英布を幕下に加え、項梁軍の威勢はますます盛り上がった。
それからしばらくしたある日。大将たちが秦討伐の計画を議論していると、季布が進み出て言った。
「淮陽郡の居巣という街に、范増という者がいます。
もう70歳にもなろうかという老人ですが、その智謀は古の孫子・呉子をも上回るという大賢人です。
この人を味方に引き入れたなら、天下は半年のうちに平定できるでしょう」
項梁がうなずく。
「わしも以前からその名前は耳にしていた。
季布よ。すぐに行って、その人物を招いてきてくれ」
命を受けた季布は、贈り物を用意して居巣へやってきた。
そのあたりの住人に范増の家の場所を尋ねてみると、
「3里ほど先に旗鼓山という山があります。そこに閑居しておられますよ。あのおかたは、やかましいのが嫌いで、滅多に人と会わないんです」
との答え。
季布はすぐに旗鼓山に行き、あちらこちら訪ね歩いた。
すると、山の中に、幽玄な気配の漂う柴づくりの廬が見つかった。
廬の中からは、琴の音が聞こえてくる。
「間違いない、ここだ」
季布が近寄り、廬をのぞいて見ると……
一人の老翁がそこにいた。
顔は蒼く、髪は鶴の羽のように白い。
腹に甲兵を隠し、胸に妙算を納め、飄然として凡ならざる翁である。
老翁范増は、琴を脇に置いた。
「こんな僻地にわざわざやってくるとは、一体どなたかな」
季布は、謹んで贈り物を捧げ、地にひざまずいた。
「それがしは、楚の項梁に従う季布という者です。
秦の政治は無道であり、英雄たちは蜂のごとく湧き起こり、それぞれが太守を殺して、諸侯に呼応し動きだしております。ゆえに、一芸一能の人材はみんな、よい主君に用いられたいと願っているのです。
まして范増先生は、世を経め民を済う経済の謀を胸に抱き、孫子呉子の兵法の真髄を隠し持っておられるというのに、70歳になってもまだ蓬の生した荒野に住み、草木とともに朽ち果てようとしていらっしゃる。
これではまるで、太公望が文王に出会えずにいるかのようだ。惜しくないはずがありましょうか。
我が主項梁は、楚の名将項燕の息子で、文武をともにそなえており、義によって兵を起こしましたので、四方の勢力が共鳴するように呼応しました。
その項梁が、前々から范増先生の徳を慕っておりましたので、それがしに命じて贈り物を持参させたのです。
先生、どうかこれをお受け取りください。大いなる才能を発揮して、天下を塗炭の苦しみからお救いくださいませ」
しかし范増は、贈り物を受け取ろうとはしなかった。心の中で、
「まずは楚の天運を算出し、その後で返答しよう」
と、慎重に考えていたのである。
これに対して、季布は地にひざまずき、しきりに懇願した。
范増が言う。
「私とて、秦の二世皇帝の残虐暴虐が民を悩ましていることを知って以来、この無道を誅する者が現れないことを、ずっと恨めしく思っていたのだ。
そこへ今、項将軍の命を受け、御辺が遠い所からやってきて私を招こうとしている。
これもよい機会であろう。
まあ、今日のところは帰りなさい。今夜じっくりと意思を固めて、明日になったら贈り物を受け取るつもりだよ」
だが季布は地にひれ伏し、さらに食い下がる。
「それがし、幸運にも先生にお会いできて、千金の価値を持つ宝玉を手に入れたような気持ちです。もし明日まで待てば、お気持ちが変わってしまうやもしれません。どうか先生、今お受け取りください!」
とうとう范増は根負けした。
贈り物を受け取って項梁の元へ行く約束をし、季布を堂の中へ招き入れて酒を勧め、泊まらせてやった。
*
その夜……
范増は、心静かに歩き回りながら、楚の天運を検討した。
ところが、どうも良くない。
これまでの言動や、今の情勢、未来の予測など、細かいところまでよくよく考慮してみると……楚はまことの天命を得た主君ではないように思える。
范増はつまずき、転びかけて、長々と溜息をついた。
「軽々しく引き受けるのではなかった……
しかし男たるもの、一度言葉にした約束は、万金を積まれたとしても破ってはならぬ」
そう思い直して、翌日。
范増は、季布とともに廬を出て、項梁の陣へと向かっていったのだった。
*
范増が来たと聞くと、項梁は、みずから出迎えた。
范増を上座に座らせて言うことには、
「わしは范増先生の名を聞いて、日夜思い慕っておりましたが、軍務に忙しくてお会いすることができませんでした。
昨日、季布を遣わしてお招きしたところ、幸いにも先生はご降臨くださった。どうかこれ以後、わしの及ばぬところを正してくださいませ」
范増は、丁重に再拝した。
「項将軍は、代々楚を助けてこられた一族です。そして今もまた、義兵を起こして無道を誅そうとしておられるのだ。これで天下が傘下に入らぬわけがない。
私などは取るにたらない年寄りで、一体何の才能があってこれほど手厚く迎えていただいたものやら分からぬほどだが……
こうなったからには、犬馬の労もいとわず、力を尽くして王業を助け、この御恩に報いましょうぞ」
これを聞いた項梁の喜びようは、並々ならないものだった。
そして、実際に天下のことを議論させてみると、范増の謀は、人間技とは思えないほどの鮮やかさであった。
これまさに鬼神の知恵……
項梁陣営の者たちは、上から下まで皆で感心し、范増を尊び敬うようになったのである。
(つづく)