虞子期は、夜に日を継いで斉国へ走った。
項羽の妻虞姫と、項羽の一族を連れての逃避行である。
虞子期は、どうにか斉にたどりつくと、すぐに項羽に報告した。
「主将の彭越が心変わりして劉邦に降伏し、彭城は漢軍の手に落ちました。
後宮の美人も財宝も、ことごとく劉邦に奪われましたが……
臣が、ひそかに覇王様ご一族と虞姫を守護して、夜陰にまぎれて城を脱出し、ここまで逃げて参りました」
覇王項羽は、すさまじい怒声を発した。
「な……なんだとォーッ!?
劉邦! あの野郎ッ!
好き勝手に武力を振るって俺の国を侵略しやがって! すぐに叩き潰してやる!
おい、龍且! 鍾離昧!」
「はっ」
「斉の討伐は、お前たちに任せる。このまま兵を率いて攻撃を続けろ!
俺は、みずから彭城に戻って、劉邦を生け捕る!」
「承知いたしました。
して、兵の数は、いかほど?」
項羽は吐き捨てるように答える。
「3万だ」
龍且と鍾離昧は、不安げに顔を見合わせた。
「は……しかし覇王様、斉と戦うのに、3万では、いささか心もとなく思います。
もう少し多めに残していただければ……」
「逆だ、逆」
項羽は、うるさい羽虫を追い払おうとするかのように、パタパタ手を振った。
「俺が3万だけ連れていく。
残りは全部お前らで使え」
「な、なんですと!?」
その場の全員、飛び上がって驚いた。
*
漢軍は、諸侯の兵力を吸収して膨れに膨れ、いまや総勢56万。
このすさまじい大軍へ挑むのに、たった3万の兵しか要らぬとは!
戦力比は、実に20倍近い。
常識的には、まるで勝負にならぬ差である。
だが項羽は、数の不利などまるで気にしていない様子で、風のように彭城へ接近していった。
そして彭城から30里(12km)離れたところに陣を置くと、劉邦へ向けて戦書を送った。
戦書、つまり挑戦状である。
*
戦書は、すぐに劉邦に届いた。
劉邦が開いてみると、その書に曰く……
『西楚の覇王、書を劉邦に送る。
朕は、汝を漢王に封じた。
そのため、汝は西方の土地を得て、10万の兵を帯び、安心して天からの俸禄を享受できるようになったはずだ。
それなのに、汝は限度というものをわきまえず、わがまま放題に非常識なふるまいをやり狂って、関中を侵略した。
だが、いい気になるなよ。
お前が降伏させた諸侯は、どいつもこいつも才能のない凡人ぞろい。
自分の国を守ることもできないような雑魚どもだ。
お前がここまで勝ち続けられたのは、弱い敵ばかりと戦っていたからにすぎない!
次は、この覇王が直々に相手してやろう。
その首を差し出して、朕の剣の切れ味を試してみるがいい。
1人たりとも生きて帰さん。
汝らは、釜の中で煮られるのを待つ魚のようなものだ!
さあ、早く出てきて朕と戦え!
いまさら後悔して逃げることなど許さんぞ!』
読み終えた劉邦は、顔をしかめた。
すさまじいというか、恐ろしいというか……項羽の憤怒の形相が目の前に見えるかのような、迫力満点の戦書である。
しかし、おびえてはいられない。
劉邦は、すぐに返書を認めて、挑戦を受ける旨を項羽に伝えた。
そして、総大将魏豹を呼び、決戦準備を命じた。
魏豹の指示によって、諸侯の軍勢の配置が決まった。
まず第1隊には殷王司馬卬。
第2隊には河南王申陽。
第3隊、常山王張耳。
第4隊には、漢王劉邦みずからが、その他もろもろの大将を率いて進む。
最後の第五隊は、総大将魏豹が大軍を統率し、後陣として備える。
司馬欣、董翳、劉沢の3将は、彭城に留まって、劉邦の父太公、妻呂后、2人の御子を守護するよう命じられた。
*
翌日……
漢軍は、早朝に彭城を出陣。10里(4km)進んだところに陣を置き、楚軍と対峙した。
両軍、真正面から睨み合い、天地を震わせんばかりに太鼓や銅鑼を打ち鳴らす。
楚軍の陣前には龍鳳日月の旗が立ちつらなっていたが、それが颯と左右に開けたかと思うと、その奥から堂々たる大将が馬を出してきた。
誰あろう、覇王項羽、その人である。
項羽は馬上から漢軍を一睨みし、声を張り上げた。
「劉邦! 出てこい! 俺と勝負しろッ!」
対して、
「漢王様に出ていただくまでもないわ!」
と漢軍の隊列から飛び出てきたのは、殷王司馬卬。
司馬卬《しばごう》は馬を走らせて項羽に駆け寄るや、鋭く戟を繰り出した。
が、項羽は槍を一振りし、子供をあやすように司馬卬の攻撃を払いのける。
「ふん、司馬卬か。
俺はお前を殷王に封じてやったじゃないか! どうしてその恩を忘れて謀反した!?」
司馬卬は笑って言い返す。
「私は義帝のために無道の男を誅殺し、天下の人々の恨みを雪ごうとしているのだ!
謀反だと? ちゃんちゃらおかしいわ!」
「なんだとォッ!?」
項羽、怒りの大喝一声。
そのすさまじい声量に、司馬卬の馬が驚き、おびえて後退する。
この隙を狙って項羽が槍を繰り出した。
司馬卬は慌てて刀を振るい応戦したが、項羽と司馬卬では技量も膂力も違いすぎる。
たちまち劣勢に陥った司馬卬は、馬を返して逃げ出した。
だが覇王項羽がまたがっているのは千里の俊足、龍馬烏騅。
風のように駆けて司馬卬に追いついた、かと思った時には、すでに覇王の槍先が司馬卬の背に食い込んでいた。
司馬卬が、うめき、馬から転げ落ちる。
その死骸を踏みつけながら項羽は前進し、楚兵たちに号令を飛ばした。
「敵将は討った! さあ、漢兵を襲い殺せッ!」
大将司馬卬を討たれた漢軍第1隊は、たちまち大混乱に陥った。
たった3万の楚軍が、数の上では遥かにまさる漢軍を、いきなり圧倒し始めたのである。
項羽率いる楚軍の猛攻に、みるみる切り崩されていく漢軍第1隊。
あわや壊滅、というところで、漢軍の第2隊が救援に駆け付けた。
その先頭に立つのは、河南王申陽である。
項羽は、鬼神の如き目で申陽を睨みつけた。
「お前もか、申陽! なぜ楚を裏切ったッ!」
申陽は、額に緊張の汗を浮かべて答える。
「漢についたのは私だけではない! 漢王様には仁徳がある。行く先々の諸侯が皆帰順して、膝を屈さぬ者なし、というほどなのです。
項羽殿! 貴公も降伏なされよ! 今ならまだ間に合う。漢王様は、きっと楚王の位を保障してくださる!」
項羽の額に、青筋が太く浮かび上がった。あまりに激しい怒りの形相に、顔面の筋肉がビシビシと音を立てるかのようだ。
「きっ……さ、ま……! 言うに事欠いて、この俺に『降伏しろ』だとォッ!? ふざけるなァッ!」
項羽は激怒し、怒りのままに槍を突き出した。
その猛烈な刃の雨を、申陽は右へ左へ必死にいなしながら、じりじりと後退していく。
「項羽殿! 私は貴公のためを思って降参を勧めているのだ! なのに、感謝するどころか逆に私を殺そうとするとは……どうしてそんなにバカなのだ、貴公は!」
と、そこへ漢軍のさらなる増援が駆けつけた。
常山王張耳が率いる第3隊である。
「申陽殿、助太刀するぞ!」
「おう、張耳殿! ありがたいっ」
申陽・張耳は項羽を左右から挟み込み、全身全霊を込めて猛然と攻め立てた。
だが、一体どういうわけだろう。それほど激しく攻撃しても、刃は項羽に、かすりもしない。
項羽の身のこなしが、あまりにも鋭すぎるのだ。
右かと思えば左にあり、前に見えたと思えば後ろにいる。駿馬烏騅を巧みに操り申陽・張耳を翻弄する、その動きはまさに神出鬼没。
しかも、項羽が繰り出す反撃の槍は、わずかの乱れさえ無く正確無比に申陽らの急所を狙ってくるのである。
申陽も張耳も、項羽を討ち取るどころか、猛攻を凌ぐので精一杯。
やがて2人は焦り始めた。
「なんという技量だ……
項羽の強さは知っていたつもりだったが、実際に敵として戦うと、これほどのものだったとは……
2対1ですら手も足もでないじゃないか。これでは……勝てぬ!」
と、申陽の脳裏に絶望がよぎった、その時。
項羽が虎の如く飛びかかり、稲妻の如く槍を繰り出す。
槍先が申陽の胸を貫通!
その衝撃で申陽は馬から突き落とされ、地面に転げ落ちて息絶えてしまった。
(つづく)