樊噲は、敵を制圧し終えると、すぐに檻車から張良を救い出した。
自由になった張良が、林の下に座って一息ついていたところへ、縛られた陸賈が引き出されてきた。
張良が、あきれたように言う。
「陸賈。あなたはという人は、漢王様の下で、もう3年も大きな恩を受けてきたのでしょう。
それが私を縛って項羽へ献上しようとは、なにごとですか」
陸賈は、きっぱりと胸を張って答えた。
「私が漢王様に仕えるようになった経緯は、張良先生と同じです。
先生が祖国韓を忘れないように、私も魏を忘れてはいません。
これは断じて二心などではない。
張良先生は、徹頭徹尾、韓国のために復讐を成しとげようとしておられるでしょう?
それと同じく、私もただひたすら魏のために心を尽くすのみです」
張良は、溜め息をついた。
「なるほど、汝はさすがに弁舌の士だ。言葉は実に巧みだが……
魏のために尽くすのなら、なおさら漢への帰順を申陽に勧めるべきではないか?
漢王様が心の広い君主であることも、覇王項羽がどういう人間であるのかも、汝ほどの男なら、よく分かっているだろうに」
陸賈が、低くうなだれる。
「それは……
申陽様は、楚から官爵を授かり、楚に心を寄せておりました。
私は、申陽様の気持ちに従いたかったのです。
それゆえ、張良先生を捕らえて楚に送り、二心が無いことを楚に示して、今後のために覇王や范増の覚えをめでたくしておこうと……」
と、ここで樊噲が、横から耳が痛くなるような怒声を発した。
「ああそうかい! 申陽は張良先生を楚に献上して功績を示そうとしたわけだ!
だったら、この俺も、お前を漢王様に献上して忠義を示そうじゃねえか!
文句はねえよな? なあ陸賈ァ!」
というわけで、樊噲は陸賈を縛りあげたまま、軍勢とともに、どこかへと移動していった。
*
一方……
郭縻配下の兵卒たちは、樊噲に蹴散らされて、洛陽に逃げ帰った。
その兵卒たちが、河南王申陽に報告した。
「張良を連れて、洛陽から50里か60里ほど進んだときのことでした。
林の中から一手の軍勢が現れて、『馬や武具を置いていけ』と要求してきたのです。
大将の郭縻様は、怒ってその軍勢と戦いましたが……
敵に、とんでもなく腕の立つ恐ろしい将がいて、そいつが郭縻様を斬り捨ててしまいました。
張良は、敵に奪われ……
我らは走って逃げましたが、敵の大将が飛ぶように追ってきて……
とうとう陸賈様まで敵に捕まってしまいました」
これを聞いて、申陽は激怒した。
「バカな! 郭縻を倒すほどの剛の者が、なぜそんなところに……
とにかく許せん! 私が、その無礼者を誅殺してくれる!」
申陽は、千騎あまりの兵を率いて、洛陽から飛び出した。
しかし、郭縻らが襲われたという林まで来てみても、それらしい軍勢は見当たらない。
近くの住民に尋ねてみると、
「今朝までは、人馬の集団がこのあたりにおりました。しかしその後、そいつらは四方に散らばって去っていってしまいました」
との答え。
申陽は、方針に迷って足を止めた。
捕らえられた陸賈のことが心配だ。しかし、敵を追う手がかりがない……
申陽の部下たちが、進言した。
「申陽様、まずは洛陽から伸びる大道に入りましょう。
敵が逃げるとしたら、そこを通るはず。おそらく、それほど遠くへは行っておりますまい」
「よし」
と申陽は決断し、大道へ移動した。
敵の姿を探して大道を進んでいると、商人らしき5、6人の集団に出会った。
申陽は馬を止め、商人たちに尋ねた。
「汝ら、この道で、武装した怪しい連中に出会わなかったか?」
商人たちが、首を横に振る。
「いや、出会っていませんね」
申陽は怪しんだ。
「おかしい……この道を通って逃げたなら、あの商人たちが出会っていないわけがない。
ということは、敵は道から離れて、どこかへ身を隠したのか? 一体どこへ……?」
そうこうするうちに日も暮れて、あたりに宵闇が広がりだした。
と――そのとき。
突如、バァン! と申陽の周囲で鉄砲が炸裂した。
申陽の部下たちが驚き、すくみあがった、その直後。
近くにあった堤の下から、火把(松明)を振り上げて、1騎の人馬が駆け寄ってきた。
「我は漢の大将樊噲なり!
河南王申陽! 張良先生のお情けで、首だけは切らずにおいてやる!」
申陽は震えあがった。
「は……樊噲だと!? なぜこんなところに!」
秦討伐のおり、劉邦の下で大暴れしていた樊噲の強さは、申陽も、よく知っている。
申陽は慌てて馬を返し、逃げだした。
だが時すでに遅し。
申陽らの周囲は、樊噲配下の伏兵によって、完全に取り囲まれていたのである。
こうして申陽は、なすすべもなく縛りあげられてしまった。
*
張良は、山間に幕舎を建てて灯りを灯し、じっと座って待っていた。
しばらくすると、樊噲の軍勢が戻ってきた。
「張良先生! 申陽を捕らえてきましたぜ」
河南王申陽が、縛られたまま、引き出されてきた。
その姿を見た張良は、立ち上がって樊噲に命じた。
「樊噲殿。縄を解いてさしあげなさい」
「はあ。いいんですか?」
樊噲が、首をかしげながら、申陽の縄を解く。
申陽が自由になったのを見ると、なんと張良は、申陽の前にひざまずき、拝伏した。
これには樊噲も、そして申陽も、驚いて目を丸くした。
敵の捕虜に対してとる態度ではない。張良は、あくまでも申陽を河南国の王として尊重する姿勢を見せているのである。
張良は、静かに語った。
「漢王劉邦様は、あなた様と力を合わせ、覇王項羽を討伐して天下の害を取り除こうと、ただそれだけを欲しておられます。
そのご意志を伝えるため、私を河南国へと派遣なさったのです。
河南王、あなたは私を捕らえて項羽の元へ送ろうとなさった。
私は、この事態をあらかじめ予測し、樊噲を伏兵として備えさせておきました。
それによって、こうして河南王を捕らえることができたわけですが……
先に捕らえた陸賈が、必死になって乞い願ったのですよ。『どうか河南王様の命は助けてください』とね。
それゆえ、樊噲には、あなたを殺さぬようにと命じておきました。
いかがですか、河南王。
考えを変えるおつもりは、ありませんか?
漢王様は徳のある君主。
項羽は狂暴なる独夫。
もしあなたが心を改めて漢に帰服なされば、漢王様は、河南王の位を保証してくださるでしょう。
さすれば、富貴を子孫に伝えることもできるのです」
そこへ、奥からもう1人の男が進み出てきた。
陸賈である。
陸賈が言う。
「河南王様……どうか、張良先生の勧めに従ってくださいませ。
漢に帰服なされば、御身は安泰、富貴も保てます。
それに、実は……
河南王様には、もう帰るべき城も無いのです。
河南王様が洛陽を離れた後、大将灌嬰が密かに洛陽に向かいました。おそらく、今ごろ洛陽城を攻め取ってしまっているでしょう。
これも全て張良の計略……
樊噲は、さきほどまで『申陽を斬ってやる』としきりに罵っていましたが、私が言葉を尽くして乞い願い、ようやく河南王様の命を助けてもらう約束を取りつけました。
漢王様は、仁義と人徳のある君主です。河南王様、どうか、このことをよく考慮してくださいませ」
申陽は、天を仰いで溜め息をついた。
「事ここに至っては、漢に帰服する以外に道はない。
分かり申した。ひとまず洛陽城に帰り、準備を整えたら、陸賈とともに咸陽に行き、漢王に帰順を申し出ようと思うが……
張良先生、それでよろしいか?」
張良が、うなずいた。
「大変よろしゅうございます。
それでは、私たちも同行いたしましょう」
(つづく)