次の日。
劉邦がさらに進んで汴河(黄河の支流)を渡っていたとき、ちょっとした事故が起きた。
各国の軍が先を争って渡河しようとしたため、ある軍の兵が誤って水に落ち、死んでしまったのだ。
ただそれだけのことではあるのだが、兵たちは大騒ぎしはじめた。
「あいつが押したんだ」とか「いいや、そっちが割り込んだせいだ」とか、あるいは「いきなり人が死ぬなんて不吉だ」とか……
大将たちは、もちろん騒動を静めようとしたのだが、兵は好き勝手にわめき散らして、まったく収拾がつかない。
劉邦は、うんざりして陸賈と酈生を呼んだ。
「軍の規律は、もうメチャクチャだ……
張良先生が言ってたとおり、はやく総大将を決めて、軍をまとめさせないといけない。
大将たちの中で一番人望のある人を選んで総大将に任命しよう。
西魏王の魏豹は、魏王の子孫という高貴な家柄で、人々から尊ばれている。
この魏豹に大元帥の印を与えて、全軍を統率させようと思うんだが、どうかな?」
陸賈は、まともに顔をしかめた。
「魏豹は、大口は叩きますが実力はなく、今まで実績をあげたことのない男です。
軍事を任せるには、ちょっと……」
酈生も言う。
「張良先生も、魏豹のことは、あまり評価していませんでした。
しかも、魏豹は他の大将たちと不和を抱えてもいるようです。
おそらく、総大将などという大任は務まらないでしょう。
漢王様、よくお考えくだされ」
さらには、陳平まで進み出た。
「魏豹は、小さな才能なら持っていますが、大器ではありません。
大きな仕事を任せるには足りぬ人物かと」
さんざんである。
韓信や張良がいない今、劉邦の知恵袋といえば、この陸賈、酈生、陳平の3人だが、それが3人そろいもそろって低評価を下している。
それだけでも魏豹がどんな男なのか、想像がつこうというもの。
だが、やはり今の劉邦は、どこかおかしかった。
「いいや、そんなことはない。
魏豹は魏国の王孫で、人望があるんだ。
韓信が股を潜り、乞食して辱めを受けたのに比べれば、同列には語れないくらい優れているぞ。
魏豹を総大将に任命したら、それに服従しない奴は誰もいないさ!」
結局、劉邦は強引に魏豹を総大将に任命してしまった。
魏豹は喜んで任務を引き受け、人馬の点検を行ってから、彭城めざして、あらためて進発した。
*
さて、いよいよ彭城が間近に迫ってきた。
ここで劉邦は、陸賈を召し寄せて尋ねた。
「いま彭城を守っている大将は誰だ?」
陸賈が答える。
「彭越という者です」
劉邦は、グッと身を乗り出して、陸賈に、ささやく。
「口説けそうか?」
陸賈は、劉邦の意図を察して、小さくうなずいた。
「はっ……可能と思います」
「よし。じゃあ陸賈、お前は俺の書簡を持って彭城へ行け。
彭越を説得して、味方につけるんだ」
陸賈は、すぐに彭城へ向かった。
そして主将彭越に面会し、書簡を手渡した。
その書簡の内容は、こうである。
『漢王劉邦、手ずから書を記して彭越将軍の足下にお送りする。
項羽は好き勝手に義帝を弑逆した。これは人の道を外れた大逆である。
私は、すでに檄文を送って項羽討伐を天下に布告し、兵には縞素(白い喪服)を身につけさせ、義帝のために喪を発した。
私の決起を知った諸侯は、1人残らず同じ気持ちを抱き、私の決起を快く受け止めてくれた。
さて、彭越将軍は、鷹の如く天へ駆けあがる勇気と、大いなる志をあわせもっておられる。
それなのに、逆賊項羽などの臣となっているのは、彭越将軍の名の穢れというものだ。
彭越将軍、義によって我が漢軍に合流なされよ。
ともに逆賊を討ち、功をなして、名を史書に刻みたまえ。
さすれば貴公は万代続く新国家の元勲となり、子孫まで末永く王位や爵位を享受できるだろう。
立派な大丈夫の行動は、並の人間とは違っているものだ。私の勧めることこそ、貴公が為すべきことなのだ。
どうか、よく検討してみてほしい』
これを読んだ彭越は、限りなく喜んだ。
「漢王様が、心が広く仁義のある立派な人物だという話は、以前からよく聞いておりました。
その漢王様が、丁寧に書簡を送って招いてくださったのだ。
従わぬわけにはいきませんな!」
彭越は、すぐに部下に命じて、彭城の門を開かせた。
そして陸賈とともに、遠くまで劉邦を迎えに行った。
劉邦の前に来ると、彭越は、地上に拝伏した。
「臣彭越、彭城の守備兵3万を率いて漢に投降いたします。
願わくは、早く楚を滅ぼして、天下の苦しみを救ってくださいませ」
劉邦は、喜んで彭越を味方に迎えた。
*
かくして……
劉邦率いる56万の大軍は、1戦もすることなく、楚の本拠地たる彭城を占領してしまった。
劉邦は、総大将魏豹に命じて楚の反撃に備えさせ、自分は楚の後宮に向かった。
後宮に入ってみれば、蓄えられた財貨は山のよう。居並ぶ美女は色を競う花々のよう。
劉邦は、大喜びで酒宴を設け、軍の将兵を労った。
さて……
その後宮に、項羽の愛する美女、虞姫がいた。
旗挙げ直後の項羽が一目惚れして娶った、あの虞姫である。
(第五回参照)
容貌の美しきことは世に双りと無いほどで、その姿の艶やかさは傾国と呼ぶにふさわしい。
項羽が虞姫に向けた愛の深さは、尋常ならぬものだった。
それゆえ項羽は、斉攻略へ出陣するときにも、城へ残していく虞姫のことを大変に心配した。
そこで、虞姫の弟の虞子期という男に、
「くれぐれも頼む」
と言い残して、世話を任せたのだった。
当然、漢軍が雪崩込んできたのを見て、虞子期は慌てた。
「この城は、もうダメだ。
だが、私は劉邦などに降伏しないぞ。覇王様から恩を受けていながら、戦いもせず逆賊に降参するなんてのは、義を知る人間のやることではない。
どうにか姉上だけでも脱出させねば!」
虞子期は、近親者を呼んで準備をさせ、その夜、闇にまぎれて密かに虞姫と項羽一族を城から脱出させた。
虞姫の脱走は、すぐさま漢軍の知るところとなった。
漢の大将たちは、
「すぐに追いかけて生け捕りにしましょう!」
と立ち上がったが、劉邦は、笑って彼らを止めた。
「いいよいいよ、ほっといてやれ。
項羽の妻1人逃がしたところで、楚との戦争に影響があるわけじゃない。
それより、ここまでの長旅で、みんな疲れてるだろ。今は、ゆっくり休んで気力を溜めておこう。項羽を討つのは、その後だ」
そういうわけで、漢軍は、昼も夜も酒を飲んで楽しみはじめた。
これが、よくなかった。
総大将の魏豹は、もともと騒がしい性格で、仲のいい友達もいないような男だったのだが……
その欠点が、酒によって助長されてしまった。酔っぱらって兵士を無駄に鞭打ちし、大将たちを大声で罵り辱めはじめたのだ。
当然のことながら、みんな心中穏やかではない。
表立って口には出さないものの、将も兵も魏豹に少なからず恨みを抱き、命令に従わない者まで現れだした。
そのうえ、連日の酒宴である。
あれほど厳しく引き締められていた漢軍の軍規も、韓信を失ったとたんに緩んでしまった。
かくして56万の漢軍は、ただ数が多いだけの烏合の衆へと成り下がっていったのだった……
(つづく)
■次回予告■
本拠地彭城を奪われて怒髪天衝く覇王項羽。斉攻略は部下に任せ、みずから兵を率いて彭城へ帰還する。
ここにはじめて対決する龍と虎。かたや漢軍56万、こなた楚軍たったの3万。戦力比実に20倍、勝負にならぬと人は言う。だが刮目して見るがよい。中国史上最強の男が今、奇跡を起こす!
次回「龍虎戦記」第四十七回
『究極で最強で無敵の覇王』
乞う、ご期待!