韓信率いる漢軍による、突然の河内攻撃。
これに対抗するため、覇王項羽は、項荘・季布の2将を援軍として送った。
しかし、援軍が到着するより早く、河内は漢軍に占領されてしまった。
こうなるともう、項荘・季布には、どうすることもできない。
しかたなく2将は来た道を引き返し、斉で反乱鎮圧の指揮を取っている覇王項羽のもとへ戻ってきたのだった。
斉に帰りついた項荘・季布は、項羽に謁見して、事の次第を報告した。
「臣らが昼夜馬を飛ばして進軍していたところ、河内の城が陥落した、との報が舞い込んできました。
こうなってしまっては、我らだけでは、どうにもできず……
河内に行って戦ったとしても無駄に人馬を損なうだけだ、と考え、しかたなく道の途中で引き返してまいりました」
兵力に歴然の差があるうえ、城まで漢軍の手に渡ってしまったのだから、妥当な判断であろう。
そもそも項荘・季布が派遣されたのも、項羽率いる本隊が到着するまでの時間を稼ぐためである。
項荘・季布の兵だけでは勝負にならない……そのことは、項羽とて当然わかっていたはずだ。
だが、項羽は怒った。
すさまじいまでに怒った。
「汝らァッ!
敵と1戦さえしないでノコノコ舞い戻り、俺の河内をみすみす敵に渡しやがったのかッ!
誅殺されずに済むと思うなよ!」
天地も揺り動かさんばかりの覇王の怒声。
項荘・季布は、震えあがった。
と、そこへ、進み出て口を挟んだ男がいた。
都尉の陳平である。
「覇王様、どうか怒りを鎮めてくださいませ。
援軍が到着する前に河内が落とされてしまったのですから、これは項荘・季布両将軍の罪とは言えません。
しかも韓信は、古の軍略家、孫子・呉子を彷彿とさせるほどの戦上手です。
兵を無駄に損耗させまいとした両将軍の判断は、妥当でございましょう。
ご安心くだされ。
いまから臣が范増亜父と共に計略を練り、一軍を率いて河内の地を取り戻しに行ってまいります。
覇王様は、その間に斉の平定を完了なさって、その後で大軍を率いてお越しください。
そうすれば、韓信といえども対抗することはできません。
どうか臣の提案を用いなさいませ。でなければ、河内のみならず、中国全土が漢に奪われることになりましょう」
だが……
陳平のこの発言が、かえって項羽の怒りに油を注いでしまった。
項羽は、城が吹き飛びそうなほどの大音声で、陳平に、すさまじい罵声を浴びせかけたのである。
「陳平ッ!
前に司馬卬が救援を求めてきたとき、汝も俺のそばにいて話を聞いてただろうがッ!
あのとき何の策も出さず黙ってたくせに、今さら『一軍を率いて行きます』だと!?
もう河内は落とされたんだぞ! 軍を出して何ができるってんだ!
陳平、汝も、こいつらと同罪だッ!
項荘! 季布! さっさと出ていけ!
そして陳平! お前の官職をぜんぶ剥奪する! 二度と朝廷に顔を出すなッ!」
*
かくして官職を剥がれてしまった、この陳平という男……
ご記憶であろうか。
かつて鴻門の会のおりに、さりげなく劉邦や張良を援助し……
韓信が楚を離反するときにも、通行許可証を発給して便宜をはかった……
あの陳平である。
(第十七回、第二十六回参照)
陳平は私宅に帰ったが、心は鬱々として楽しまず、ひとり、悔しさに拳を握りしめていた。
「項羽は、前々から仁の心に欠けていた。暴力ばかりを頼み、やたらに人を侮辱する。
もう、あんな男の下では働けん。漢王劉邦のもとへ行こう」
陳平は、ひそかに旅の準備をして、翌朝未明、ただ1人で家を出た。
西を目指して、ひた走り、陽武という土地を経由して、洛陽へ向かう。
黄河の岸辺にたどりついたときには、日はもう西に沈んでしまい、道行く人の姿は絶えていた。
渡し舟も見当たらず、陳平が、どうしたものかと考え込んでいると……
少し離れたところの、岸辺が砂浜になった湾の中に、一艘の小舟がユラユラと揺れているのが見えた。
「おっ、これは好都合だ」
と陳平は喜び、小舟の方へ、大声で呼びかけた。
「おおーい!
私は、急用で洛陽へ向かっている者だ!
その舟で、向こう岸まで乗せて行ってくれないかーっ?」
すると、小舟が陳平の方へ近づいてきた……
が。
陳平は、舟の男たちを見て、顔色を変えた。
歳は、24か25くらいだろうか。
凶悪な面がまえの2人組である。
こんな男たちが、どうして魚を獲るでもなく、向こう岸へ渡るでもなく、ただボンヤリと舟を浮かべていたのか……
陳平は、すぐにその正体を察した。
「こいつらは、黄河の水賊に違いない。まずい奴らに声をかけてしまった……
だが、慌てて逃げ出そうとすれば、奴らに殺されてしまう。
ここは何も気づいていないフリをして舟に乗るとしよう。その先については、考えがある……」
陳平は平静を装い、少しも動かずに舟が来るのを待った。
さて、まさに陳平の推測通り、この男たちは川を仕事場とする盗賊、水賊であった。
水賊たちは陳平の姿をジロリと見て、
「いいカモが来た」
と喜んだ。
「向こう岸まで渡りたいだって? いいとも、乗るがいい」
水賊が、にこやかに陳平を舟へ招き入れる。
さて、舟を出して、黄河の真ん中あたりまで進んだ時。
2人の水賊は、陳平を切り殺して金品を奪おうと、刀の柄に手をかけた。
無論、陳平のほうも、その気配を敏感に察知している。
「いよいよ、やる気だな……
だが、奴らが私を殺そうとするのは、金銀や衣服を奪いたいからだろう。
ならば、こうすればいい」
陳平は突然、舟の漕ぎ手へ向けて、こんなことを言いだした。
「御辺、しばらく休憩なされよ。
私は、いささか操船の心得がある。身軽になって、御辺のかわりに舟を漕ぎましょう」
そこで陳平は、いきなり着ているものを脱ぎ捨て、赤裸になって立ち上がった。
水賊たちは、はだかの陳平を見て大笑い。
「あっはっは! なーんだ!
懐にたっぷり金銀を隠し持ってるだろうから、殺して奪い取ってやろうと思ってたのに……なんにも持ってないじゃないか!
お前なんかを殺しても、なんの利益にもならないなあ」
水賊は、あきれて剣を納めた。
こうして陳平は、無事に黄河を渡りきることができたのである。
しかしその代償は軽くない。脱いだ衣服は水賊に盗られてしまった。
水賊と別れて先を急ぐ陳平だが、すでに時刻は夜。着る物さえなく、体は疲れ果てている。
そのとき、道沿いに人家が見つかった。
陳平は、助けを求めて戸を叩いた。
戸を開けた家主は、はだかの陳平を見て驚いた。
「おや、お気の毒に!
さては御辺、黄河の水賊に、やられましたな?」
陳平は、悲しげに、うなずいた。
「そうなのですよ……
私は河南の商人です。楚の国で商売を済ませ、荷を背負って故郷へ帰る途中のこと。
黄河を渡る舟の中で、水賊に出くわしまして。
召使いたちを殺されたうえ、荷物も衣服も奪われ、どうにか命だけは見逃されたという次第。
お願いです。同郷の義によって、一夜の宿をお貸しください。
そして、できれば衣服を一着、恵んでいただけませんか……
後日、必ず恩返しは、いたしますから」
史書によれば、陳平は背が高く、すばらしい美男子だったという。
それに、言葉遣いも丁寧で、品がある。
はだかであることを除けば、第一印象は最高だった。いや、はだかであることが、かえって妖しげな魅力を引き立てさえしたかもしれない。
家主は、すっかり陳平を信用した。
「それはそれは、さぞお困りでしょう。
今宵は当家に泊りなさるがいい。衣服も、すぐにご用意しましょう」
そして家主は、陳平を席に招いて酒を酌み交わし、一晩ともに過ごしたのだった。
(つづく)