夏侯嬰は、すぐに張耳を連れてきた。
張耳に対面するなり、劉邦は、気さくな笑顔を見せた。
「おお、常山王殿!
貴公が賢王であるという噂を聞いて、前々からお会いしたいと思ってたんですよ! いやあ、長年の思いがかないました!
それにしても、陳余の件は……災難でしたなあ……」
張耳は、泣きながら語った。
「漢王様もご存知でしょうが、臣と陳余は、幼い頃からの親友で、刎頸の交わりを結んだ仲でした。
しかし陳余は、私的な恨みによって、臣の家族を殺してしまったのです。
陳余は、今や臣の仇敵! 奴と同じ天を戴くことは、がまんならない!
陳余か、臣か、どちらかが死ぬまで戦い抜く所存であります!
臣が耳にしたところでは、漢王陛下は心が広く、仁愛を大切にし、器の大きなお方であるとか。
陛下が大蛇を斬った夜には神の母が号泣し、陛下が秦に攻め込んだ夜には五星が一ヶ所に聚まって、ことごとく天が呼応したと聞きます。
陛下は、楚と真逆の道を進んでおられる。
すなわち、寛容と仁愛によって世を治めておられる。
これぞ真の天下の主。民衆の父母となるべきお方です。
この張耳、漢王様に首を差し出して降伏いたします。
もしも臣を登用してくださるならば、いつの日にか、必ずや陳余を倒し、家族の仇討ちを果たして生涯の恨を雪ぎたいと思います。
そのためならば、この肝臓や脳が地に塗れようとも、何の後悔も、ございません!」
この申し出を、劉邦は斜めならず喜んで、張耳を重用した。
そして、これまで通り張耳を常山王と呼んで、地位を保証したのである。
*
さて……
ここまでの戦いで、中国の勢力図は大きく塗り替えられた。
まず西方の漢・秦が劉邦の支配下に入り、中央部の西魏・河南・殷の王たちも劉邦に帰順した。
北部の代国・常山国は、項羽に恨みを持つ陳余が実権を握っている。
北東の斉は田栄が力で奪い取り、項羽に封建された王たちを排除してしまった。
今や覇王項羽の勢力圏と言えるのは、南東に位置する本国楚の他、中国南部の数ヶ国くらいのもの。
それに対して、劉邦率いる漢軍の勢力は、日に日に勢いを増して雲霞の如き大軍になった。
劉邦は、この状況に気を良くして、ある日、群臣を集めて言った。
「俺が漢中を出発してから、あちこちの諸侯が先を争って服従してきた。
兵の総数は、ついに40万を突破した!
覇王項羽は、長いあいだ暴力的な政治を行ってきた。天下の人々は、みんな歯ぎしりしている。
そこで……俺みずから大軍を率い、韓信と合流して、逆賊項羽を誅殺し、万民を塗炭の苦しみから救おうと思うんだけど、どうかな?」
群臣は口をそろえて答えた。
「漢王陛下の神の如き知恵、聖なる武力、向かうところ敵なしでございます。
さらに、これまで長期に渡って鋭気を養ってきた軍は、兵力も多く、兵糧も十分に蓄えられております。
すぐに東へ向かって無道の楚を滅ぼしましょう!
さすれば、私たちも故郷へ帰ることができます!」
劉邦の出身地は、楚の真ん中にある沛県である。
それゆえ、旗挙げ当初から従ってきた将兵にも、楚の出身者が多いのだ。
念願の帰郷を前に、諸将が舞い上がるのも無理はない。
だが……
そこへ軍師張良が進み出て、冷静かつ冷徹に異議を唱えた。
「臣は反対です。
味方の軍は、確かに勢力を増しました。
しかし、臣が天文を見て占ったところでは、いま戦を仕掛けても利はありません。
しばらくの間、しかるべき時が来るのを待って、それから東征なさいませ」
この諌言に、劉邦は従わなかった。露骨に嫌な顔をして反発した。
「俺は毎日、故郷のことを思い慕っていて、夢にま出見るほどなんだ。
これ以上、咸陽に留まるのは、嫌だ!」
これまで劉邦は、張良のことを「先生、先生」と慕い、張良の言うこと全てに従ってきた。
その劉邦が、ここへきて張良の意見を却下してしまったのだ。
漢軍が急拡大したことで、気が大きくなったのか……
何年も押さえつけていた望郷の念が、ついに爆発したのか……
いずれにせよ、これまで見せたことのない頑なさ、であった。
劉邦は、諸将に命じた。
「さあ、急いで戦の用意をしろっ!」
漢の諸将は大いに喜び、
「早く故郷に帰って、懐かしい家族に対面するんだ!」
と勇み躍って、わずか数日の間に全ての用意を成し遂げてしまった。
かくして。
漢王劉邦は、父の太公、妻の呂后、2人の息子を連れ、大将200人余り、兵力43万騎以上を率いて、東へと進発した。
まず目指すは、洛陽の都。
そこで韓信と合流し、ともに楚へ雪崩れ込もうと考えたのである……
(つづく)
■次回予告■
咸陽を出発した劉邦の手勢、帰順してきた諸侯の兵、そこに韓信率いる遠征部隊も合流し、総勢実に60万。前代未聞の大軍に膨れ上がった漢軍は、項羽不在の彭城へ潮の如く攻め寄せる。
だが飽くまでも攻撃を止める大元帥韓信。是が非でも決着をつけたい劉邦。2人の間に今、小さな不協和音が響き始める……
次回「龍虎戦記」第四十六回
『大元帥、解任』
乞う、ご期待!