周勃・陳武の部隊による猛烈な追撃を浴びて、殷軍は大混乱に陥った。
秋の木の葉が風に散るが如く、寥々落々、右往左往に殷兵たちは乱れ散っていく。
そのとき、殷将魏享は、第2陣として孫寅の後から進んでいた。
その魏享の前方から、一手の軍勢が駆け寄ってくる。
あれは孫寅の部隊。一兵卒にいたるまで、みな必死の形相で、こちらへ向けて逃走してくるのだ。
さらに孫寅らの背後には……漢の軍勢が、雲霞の如く押し寄せてきているではないか!
魏享は、胆魂も身に沿わなくなるほどに慌てふためいた。
「こっ、これはどうしたことだ!?
いや、考えている場合ではない。とにかく孫寅を助けねば!」
魏享は手勢を前進させ、体を張って漢軍を食い止めながら、孫寅らと合流して、ともに逃げ出した。
*
一方、後陣の殷王司馬卬のところへも、前方から兵卒たちが転がりこんできた。
「大変です! 孫寅様・魏享様の部隊は、すでに敗走してしまいました! 敵の大軍が、もう間近に迫っております!」
司馬卬は青ざめた。
「なんだとおッ!? いかん、逃げろ! 後退だ、後退っ!」
だが、時すでに遅し。
司馬卬が馬を返して逃げ出そうとした、まさにその時、思いもよらぬすぐそばの堤の影から、1人の大将が刀を提げて躍り出た。
「なんだっ!?」
司馬卬は叫び、敵の大将に戦いを挑もうとした。
しかし、まったく相手にならない。敵の大将が刀を振るうと、ただ1合で司馬卬は馬から叩き落とされてしまった。
当然、周囲にいた兵たちは、司馬卬を助けようと殺到した。
しかし、敵の大将は強すぎた。たった1人で竜巻のように刀を振り回し、寄ってくる相手を片っ端から薙ぎ倒し、四方八方へ蹴散らしてしまったのである。
この大将、一体なにものであろうか。
これほどの豪傑が2人といようはずもない……もちろんそれは、漢の舞陽候、樊噲なのであった。
*
そうとは知らぬ殷将孫寅・魏享は、散々な目にあいながら、なんとか逃げのびたのだが……
すっかり夜も更けて周囲はまっくら。司馬卬が無事かどうかも分からない。
「一体これからどうしたものか……」
孫寅と魏享が、暗い顔をして相談していると……
たちまち漢の大軍が追いついてきて、孫寅たちを十重二十重どころか、百重にも千重にも取り囲んでしまった。
韓信が、近くにある高い丘の上から孫寅たちを見下ろし、大声をあげる。
「降伏する者の命は助けてやる!」
それから韓信が腕を振り上げると、漢軍は猛攻をしかけてきた。
息も継がせず攻め立てて、殷軍を揉みしだく。
孫寅・魏享は、左に突きかかり、右を攻め立て、どうにか逃げようと、もがいたが、これほど分厚い包囲では、とても抜け出せるものではない。
兵は1騎も残らず討たれてしまい、どうにもならなくなった孫寅・魏享は、とうとう馬から下りて降参したのだった。
*
謀士都萬達は、河内の城を固く防衛していたところへ、殷軍壊滅の報告を受けて、驚愕した。
都萬達は、沈痛な面持ちで首を横に振った。
「味方の兵力は残り少なく、この城も孤立してしまった。
あまつさえ、殷王様、孫寅殿、魏享殿が、みんな生け捕られてしまった。
もはや、どうしようもない。
早く漢に降参して、生きのびよう……」
都萬達は、城に残っていた将兵5千人とともに、城門を開けて降伏した。
韓信は、喜んで城に入ると、すぐに全軍へ通達を出した。
「城内の住民の財貨を盗む者は、たちまち首を斬る!」
こういう通達も、毎度のこと。
韓信のもとで鍛えあげられた漢軍将兵は、耳にタコができる思いだったろう。
だが、それでも毎回同じことを言わねばならないのだ。
どんな精兵でも、勝つたびに厳しく戒めなければ、たちまち乱暴狼藉を働きだす。それが勝利に驕った軍隊というもの。
この悲しい現実を、韓信は、よくわきまえていたのだった。
ともあれ、漢軍の将兵は、韓信の言いつけに、よく従った。
おかげで大きな混乱もなく、占領は、すみやかに完了した。
さて、韓信が占領の後処理に忙しく働いていると、樊噲が、殷王司馬卬を縛って連れてきた。
韓信は、みずから司馬卬の縄を解いてやり、座を勧めさえした。
司馬卬は、地に拝伏した。
「私は、亡国の人間。
これほど慇懃に、もてなしていただくわけには」
韓信は、薄く微笑んだ。
「漢王劉邦様は、もっぱら仁義のために軍を出したのです。それに、賢者を厚く敬うお方でもある。
どうして、みだりに殺伐など行えましょうか。
殷王、御辺が今後、心を尽くして漢王様に仕えるならば、子孫まで末永く王侯の位を保つことができましょう」
司馬卬は限りなく喜び、国内の郡県に書簡を送って、漢に降伏するよう促した。
これによって河内地方の全域が、たちまち漢の勢力下に入ったのだった。
*
さて、そのころ……
覇王項羽の命によって援軍として派遣されてきた楚の大将、項荘と季布は、昼夜を問わず、大急ぎで河内へと走っていたのだが……
そこへ、目指す河内の方から、早馬が近づいてきた。
その話を聞くと、こうである。
「司馬卬は追いつめられて漢に降伏しました。
韓信は、大軍を河内に駐屯させて、周辺の郡県を威風によって揺るがしております」
項荘は、大いに驚いた。
「なんてことだ! すでに河内は奪われてしまったのか。
となると、いまさら我らが行っても、もう、どうにもならんか……
しかたがない。引き返して事の子細を報告し、覇王様に、みずから大軍で討伐に向かってくださるようお願いしよう」
季布も、苦々しげに、うなずいた。
「そうだな。それしかあるまい……」
かくして楚の援軍は、何もできないまま、虚しく斉国の方へ帰っていったのである。
(つづく)
■次回予告■
一戦だにせず帰還したかどで痛罵を受ける項荘と季布。彼らを庇って口を挟んだある文官が、覇王の気まぐれな勘気に触れて官職すべてを奪われる。
あんな奴の下ではもう働けぬ。漢に走る決意を固め、ひとり駆けだすこの男。無数の奇策で劉邦を支えた中華に名だたる汚れ役。陰謀家陳平、ついに脱ぎます。
次回「龍虎戦記」第四十五回
『はだかの陳平』
乞う、ご期待!