳のあるお方でしたし、秦討伐の折には手厚く遇していただきました。
その御恩を思えば、冷たくあしらうのも忍びない。
そこで、咸陽へ行って漢王と対面し、直接お断りを申し上げてきたのです。
その帰り道で、たまたま西魏国を通りかかりまして。
西魏王魏豹様の威名は中国全土に鳴り響いておりますし、道で出会った人々も西魏王様の仁徳を誉めたたえておりました。
それゆえ、ぜひ一度、西魏王様にお目にかかりたいと思い、ご迷惑かとは思いながらも、こうして罷り越した次第です」
魏豹の目が輝いた。
この西魏王魏豹という男、名声や評判を人一倍気にする性格である。要するに、おだてに弱い。
張良が水の流れるような滑らかさで次々くりだす美辞麗句を、まるごとぜんぶ真に受けて、すっかり調子に乗ってしまった。
この時点でもう、張良の弁舌に飲まれている。
魏豹は、機嫌よく笑いだした。
「はっはっは! なるほど、そういうことでしたか。
いやいや、迷惑だなんて、とんでもない。よく来てくださった!
張良殿のために歓迎の酒宴を設けよう。遠慮なく楽しんでゆかれよ」
*
その酒宴の席で、魏豹は張良に尋ねた。
「今、旧六国の勢力が各地に林立し、漢と楚もまた領土を争おうとしておりますな。
張良先生は、どの国が栄えると思われるか?
先生ならば、国家の興廃存亡の法則をご存知であろう。
ひとつ、私に解説してくださらんか」
張良は即答した。
「天下の形勢を論ずるならば、漢が興り、楚は滅びるでしょう。
漢王劉邦が大蛇を斬った時には、神の母が現れて夜通し泣きました。
また、漢王が秦に入った夜には、五星が漢王の頭上に集合しました。
このように、天が漢王を支持しているという証拠がいくつもございます。
さらに今、漢王が三秦を平定して咸陽を取ったところ、四方の勢力が響くように呼応して、わずか2ヶ月の間に5千里以上もの土地が漢王に帰順しました。
これはすべて、漢王の人望がもたらした結果です。
私は韓国の人間ですが、漢王が咸陽に出てこられたと聞き、千里の道さえ厭わず、すぐにお会いしたいと思って、やってまいりました。
同じように、各地の諸侯も漢王に表を上げ、続々と帰順を申し出ております。
斉や燕ほどの強国ですら、漢に貢物を納めております。
私が天文を見たところでも、漢王が天下を取ることは必定。
斉・燕が漢に服従したのは、天の理と時代の流れをよく把握した行いと言えましょう。
斉でさえ、こうなのです。他の諸侯は言うまでもありません。
天も人も、このような動きを見せておりますから、漢がこれから大いに栄えると予測できます。
一方、楚の項羽はどうでしょうか。
凶暴であり、約束を反故にして覇王となり、諸侯を左遷し、義帝を弑逆した。
天下の人々は、項羽の暴力が怖くて、しかたなく従っているにすぎません。
よって、今は威勢が強く、武力も強大ですが、一度流れが変われば二度と立て直すことはできない。最終的に楚は滅ぶに違いありません。
これは、賢人も愚者も関係なく、万民だれもが知っていることです」
魏豹は、話を聞くうちに、だんだんソワソワしはじめた。
自分がひどく危うい立場に置かれているのではないかと、急に不安になったのである。
魏豹は、張良に擦り寄るようにして酒杯を捧げた。
「張良先生の話を聞くと、漢王が確実に天下の君主になるだろうと思えますな。
私は、覇王項羽様から爵位を授かったが、周囲の諸侯が漢王に服従してしまえば、完全に孤立する。今の地位も長く続かないだろう……
今のうちに漢に帰服しておきたいと思うのだが、張良先生、漢王様に口利きしてはもらえないだろうか?」
張良が微笑む。
「さきほど申し上げた通り、私は魏豹様の人徳を慕って西魏に来たのです。
喜んで紹介いたしましょう。
漢王劉邦様は、心が広く、仁義があり、度量が大きく、人材を大切になさるお方。
私が推薦すれば、漢王は必ず魏豹様を重んじてくださるでしょう。
さすれば、今後どんな問題・困難が降りかかったとしても、漢王様と助け合って乗り越え、ともに富貴を得られるに違いありません」
と、その時。
「待てっ!」
宴席の隅の屏風の裏から、1人の男が躍り出た。
魏豹の腹心、大夫周叔であった。
(つづく)