申陽は、張良たちとともに洛陽へ帰った。
すると、どうだろう。城壁の上には漢の赤旗がはためき、漢兵たちがずらりと並んでいるではないか。
城壁の上にいた大将灌嬰が、申陽らの姿を見つけて呼びかけてきた。
「この城は、張子房(張良)の計略によって、すでに我々が奪い取った! そこに来るお前たちは何者だ!」
申陽は、愕然とした。
「なんたることだ。本当に一晩で城が取られている……
張良は、真に神の如き知恵者だ……」
その張良が、馬足を速めて、城門の前に進み出た。
「灌嬰殿、私です。よくやってくれました。門を開けてください」
すぐに門が開かれ、一同は、そろって洛陽城内に入った。
洛陽の住民たちには、特に異変は見られない。騒ぐことなく、いつもどおりの暮らしを送っている。鶏や犬さえ、別段驚きもせず、くつろいだ姿を見せている。
とても異国の軍勢に占領された直後の街とは思えない。
申陽は、大きく溜め息をついた。
「よかった。洛陽の民は、略奪も乱暴もされていないようだ。
つまり、軍法がよく整い、軍規が固く守られているということ……
この一事を見ても、漢王劉邦が上手く人を用いていることが、よく分かるな……」
さて、張良の後に続いて、申陽が城の奥へ進もうとすると、灌嬰が行く手を塞いだ。
「おっと、お待ちを。
河南王、あなたが城に入るのはまずい。
占領したばかりの城に、元の主が戻ってくれば、人々が心変わりして反抗しはじめるかもしれん。
それがしは、陣を構えて城の四方を守っておる。河南王は、張良先生とともに、その陣の中に留まっていていただきたい」
申陽は、首を横に振った。
「大丈夫(立派な男)たるもの、一度口にしたことを、どうして後から翻したりしようか。
この城は、すでに漢のものになったのだ。疑わないでくれ」
そう言って申陽は矢を折り、決して心変わりしないという誓いの証とした。
そのとき、物見が報告を持ってきた。
「城外に、漢軍の応援がやってきました。漢の大将周勃・陳武の部隊です。
今、城外に陣取り、張良先生に会見を求めております」
張良は、周勃らを城内に迎え入れた。
「やあ、両将軍。どうして貴公らが洛陽へ?」
周勃が答える。
「軍師殿が咸陽を出発して2日、何の音沙汰もありませんでしたので、韓信大元帥が心配なさいまして。
『なにか異変が起きていたらまずい』と、我ら2人に3千騎あまりをつけて、張良先生をお手伝いしに行くよう命じなさったのです。
しかし、その道中で、張良先生から送られてきた伝令の駅馬と、次々に出会いましてな。
潼関まで来た時には、もう洛陽を取ってしまったと聞いておりましたよ。
結果的に我々は無駄足になりましたが、計略が上手くいって何よりでした」
話を横で聞いていた申陽は、ますます驚嘆した。
潼関は、洛陽と咸陽の、ちょうど中間あたりにある。距離にして500里(200km)以上も洛陽から離れているのだ。
洛陽が陥落したのが、昨日の宵の頃。その後すぐに早馬を出発させたとしても、一昼夜もかからずに連絡した計算になる。
各地に駅馬を配置し、それを乗り継いで走ったのだろうが……
咸陽を占領してから、さほど時間も経っていないというのに、もうこれだけの仕組みを整えているとは。
申陽は、うなった。
「なんと用心深く、手際のよいことか……
有能な人材を数多く抱えていなければ、できないことだ。なるほど、やがて天下を取る者は、間違いなく漢王劉邦であろう……」
申陽は、その夜、酒宴を設けて、漢の大将たちをもてなし……
翌日。一同は、つれだって咸陽へと出発した。
*
西へ旅すること数日、一行は咸陽に到着した。
申陽は、咸陽城に入るなり、驚いて目を見開いた。
城内に屯する漢の軍馬は、整然と秩序だっている。
文武の大将たちもまた厳粛で、少しの乱れもない。
さすがに韓信が徹底的に鍛えた漢軍。並の軍勢とは練度が段違いであった。
さて、一行は宮殿に入り、漢王劉邦に謁見した。
まずは、張良が事の次第を報告した。
劉邦は満足げに、うなずく。
「さすがは張良先生! 先生の見事な計略でなけりゃあ、一挙両得に平陽・洛陽を服従させるなんて、とてもできなかっただろうよ!」
次に劉邦は、申陽・陸賈を招き寄せた。
申陽は、広間の段の下まで来ると、そこで丁寧に再拝した。
さすがに緊張した様子である。
それに対して劉邦が言う。
「やあ、河南王申陽殿! 貴公が洛陽をしっかり治めておられる、という評判は、遠くまで聞こえておりましたぞ。
それで前々から、河南王殿と協力して王業を為したいと思っていたんですわ。
ま、やむをえず、張良の計略で、少々強引に咸陽まで来ていただくことになっちまいましたが……
それでも朕を見捨てず、こうして遠路はるばる好を結びに来てくださった。朕は感激しておりますぞ!」
申陽が、低く首を垂れる。
「漢王陛下の聖なる人徳は、日増しに盛んになっていき、天下の百姓は父母を慕うように陛下を慕っております。
さらに、ここへ来るまでに、漢王陛下の元にいる諸将の武勇や知恵を拝見し、天命の帰するところを知りました。
天命には従わざるをえません。臣も、心を尽くして漢のために働く所存です」
そして……
最後に劉邦は、陸賈に目を向けた。
陸賈は、申陽のそばに拝伏し、緊張のあまり、顔面にビッシリと脂汗を浮かべている。
劉邦は、陸賈の頭を段の上から睨み下ろし、声を荒げた。
「おい陸賈ァ!!」
「はっ……」
陸賈が、身を小さく折って、ようやく声を返す。
広間に鋭く緊張が走る。
ぞっとするような沈黙……
不意に劉邦は、ニヤッ、と笑った。
「……親父さんやお袋さんに、ちゃんと親孝行してきたか?」
陸賈が、思わず顔を上げた。
「はっ? は……それは……はい」
劉邦が、おだやかに語りかける。
「誰にだって故郷はあるさ。
なあ、陸賈。お前は、もともと洛陽の人。俺のところを辞めて本国へ帰ったお前が、故郷のために働いて何の問題がある?
しかしなあ。ウチは、とにかく人材不足でさ。有能な人材は、何人いたって足りねえんだよ。
そういうわけで……明日からまた、よろしく頼むぞ、陸賈」
陸賈は……
陸賈は、その場に崩れ落ちるように、深く、深く、拝伏した。
熱い涙が、陸賈の眼から、川を作って流れ落ちた……
「臣は……漢王陛下に従い、3年もの間、御恩を受けておりました。そのことを、片時たりとも忘れるはずがありましょうや!
しかし本国に帰ってみれば、父母は見る影もなく年老いていて、再び離れるに忍びなく、恋々と後ろ髪を引かれ、陛下の御信頼を裏切ってしまった……
この罪、まさしく万死に値します。
それなのに……陛下は、この首に処刑の斧を振り下ろすことなく、それどころか憐れみ、慈しみ、再び御恩を与えてくださった!
陛下の仁徳は、天地すべてを翼で覆って庇い守る、巨大な母鳥の如きもの。
この陸賈、力を尽くして漢王様のために働くことを、今こそ誓いますっ……」
こうして……
西魏王魏豹・河南王申陽を味方につける計略は、完遂された。
その日、漢王劉邦は盛大な酒宴を設けて群臣の労をねぎらった。
そして翌日、申陽を帰らせて、洛陽の守りを任せ……
陸賈は咸陽に留まらせ、元通り、韓信の麾下に配属したのであった。
(巻八へ、つづく)
■次回予告■
秦を奪取し、諸侯を次々味方につけて、いよいよ勢い盛んなる漢軍。だが決戦に臨むにあたり、解決すべき懸念がひとつ。
劉一族の故地豊沛は、よりにもよって楚のド真ん中。劉邦の家族を項羽の勢力圏から救い出す……困難極まる重要任務を果たすべく、一人の将が立ち上がる。学は無くとも仁気に溢れ、直言を好む愚直な男。彼こそは天下に名だたる豪傑、王陵!
次回「龍虎戦記」第四十三回
『太公救出作戦』
乞う、ご期待!