周叔は、屏風の裏に隠れて盗み聞きしていたのだが、「これ以上は放っておけぬ!」とばかりに飛び出てきた。
周叔が、魏豹に駆け寄る。
「西魏王様! 張良の戯言を聞き入れてはいけません!
こんな話を覇王項羽様が漏れ聞いたら、どうなると思いますか?
楚の大軍を率いて攻めてくるのは確実ですよ!
もしそうなったら、一体どうやって防ぐおつもりですか。
将来の孤立を防ぐために楚を裏切るのは、はるか遠くのことばかり考えて、目の前の危険を忘れることに他なりません!」
「はっはっは!」
これを横で聞いていた張良が、珍しく、声をあげて笑いだした。
周叔が、眉間にシワを寄せる。
「張良先生。なにをお笑いになるのです」
張良は、まだ、くすくすと笑いを漏らしている。
「周叔殿は、強弱を知らず、時勢を悟らず、項羽の為人を察することもできていない。だから笑ったのです」
周叔が言う。
「『強弱』とは、なんだ?」
張良は、内心ほくそ笑んだ。
どんな弁舌も、相手が聞いてくれなければ意味をなさない。
ゆえに張良は、わざと挑発して周叔を怒らせ、自分の言葉を無視できないように誘導したのである。
ここぞとばかりに張良が、得意の弁舌をうならせる。
「秦の大将章邯は、雍王に封ぜられて三秦を守り、精兵20万を従えていました。
この章邯と西魏を比べると、どちらが強く、どちらが弱いでしょうか?
もちろん、章邯の方が強いでしょうね。
ところが、韓信大元帥は、たった一度の戦いで廃丘城を攻め取り、章邯の首を斬ってしまった。
その勢いは、まさに破竹の如し。
一方、かつて項羽は、章邯を倒すために9回も戦わねばならなかった。
9回の項羽と、1回の韓信。さて、これはどちらが強いでしょうか?
答えは、言うまでもありません。
周叔殿は、こういう理屈を考えておられない。
これは、『強弱を知らず』ということではありませんか?」
周叔が、歯ぎしりして詰め寄る。
「では『時勢を悟らず』とは、どういうことか?」
張良が、さらりと答える。
「天下には、『今しかない』という定められた時があり、また『こうなるしかない』という定められた勢いというものがあります。
今はまだ、時も勢いも定まっていない。
覇王項羽は、自分の強さをたのみとするばかりで、天命を悟っておりません。
ゆえに、天下を支配しようと画策しても、なかなか『その時』を得られないのです。
さらに、関中に都を置かず、彭城へ遷都してしまった。諸侯の上に覇王として立つことはできたが、人々の支持は失ってしまった。
これは勢いを得ていないということです。
一方、漢王劉邦様は隆準龍顔の尊い人相で、行動を起こすときには頭上にめでたい雲気が湧き起こります。
芒蕩山で大蛇を斬れば神の母が夜通し泣き、関中に入ったときには刃を血で汚すことなく人々を心服させました。
天下の時を得て、天下の勢いを得る。その人物は、まさに漢王です。
周叔殿が魏豹様を諌めて漢王への帰服を止めるのは、『時勢を悟らぬ』行いと言えるのではありませんか?」
周叔が、うなる。
「『項羽の為人』とは!?」
張良が言う。
「項羽は、他人の小さな過ちを咎めるくせに、他人からの大きな恩は忘れてしまう男です。
斉の田栄は、かつて秦を討伐するとき楚軍に協力した人物。恩こそあれど過ちなどないはず。
その斉を、今、項羽は軍勢によって討とうとしている。
私が情勢を見るに、おそらく斉は無事では済まないでしょう。
そして斉が滅びたら、次はこの西魏が標的になるかもしれない。項羽が攻めてきた時、いったい誰の助けによって国を守るおつもりか?
これが『項羽の為人を察せていない』ということですよ」
周叔は、何も言い返せず、黙りこくってしまった。
と、魏豹が周叔を叱り飛ばした。
「もうやめぬか、周叔!
張良先生は、私のために国を長く保つ計略を説いてくださったのだぞ。
それに対して、お前は、なんたる無礼な口ぶりだ!
もうよい。別室に下がっておれ、周叔!」
そして魏豹は、張良に顔を向けた。
「張良先生にお願いして、漢に降伏いたそう。
そうすれば、たとえ項羽が攻めてきたとしても、漢王劉邦様の力を借りて防ぐことができる。
これこそ久遠の計というものだ」
張良は、にこりと微笑んだ。
「はい。魏豹様のお考えは、まことに万世の計でございます」
こうして、西魏王魏豹は、劉邦につくことを決断した。
降参の表文を書き、貢物を用意し、その翌日、周叔を使者として、張良とともに咸陽へ派遣したのだった。
*
張良は、周叔を連れて咸陽に帰還した。
報告を受けた漢王劉邦は、すぐに周叔に対面した。
周叔が差しだした表文を開いてみると、内容は、こうである。
『西魏王魏豹、頓首稽首して上言す。
無数の大河や支流は遠く離れた土地を流れながら、最後には巨大な海に帰る。
群れなす燕は勝手気ままに飛びまわりながら、必ず人家の梁に巣をつくる。
我が魏国は中国の西方にあり、いまだ王化(王者の徳によって良い社会になること)に潤っていませんでした。
私がうかがい聞きたところでは、漢の徳は、太陽が昇るが如く、川が流れるが如く、人々に恩恵を施しているとか。
すでに三秦を征服して、章邯の首をお取りになったと聞いております。
漢王様の仁義は諸国に示され、斉や楚もその威勢を恐れ、天下の人々が心服し、諸侯が帰順していると聞きます。
この魏豹も、漢王様の命に従いたく思います。
どうぞ私に任務を与え、臣としてお使いください。さすれば、私が西魏の土地と人民をきちんと治め、漢王様の統率に従わせましょう。
どうか漢王様、この表をお納めください。
臣魏豹、佩服感戴の至りにたえず』
劉邦は、限りなく喜んだ。
魏豹から送られてきた名馬・白璧(白い宝玉)などの貢物を快く受け取ると、使者周叔の労をねぎらって酒宴を催した。
この酒宴で、周叔は想像だにしない手厚いもてなしを受けた。
というのも、飲み物、料理、食器の類にいたるまで、何もかも漢王劉邦と同一のものが、周叔のために用意されていたのである。
現代であれば、酒宴において客と主人が同じものを食べるくらい、当たり前のことだろう。
しかし当時の中国には、厳格な身分の上下がある。一介の使者にすぎない周叔が、漢王劉邦と同等のもてなしを受けた……これはまさに、下にも置かない扱いであった。
周叔は素直に感激し、心の中に思った。
「なんと気前がよいお方なのだ……
漢王様は、心が広く仁義のある本物の長者(徳のある人)なのだ。
張良の話は真実であった……」
次の日。
任務を果たした周叔は、劉邦に謁見して暇乞いした。
それに対して劉邦は、みずからの手で返書を書いて渡し、おびただしい量の恩賞を周叔個人に賜ったのだった。
*
周叔は足早に西魏へ帰り、魏豹に事の次第を報告した。
魏豹は、大喜びで返書を開いた。
『漢王劉邦、この書を手づから記して西魏王の元へお送りする。
私、劉邦は、西魏王殿の名を以前からよく聞き知っておりました。
聞くところでは、西魏王殿は周に仕えた畢公(魏王家の始祖)の末裔で、賢王として世に知られ、徳をもって魏を治めておられるとか。
ちょっと判断を誤って楚の下についてしまったようですが、今、その間違いを悟って、我が漢と好を結ぼうとのお言葉。
たいへんうれしく幸いに思います。
これからは、ともに力を合わせて政治を行い、王業を成しましょう。
なにか計略を動かすときには、お互いに助け合い、補佐しあって、国土を大きく広げ、ゆくゆくは天下統一を果たそうではありませんか。
がんばって功績を上げ、魏国の領土を布を広げるように広げましょう。
我々の誓いは河山帯礪。つまり黄河が帯のように細くなり、泰山が礪のように磨り減っても、永久に不変です。
我ら一緒に富貴を享受し、もし困難がある時には助け合うことを誓いましょう。
西魏王よ。なにとぞこの申し出を受け入れていただきたい』
読み終わって、魏豹は、ホッと一安心。
かくして劉邦の下についた西魏王魏豹は、項羽からの攻撃に備えて、要害の守りを固めはじめたのである。
(つづく)
■次回予告■
西魏調略に成功し、次は河南王申陽に狙いを定めた軍師張良。しかし都洛陽に到着した彼に、怪しげな魔手が忍び寄る。
「張良を捕らえ、覇王へ捧げよ」それは悪魔の囁きか、はたまた弱き人間の性か。音も無く迫る陰謀に、説客張良、どう立ち向かう?
次回「龍虎戦記」第四十二回
『裏切りの陸賈』
乞う、ご期待!