龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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四十六の上 大元帥、解任

 

 

 漢王劉邦は、大軍を(ひき)いて東進し、河南(かなん)国へやってきた。

 出迎えにきた河南(かなん)申陽(しんよう)とも合流し、東へ、東へ、意気揚々(いきようよう)(こま)を進めていく。

 

 劉邦は、洛陽(らくよう)周辺の優れた景色に、目を見張った。

 

 左手側は成皋(せいこう)城の要害に守られ、右手側は洛水(らくすい)の流れに(はば)まれている。

 後には悠然(ゆうぜん)たる黄河あり。

 前には中嶽(ちゅうがく)嵩山(すうざん)あり。

 

 風景は華美(かび)山川(さんせん)明秀(めいしゅう)

 すべてを見尽くすことなど、できぬ。

 ここは河南(かなん)(みやこ)洛陽(らくよう)

 古人(こじん)は、ここを「天地の中」と呼んだ。

 

 この美しい風景の中を、劉邦がニコニコと微笑みながら進んでいると……

 前方から、

洛陽(らくよう)の人民が、漢王様を出迎えに参りました」

 と報告が来た。

 

「そうか。会おう」

 と劉邦がその人民たちに(まみ)えてみれば、数十人の老人が、道の脇に拝伏している。

 その中に、董公(とうこう)という、(よわい)80を過ぎた老人がいた。

 

 ずいぶん前のことになるが、項羽が英布に(めい)じて義帝を弑逆(しいぎゃく)したとき、その犯行現場を河岸から見ていたのが、この董公(とうこう)である。

 そのとき董公(とうこう)は、人々を指揮して義帝の遺骸(いがい)を川から引き上げ、郴州(ちんしゅう)へ送って葬儀をあげたのだ。

(第二十五回参照)

 

 その董公(とうこう)が、劉邦の前に進み出た。

「漢王様が軍勢を動かして()討伐(とうばつ)なさると耳にして、一言(ひとこと)、お(いさ)めたてまつらんと思い、やってまいりました」

 

 劉邦は、うなずいた。

「その『一言(ひとこと)』というのを聞かせてくれ」

 

 董公(とうこう)が答えた。

「『徳に従うものは(さか)え、徳に逆らうものは滅ぶ』と申します。

 項羽は無道な男で、己の欲望のために(あるじ)たる義帝を弑逆(しいぎゃく)しました。

 これは、天下の(ぞく)のやることです。

 

 仁ある者は、物事を勇では行わない。

 義ある者は、物事を力では行わない。

 軍勢を立ち上げるとき、その名分が正しくなければ、人々は従いませぬ。

 

 漢王様は、今、大義名分のない軍勢を出して、むやみに土地を(むさぼ)っておられます。

 これでは、たとえ()に勝ったとしても、そのあと天下が帰服してこないでしょう。

 

 そこで……

 今、亡くなった義帝のために()を発せられ、『義帝の(とむら)い合戦である』と諸侯に告げてから()討伐(とうばつ)なさいませ。

 さすれば、誰も漢王様の(めい)(そむ)かないでしょう」

 

 劉邦は、なるほど! と手を打った。

「汝の言うことは、まさしく当然の(ことわり)だ! 必ず汝の言うとおりにしよう。

 どうだね、爺さま。この俺に(つか)えてみないか?」

 

 と、身を乗り出して誘う劉邦であったが、董公(とうこう)は、そっと首を振った。

「いえ……

 臣は、じきに90に手が届こうかという年寄りです。世に名を上げようなどという望みは無くなりました。

 

 漢王様が最初に咸陽(かんよう)へお入りなさったとき、すぐに(しん)の苛烈な政策を停止させ、法を3章に簡略化なさいました。

 庶民は大いに喜び、漢王様が四海(全世界)の君主となることを願っているのです。その気持ちは、まるで大旱魃(かんばつ)のときに雨雲を望むようなものです。

 

 それゆえ、庶民の願いをかなえるお手伝いをしようと思って、お(いさ)め申し上げたまでのこと。

 官職を求め俸禄(ほうろく)(むさぼ)ろう、などという考えではございません」

 

 劉邦は、にっこりと笑って、うなずいた。

 そして董公(とうこう)をはじめ、その場にいた老人たちに、それぞれ米1斗と絹1(ぴき)ずつを(たまわ)ったのだった。

 

 

   *

 

 

 劉邦は、洛陽(らくよう)城に入って、大元帥韓信と合流した。

 

 韓信と相談したうえで、即時に義帝のために()を発し、手ずから檄文(げきぶん)を書いて、各国の諸侯へ告知した。

 その檄文(げきぶん)の内容は、こうである。

 

『天下の諸侯は、(みな)で義帝を立て、北面(ほくめん)して義帝に仕えた。(君主は南向きに座るので、それに仕える臣は北を向く)

 しかし、項羽は義帝を弑逆(しいぎゃく)してしまった。

 これはまさに大逆無道の行いである。

 

 この私、漢王劉邦は、関中の兵を進発させ、三河(さんか)(河東、河内、河南)の人材を加え入れ、貴公ら諸侯王とともに、()の義帝を殺した者を討伐(とうばつ)したいと思う』

 

 この頃、覇王項羽の政治は、はなはだ乱れていた。

 そのため、項羽に造反(ぞうはん)しようと考えるものが、そこかしこに大勢いたのだ。

 

 その者たちは、劉邦の檄文(げきぶん)を見ると、天の助けだ! と喜んだ。

 我も我もと()せ参じる諸侯の軍勢を吸収して、劉邦の軍は、みるみるうちに膨れ上がっていき……

 1ヶ月もたたないうちに、なんと総勢56万騎にも達したのである。

 

 

(つづく)




●注釈
 劉邦が見た洛陽(らくよう)周辺の地形について。「通俗漢楚軍談」と「西漢通俗演義」の記述に食い違いがあるほか、欠字もあり、地名がぼかされている部分もあるため、外清内ダクの推測も交えて補った。解釈違いもあるやもしれないが、お許しいただきたい。
 「演義」において、洛陽(らくよう)へ向かう劉邦は『左に成皋(せいこう)、右に河池、前に嵩高(すうこう)、後に大河』を見ている。位置関係から見て、劉邦は西側から洛陽(らくよう)に接近していると思われる。
 成皋(せいこう)は、洛陽の北東にある土地。昔から中国東部と中央部を繋ぐ交通の要衝(ようしょう)であった。北の黄河、南の山々に挟まれた険しい地形のため、昔から城や関所が置かれて防衛拠点とされてきた。「三国志演義」で有名な『虎牢関(ころうかん)汜水関(しすいかん)』は、成皋(せいこう)の別名である。
 右にあるという河池とは、おそらく洛水(らくすい)(現在の洛河(らくが))のことであろう。洛水(らくすい)は黄河の支流の一つで、洛陽(らくよう)の名の由来でもある。漢代の洛陽(らくよう)城は、洛水(らくすい)の北岸にあった。
 以上の位置関係から、西から東へ進んでいけば、洛陽(らくよう)の左手側に成皋(せいこう)、右手側に洛水(らくすい)が見えるわけである。
 前に見えるという嵩高(すうこう)とは、嵩山(すうざん)のことだろう。中国には古来より尊崇(そんすう)を集めてきた5つの山脈が東・西・南・北・中央にそれぞれあり、これを五嶽(ごがく)という。すなわち、東嶽(とうがく)泰山(たいざん)南嶽(なんがく)衡山(こうざん)西嶽(せいがく)華山(かざん)北嶽(ほくがく)恒山(こうざん)、そして中嶽(ちゅうがく)嵩山(すうざん)、この5つである。嵩山(すうざん)洛陽(らくよう)の東にあるから、東進していれば確かに前方に見える。
 最後に、後ろにある大河とは、黄河であると考えられる。本来、『河』という漢字は黄河を表す固有名詞であった。今でも中国でただ河と言えば黄河のことを指す。位置関係的には、黄河は洛陽の北を東西に走っているのだが、劉邦が若干南東向きに進軍していたとすれば、『後ろに見える』と言えなくもないだろう。
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