夜が明けた。
陳平は、家主に礼を言って別れを告げ、再び西へと歩きだした。
洛陽を通り過ぎ、さらに西へ歩みを進め……ついに陳平は、目指す咸陽へと、たどりついた。
そこでまず、陳平は魏無知という男の館を訪ねた。
この魏無知、先日劉邦に帰順した西魏王魏豹の従兄弟にあたる人物である。
陳平は過去に魏に仕えていたことがあり、その時、魏無知と親しくつきあっていた。
その魏無知が、今は劉邦に仕えている。
そこで陳平は、魏無知に口利きをしてもらおうと考えたのである。
「楚の陳平が参りました」
という報告を受けると、魏無知は、すぐに陳平を館に招き入れた。
そして陳平に座を勧めて歓迎し、昔の思い出話などして、喜ぶこと限りなかった。
その席で、陳平は、こう言いだした。
「ところで……私が咸陽まで来たのには、理由があるのです」
魏無知も、神妙な顔で、うなずいた。
「そうだろうと思っていたよ。でなければ、楚に仕える君が、こんなところへ来るはずがない。
事情を聞かせてくれ」
「うむ……
魏無知先生も知っての通り、覇王項羽は、好き勝手に乱暴な行いばかりして、人の諌言を用いようとせず、しかも賢人を軽んじる。
そのため、楚国の政は、今、大いに乱れている。
私は、もう、ほとほと愛想が尽きました。
それにひきかえ、漢王劉邦様は心が広く、仁義にあふれ、下から計略を提案されることを好み、決断力もあり、身を低くして手厚く賢者を敬いなさるそうですな。
だから私は、千里の遠路を旅することも厭わず、咸陽までやってきたのです。
私は漢王様にお仕えしたいと思っています。
魏無知先生、私に友情を感じてくださるのなら、どうか漢王様に推薦していただけないでしょうか。
もし官職を得ることができたなら、私は、この身が終わる時まで、決して御恩を忘れません」
魏無知は、にっこりと微笑んだ。
「任せておきたまえ!
漢王様は、謙虚な心で広く天下の人材を求めておられる。だから、四方の豪傑や一代の英才が、先を争って集まってきているのだ。
それにな。漢王様は、御辺の才能が抜きんでていることを、以前からたびたび口にしておられたぞ。
君が漢王様に謁見すれば、私が推薦までもなく、すぐに重く用いていただけるに違いない」
*
というわけで、翌日。
魏無知は、朝廷に出て、劉邦に奏上した。
「臣の同国の友人で、陳平という者がおります。
長いあいだ楚に仕えておりましたが、楚では志を果たすことができず、昨日、臣の館を訪ねてまいりました。
陳平は、深く漢王陛下の徳を、お慕いして、漢王陛下に用いられたいと願っております。
陛下! もしこの陳平と、もろもろの計略を相談なさいましたら、必ずや大いなる利を得られることでしょう」
これを聞くと、漢王劉邦は身を乗り出した。
「陳平だって?
それは、鴻門の会の時に俺を救ってくれた、あの陳平か?」
魏無知が、うなずく。
「はい。その陳平でございます」
劉邦は限りなく喜んだ。
「俺は、ずっとその人に会いたいと思ってたんだよ! すぐに連れてきてくれ。対面しよう!」
魏無知は、陳平を連れてきて、劉邦に謁見させた。
劉邦は、ニコニコと上機嫌である。
「おう、陳平!
昔、鴻門で項羽に殺されそうになったとき、御辺の力で虎口(危機)から逃れることができた。
あの時のことは、今でも忘れられないぞ!
また会えてうれしいよ。ずっと御辺に会いたいと思ってたんだ!
それで、楚では、どういう官職についていた?」
陳平が答える。
「都尉でした」
劉邦は、うなずいた。
「よし。じゃあ、今日から御辺を都尉に任命する!
さらに、俺の参乗典軍も務めてくれ!」
*
参乗典軍……
参乗とは、君主の車に同乗すること。
典軍とは、軍を監督すること。
すなわち参乗典軍とは、君主が軍を視察するとき、同じ車に乗って軍を見下ろす役目のことを言う。
極めて君主と距離の近い、まさに側近という印象の役割である。
事実、この日以来、陳平は毎日のように劉邦の左右に侍り続けるようになった。
こうなると、面白くないのが漢軍の諸将。
諸将は、あちこちで顔を突き合わせて、しきりにヒソヒソと言い交わした。
「陳平なんて、はだかで亡命してきたばかりじゃないか。
まだ才能が深いか浅いかも分からないのに、いきなり都尉なんて重役に任命されたうえ、朝も夜も漢王様のそばにくっついているとは!
このままでは、何か不測の事態が起きてしまうんじゃないか?」
こういう陰口は、劉邦の耳にも届いた。
だが劉邦は、まったく気にしないばかりか、ますます陳平を手厚く優遇するようになった。
当然、余計に諸将の不満が高まっていく。
とうとう、周勃が他の大将たちとともに、朝廷に出てきて奏上した。
「漢王様!
陳平のことで、申し上げねばならんことがあります!
陳平は、確かに宝玉のように美しい顔をしておりますが、心の中まで美しいとは限りません。
聞くところによれば、あの男は昔、兄の家に居候していた時、あろうことか兄嫁を寝取ってしまったのだそうです。
さらに、今の地位についてからというもの、多くの大将たちから賄賂を貪り取っているというではありませんか。
臣らは陳平の為人をよく観察しましたが、奴は信頼を裏切り、法を乱す輩です。
漢王様! どうか分かってくださいませ。あんな性根の曲がった男に惑わされてはいけません!
早く追い出さなければ、きっと大きな害をもたらしますよ!」
これを聞いた劉邦は、激怒して魏無知を呼び出した。
「おい、魏無知!
お前が推薦した陳平だがなあ! なんだ、あいつは!
周勃たちの話じゃあ、兄の妻と密通しただとか、賄賂を集めてるだとか、貪欲で汚いマネをしているそうじゃないか。
よくも、ふさわしくない人間を推挙してくれたなっ! 魏無知、お前も有罪だぞ!」
しかし魏無知は、平然と答えた。
「臣が推薦したのは、陳平の能力です。
漢王様がお聞きになったのは、陳平の素行です。
かつて尾生という男は、信義を果たすために命をかけました。
孝已という人物は、誰よりも親を大事にする孝行息子でした。
しかし、尾生や孝已のような立派な行いをいくらしても、計を巡らし兵を用いることができなければ、戦の役には立ちません。
漢王様が必要としておられるのは、尾生・孝已のような人物なのですか?」
「うっ……」
劉邦は、言葉に詰まってしまった。
(つづく)