王陵は、
「追手は必ず来る。急がねば……」
と考え、夜も休まずに逃走を続けた。
しかし、今回の旅は、鍛えられた兵士たちの行軍とは勝手が違う。
戦とは無縁の民衆。それも老若男女まぜこぜの旅慣れない集団である。
頻繁に休息を取らねば体力が持たないし、歩き続ければ足裏に血豆ができもする。歩みは遅々として進まない。
そんなとき、ついに恐れていたものがやってきた。
王陵たちの後方に、馬煙を立てながら接近してくる軍勢の姿が見えたのである。
王陵は、周吉・周利を呼んだ。
「どうやら追手が、すぐ近くにまで迫ってきたようだ。
俺は太公を守って先を急ぐ。
周吉、周利、お前たちはこの場に留まって、一戦、たのむ」
周吉・周利は、頼まれるまでもない、とばかりに快諾した。
「おう! 俺たちが敵を足止めしてやるさ!」
周吉・周利は、手下に陣形を取らせて、敵を待ち受けた。
ほどなく、楚の軍勢が、渦巻くようにやってきた。
両軍対峙したところで、楚将英布が声を張り上げる。
「逆賊め! はやく太公を引き渡せ! そうすれば汝らの一命は助けてやるぞ!」
対して、周吉・周利が進み出る。
「俺たちは漢王劉邦様の命を受けて、太公をお迎えに参ったのだ!
その太公を『引き渡せ』などと言う権利が、汝らにあるのか!
無理に奪い取ろうというなら、お前らの首を刎ねてやるぞ!」
英布は怒った。
「面白い……この九江王英布の首、取れるものなら取ってみよ!」
英布は斧を引っ提げ突撃した。
周吉・周利が、それを正面から迎えうつ。
馬を合わせて一駆けする間に、嵐の如く刃を叩き合わせ、戦うこと50余合。
さすがに英布は強い。項羽の下について以来、あらゆる戦で第一の武功を成してきた名将である。
周吉・周利も良い腕前だったが、英布が相手では、2対1でも食い止めるのがやっと……というところ。
しかしその時、突然、後方の楚軍が退却の鐘を打ち鳴らした。
英布は驚き、馬を引いた。
周吉・周利から離れ、いったん軍勢を後退させて、後軍の鍾離昧と合流した。
「鍾離昧! なぜ鐘を鳴らした? 何かあったのか」
鍾離昧が、周吉・周利らの軍勢のいる方角を指さした。
「あれをご覧なさい。
遠く敵の後方に、馬煙が上がっておりましょう。おそらく漢の伏兵です。
しかも敵の将は、なかなかに勇猛だ。ここは一度彭城に帰還し、覇王様に報告したうえで、しっかりと対策を練ったほうがよい」
英布は首を横に振った。
「バカな! せっかく敵の目の前まで来たものを、ろくに戦いもせず帰れるものか。
たとえ敵に援軍があったとしても、恐れるような俺ではない。
俺は、もう一度、斬りこむぞ! 鍾離昧、お前は後軍を前進させて、俺が切り崩した敵を揉み潰してくれ」
英布は、早口に言い切ると、鍾離昧の返事も聞かず、太鼓を鳴らして突撃していった。
周吉・周利が再び前に出て迎えうつ。
両軍の殺気が天を衝き、黒煙を立てて、ぶつかりあう。
そこへ、鍾離昧も後軍を駆りたてて参戦した。
周吉が、顔をくもらせる。
「くっ……いかん、支えきれん」
と、その一瞬の動揺を衝き、英布が斧を走らせた。
たちまち馬から切り落とされる周吉。
周利は、
「あっ! 兄者ァ!」
兄周吉の討たれる姿を目のあたりにして、もはや敵わぬと見て取った。
周利が馬を返し、手下の兵を率いて逃走を始める。
が、逃げる周利を、鍾離昧の軍勢が取り囲んだ。
鍾離昧軍から放たれる矢の雨。
周利は背中を何本もの矢に射貫かれて、たまらず馬から転げおちた。
そこへ、英布が鬼神の如く迫りくる。
英布が振り下ろした斧によって、周利は一撃で首を落とされてしまった。
こうなれば、あとは一方的である。
英布・鍾離昧の楚軍は、周吉・周利の手下3千人を情け容赦なく追い立て追い立て、ついに1人も残さず殺し尽くしてしまった。
*
残党の掃討が済んだ時には、もう、とっぷりと日が暮れていた。
英布は、近くの山の麓に陣をとり、人馬を休めて兵糧を使っていた。
そこへ、鍾離昧がやってきた。
「英布将軍の武勇は今に始まったことではありませんが、今日の戦いぶりは、古今聞いたことが無いほどでしたな。いやはや、お見事でした」
英布が、わずかに笑みを浮かべる。
「なあに、鍾離昧殿が後陣で圧力をかけてくれていなければ、ああ簡単には勝てなかったよ」
鍾離昧が言う。
「恐縮です。
しかし、さっきも申し上げた通り、敵の後方には砂埃が上がっておりました。
まだ敵の軍勢は、かなりの数が残っているはず。
今夜あたり、夜討ちを仕掛けてくるやもしれません。対策しておいたほうがよいのでは」
英布は、うなずいた。
「確かにな」
このあたり、英布も鍾離昧も、さすがに秦討伐戦で鍛えられた手練れである。一度の勝利で慢心するような甘さはない。
2人はすばやく部下の配置を決めて陣の守りを固め、慎重に夜襲に備えた……
しかし結局、漢軍の夜襲は無かった。
英布たちは、無駄に疲れさせられたことにイラだちながら、5更(午前4時ごろ)に軍に食事をとらせ、日が昇るやいなや、飛ぶように王陵たちを追っていった。
*
英布たちが警戒していた馬煙……実は、これは王陵による疑兵の計であった。
王陵は、太公を守って道を急ぐかたわら、山際の樹木のよく茂ったところに、兵を少々残していったのである。
この兵たちが、旗などを立てたり、馬を行き来させて土埃を上げたり、いかにも軍勢が待機しているというふうに見せかけていたのだ。
英布・鍾離昧は、有能な将であればこそ、この疑兵を警戒して、無駄に時間と体力を浪費してしまった。
おかげで、王陵はかなりの距離を稼ぐことができた。
楚軍を大きく引き離したところで、王陵が、疲れ果てた人馬に休息を取らせていると……
後方から敗残兵が追いついてきた。
敗残兵が、喘ぎながら報告する。
「昨日の合戦で、周吉様と周利様は討ち死に……
3千の兵も、ことごとく殺されてしまいました」
王陵は驚き、焦った。
「あの兄弟が、こうも簡単に討たれるとは……!
楚の英布と鍾離昧、さすがに恐ろしい敵だ。
……こうしてはいられない。グズグズしていたら、すぐに追いつかれるぞ!」
王陵は、休憩中の一行を立ち上がらせ、取るものも取りあえず出発した。
歩き始めて2日。いよいよ目指す洛陽も近づいてきた。
「よし……! 洛陽に逃げ込めば、河南王申陽の助けが得られる。あと少しだ!」
と、安心しかけた矢先。
後方から、半ば悲鳴のような報告が飛び込んできた。
「楚軍が来ました! おびただしい数で追跡してきています!」
その報告が終わらぬうちに、早くも楚軍の鬨の声が、地を揺るがして響いてきた。
敵の先頭に立っているのは、言わずと知れた猛将、英布!
こちらは兵の数も、ごくわずか。そのうえ、守らねばならない太公ら劉一族を抱えている。
とても太刀打ちできる状況ではない。
窮地に陥った王陵は、
「どうする!? どうすればいい!?」
と慌て騒いだ。
そうこうする間にも、英布の軍勢は、怒涛の勢いで攻め寄せてくる……!
と。
そのときである。
突然、横手の山の後方から、人馬の一団が殺出(一気に飛び出ること)した。
その一団を率いるのは、2人の大将。
謎の2将は、武器の切っ先を並べ、楚軍の横っ腹に斬り込んだ。
思わぬ攻撃を浴びて、混乱する英布の軍勢。
王陵も驚き、その一団の軍旗に目を凝らした。
旗の色は、漢の赤。
なんとそれは、漢の大将周勃・陳武の軍勢だったのである。
「おお! 味方が来てくれたのか!」
そうと分かればこっちのもの。
王陵は、ここぞとばかりに部下に命じ、鬨の声を上げさせ、太鼓を打ち鳴らし、
「我々も参戦するぞ! 敵を残すな! 討ちもらすな!」
と威勢よく攻め立てた。
一方の英布軍はといえば、ここまで数日に渡って遠い道のりを追ってきて、ろくに夜も眠れていない。上は将から下は兵まで、ことごとく疲労している。
これでは、さすがの英布も3方向からの同時攻撃を防ぎきることができず、さんざんに乱れて逃げ始めた。
と、そこへさらなる漢の援軍が駆けつけた。
洛陽の河南王申陽の大軍である。
それが本道から押し寄せてきて、英布軍を包み込み、十重二十重に取り巻いて、
「1人も逃さぬ!」
とばかりに揉みくちゃにする。
いかに英布が強くとも、これほど不利な状況では、どうしようもない。
左に仕掛けても、右を衝いても、まったく包囲から抜け出せず、英布は疲れ果ててしまった。
そこへ、包囲の外から、新たな軍勢が飛び込んできた。
鍾離昧率いる楚の後軍である。
鍾離昧は、前軍の英布の危機を見ると、急いで兵を二手に分け、2点同時攻撃を仕掛けて包囲を切り崩したのだ。
「英布将軍、ご無事で!?」
「おお、鍾離昧! 助かった! だが……ここはいったん退くしかないな」
「はい。とにかく態勢を立て直しましょう!」
英布・鍾離昧は、生き残った兵を率いて、無念の内に撤退していった。
それを見ると、王陵ら漢の大将たちも、
「深追いは危険だ」
と、鐘を鳴らして軍を引いたのだった。
(つづく)