西魏王魏豹は、張良の説得によって楚から離反し、漢に帰順した。
となれば次なる標的は、洛陽の河南王申陽である。
洛陽へは、太中大夫の陸賈が先行している。
しかし陸賈は、それっきり音信不通。
となると……これは、一筋縄では行きそうもない。
そこで張良は、ひそかに樊噲・灌嬰を呼んで、ささやいた。
「貴公らに、ひとつ仕事をお願いしたい。
まず、3千騎ほどの兵を率いて、私と一緒に洛陽へ来てください。
その後、この如く、この如く……」
と、樊噲たちに計略を伝えると、張良は劉邦に別れを告げ、洛陽へ向けて出発した。
*
一方そのころ。
洛陽の河南王申陽は、陸賈と政策の相談をしていた。
陸賈が洛陽に来たのは、元はと言えば、漢王劉邦の味方につくよう申陽を説得するためだった。
しかし、申陽への友情と恩義にほだされて、本来の役目をすっかり忘れ、今や、申陽の臣と呼ぶしかない立場に収まっていたのである。
さて、そこへ報告が入った。
「漢王の臣、張良がやってきました。河南王様に謁見を求めております」
申陽は、警戒して表情をくもらせた。
「張良が来たのは、何のためだと思う?」
陸賈が答える。
「申陽様を説得して、漢に帰順させるためです。
もし漢王劉邦につく心がおありなら、張良の言葉に従いなさいませ。
しかし、もし覇王項羽につくつもりなら、張良を捕らえて、覇王へ献上するのがよいでしょう。
亜父范増は、張良を非常に嫌っております。
張良を捕らえたとあらば、范増は必ず喜び、申陽様を重用するよう覇王に勧めてくれるでしょう。
これすなわち、『1人殺して大謀を成す』の計です」
申陽は、うなずいた。
「私は覇王様に仕えているのだ。どうして漢に帰順できようか」
陸賈は、うなずいた。
「であれば、私は張良に顔を見せない方がよいでしょう。
奥に下がっておりますから、申陽様が、みずから張良と対面なさいませ。
そして、彼が口を開く前に、いきなり武士をけしかけて張良を縛らせ、彭城へ送って覇王項羽様を喜ばせて差し上げなさい」
申陽の額に、薄く緊張の汗が浮いた。
「よし……やるか」
*
申陽と陸賈が陰謀の相談をしている間、宮殿の門の前では、張良が、ずっと待ちぼうけを食らわされていた。
張良は無言で考える。
「これほど待たせるということは……
陸賈が私を殺そうと企み、申陽に入れ知恵しているようだな。
私の読み通りだ」
しばらくして、宮殿内に入る許しが出た。
張良が、ゆるゆると中へ入っていくと……
宮殿の奥で、河南王申陽が玉座について待っていた。
その申陽が、張良の顔を見るなり、大音声を響かせるのである。
「張良! 漢のために説客の役目を果たしにきたか!
覇王項羽様は最近、詔をお出しになったのだ。『張良の居場所を知っている者は、すぐに張良を捕らえて彭城へ送ってこい』とな。
そのお前が、まさか、自分からのこのこ現れるとはな!
者ども、出会え! 張良を縛り上げろ!」
殺到する幾多の武士に、なすすべもなく縛られる張良。
しかしこのとき張良は、抗議の声ひとつあげないばかりか、薄く余裕の笑みを浮かべてさえいたのだった。
*
申陽は、張良を彭城へ送っていくよう、大将の郭縻に命じた。
陸賈が言う。
「郭縻殿は、交渉事には不向きでしょう。
それがしも彭城へ同行いたしましょう。
まず覇王の斉討伐の進捗を探り、そのうえで范増と好を結んでまいります」
申陽は、この申し出を喜んだ。
「そうか、お前が行ってくれるなら安心だ。
范増殿への礼物を用意しよう。くれぐれも、よろしく頼むぞ」
こうして、陸賈・郭縻は、護衛の兵士100人ばかりとともに、彭城へ向けて出発した。
張良を乗せた檻車(囚人移送用の車)を引いて、洛陽から道を東へ。
かなり旅を急いで、50里(20km)ほど進んだところ……
突然、異変がおきた。
道の左右の林で銅鑼の音が鳴り響き、陸賈一行の前に、一彪(ひとかたまり)の軍勢が飛び出してきたのである。
「なんだ!?」
と慌てる陸賈たち。
謎の軍勢を率いる大将が、陸賈・郭縻に怒鳴りつける。
「おう、お前ら! 馬や武具を、こっちへよこせ!
渡さぬなら、一人も生きて通れぬと思え!」
なるほど、つまりこの軍勢は山賊の一団らしい。
郭縻は怒り、山賊に負けじと声を張り上げた。
「薄汚い物欲ばかりを火のように燃やした山賊どもめ!
この俺、洛陽の大将郭縻を知らないのか!
俺たちは、漢の張良を縛って彭城へ連れていくところだ。
貴様に耳や目があるなら、楚国の強大さも、我が主河南王申陽様の武勇も知っているだろう!
逃げ遅れて首を失わないよう、気を付けたほうがよいぞ!」
山賊の大将は、これを聞いて大笑い。
「うわっははは!
ネズミみたいに弱そうなお前が、言うに事欠いて『楚国は強い、申陽には武勇がある』だと?
世間知らずにもほどがある。俺はまた、子供が冗談でも言っているのかと思ったぜ!
よし、じゃあ、まずはお前の首を取ってやろう!」
山賊大将は、戟を舞わせて斬りかかった。
それを郭縻が、鼻息も荒く迎えうつ。
が。
刃を交わしたそのとたん、郭縻は顔色を変えた。
「ぬうっ!? つ、強い!
なんと重い一撃か! この山賊、一体なにものだ!?」
一方、陸賈はこの戦いを後方でハラハラと見守っていた。
なにか妙だ。相手の山賊大将は、鎧だの衣服だのを土で汚して、いかにもそれらしく見せかけているが、どうも、ただの山賊ではないように思える。
というよりも、あの山賊大将の顔に、見覚えがあるような……
そこで陸賈は、ハッ! と目を見開いた。
「……あっ!? あれは、まさか樊噲!?」
そう。この山賊大将、実は変装した樊噲その人だったのである。
もちろん、その手下の山賊たちも、本当は漢軍の一部隊。
しかし、気づいたところで、もう遅い。
漢軍随一の豪傑樊噲が相手では、郭縻など相手にもならない。
わずか2、3合ばかり戦ったところで、樊噲の刃が郭縻の肩口に食い込んだ。
肩から胸まで一刀のもとに切り裂かれ、馬から転げ落ちる郭縻。
これを見ると、郭縻の手下の警護兵たちは慌て、騒ぎ、檻車の張良をほったらかしにしたまま我先にと逃げ出した。
そこへ樊噲が、天地を震わすほどの大声をあげる。
「コラッ、逃げるなァ!
おとなしくすれば命は助けてやるが、逃げる奴は1人残らず斬り捨てるぞ!」
こう脅されては、一介の兵卒など、命惜しさに、たちまち凍り付いてしまう。
こうして警護の兵さえ失った陸賈は、樊噲の手下に囲まれ、あっさりと捕縛されてしまったのだった。
(つづく)