龍虎戦記 項羽vs劉邦【翻案・通俗漢楚軍談】   作:外清内ダク

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四十七の丁 究極で最強で無敵の覇王

 

 

 一方、(から)くも虎口(ここう)(のが)れた劉邦は、そこから一昼夜、息もつかずに走り続けた。

 体も疲れ、馬も弱り、もうこれ以上は一歩も進めそうにない。

 

 日も暮れてきて、そろそろ馬から降りて休もうかと考えていたところへ、背後から馬蹄(ばてい)の響きが聞こえてきた。

 雍歯(ようし)・丁公の軍勢。つまり追手(おって)である。

 

 劉邦は震え上がった。

「もうダメだ……今度こそ逃げられないぞ。

 捕まって残酷(ざんこく)拷問(ごうもん)を受けるくらいなら、いっそここで自害してしまおうか」

 

 だが、劉邦は、すぐに首を横に振った。

「いや! 自害なんて安易なことだ。それよりは、身を隠して、ギリギリまで生き残りに賭けよう」

 

 劉邦が周囲を見回すと、道端(みちばた)の草むらの中に、ひとつの古井戸があった。

 馬から降りて井戸をのぞき込むと、どうやら枯れ井戸のようである。

 

「よしっ」

 劉邦は馬の尻を叩いて走って行かせ、自分は枯れ井戸に飛び込んだ。

 そして、息を殺して身をひそめていると……

 

 雍歯(ようし)の軍勢が、枯れ井戸のそばにやってきた。

 だが、すでに日は暮れて時刻は夜。

 この暗闇の中では、草の中に隠れた井戸など、そう簡単に見つけられようはずもない。

 

 雍歯(ようし)は、井戸の存在には全く気付くことなく、そのまま飛ぶように通り過ぎて行ってしまった。

 

 やがて……

 あたりが静かになったのを見計らい、劉邦は井戸から地上へ()い上がった。

 周囲に()兵の姿は無い。

 

 探してみると、劉邦の馬が近くで草を食べているのが見つかった。

 これ(さいわ)いと馬に飛び乗り、劉邦はさらに2、3里ほど逃げて行った。

 

 時刻は、すでに深夜。ひどく腹が減り、体も疲れ果て、いよいよ劉邦は限界を迎えようとしていた。

 

 と、そのとき。

 遠くから犬の鳴き声が聞こえてきた。

 声のした方角を目を向けると、木立(こだち)の間に、ほのかな(あか)りが見える。

 

「人家だ! あの林の向こうに、きっと村か街があるに違いない!」

 劉邦は、ほっと安心して、(あか)りのほうへ馬を近づけていった。

 はたして、林を抜けた先には、大きな屋敷があった。

 その窓から、ゆらゆらと燈火(ともしび)の光が()れ出ている。

 

 劉邦は、九死に一生を得た思いで、屋敷の門を叩いた。

 

 すると、屋敷の中から、1人の老翁(ろうおう)鳩杖(はとづえ)を突きながら現れた。

 鳩杖(はとづえ)というのは、その名の通り先端に(はと)の飾りをつけた杖のこと。年老いた人物に、長寿の祝いとして贈呈(ぞうてい)される品である。

 

 さて、老翁(ろうおう)は、劉邦の姿を見て、目を丸くした。

 なにしろ、身なりが普通ではない。劉邦は、(くれない)色の(ほう)に、黄金の甲冑(かっちゅう)を身に着けているのだ。

 

「これは、ただの人ではないな。どこかの王侯に違いない」

 そう考えた老翁(ろうおう)は、すぐに劉邦を屋敷に(むか)え入れ、酒食を(すす)めて、もてなした。

 

 その席で、老翁(ろうおう)は劉邦に(たず)ねた。

「あなた様は、どちらの王公で?

 一体どのようなわけで我が屋敷を(たず)ねていらしたのです?」

 

 劉邦は答えた。

「俺は漢王劉邦だ。

 項羽と彭城(ほうじょう)で戦ったんだが、ボロ負けしてしまい、逃げる途中で道に迷ってここに来たんだよ」

 

 老翁(ろうおう)は、驚いて地に拝伏した。

「なんと! あなた様が、あの漢王様で!

 漢王様の仁徳(じんとく)は、天下に(あまね)く知れ渡っております。

 漢王様のご尊顔(そんがん)(はい)することができるなど、思いもよらぬ光栄。喜びにたえませぬ」

 

 老翁(ろうおう)は、そこから酒席を整え直し、さらに慇懃(いんぎん)に劉邦を、もてなした。

 

 劉邦は深く感謝して(たず)ねた。

「ご老人、お名前を聞かせていただけないか」

 

 老翁(ろうおう)は答えた。

「臣の(うじ)は、(せき)でございます。

 この村には6、70の家がありますが、その多くは臣の一族。それゆえ村の名も戚家(せきか)(そう)と申します。

 先祖がこの地に住み始めて、臣でもう5代目になります」

 

「そうかそうか。ところで、(せき)老人は、お子さんはいらっしゃるのか?」

 

「ただ1人だけ女子がございまして、今年18歳になります。

 かつて人相(にんそう)占いの達人の許負(きょふ)という人が、娘の人相(にんそう)を見て、こう言いました。

 『この娘は、後々かならず高貴(こうき)(くらい)に登るだろう』と。

 今日、漢王様が我が屋敷にいらっしゃって、許負(きょふ)の予言の意味が分かりました。

 漢王様。臣の娘を漢王様のおそばに仕えさせたいと思うのですが、いかがでしょうか?」

 

 劉邦は、慌てて手を振った。

「いやいや! 俺は(いくさ)に負けてきた落ち武者だよ。

 ただ今夜一晩(ひとばん)ぐっすりと眠らせてもらえれば、それだけで十分。

 娘さんを妻に、だなんて、そんなことまで望めるもんか!」

 

 しかし老翁(ろうおう)は、娘を呼び出して、強引に劉邦と対面させた。

 

 劉邦は……(せき)氏の娘を見て、呆然(ぼうぜん)とした。

 美人である。絵に描こうとしても筆が負けてしまうほどの美人である。

 金翠(きんすい)化粧(けしょう)は優雅かつ(しと)やか。

 桃の如き顔は()びを含んで妖艶かつ(たお)やか。

 

 性根が好色な劉邦には、耐えられぬほどの美しさであった。

 

 劉邦は内心(ないしん)非常に喜び、自分の玉帯(ぎょくたい)(ほど)くと、婚約の引出物(ひきでもの)として老翁(ろうおう)(たまわ)った。

 老翁(ろうおう)は深く頭を下げて玉帯(ぎょくたい)を受け取り、さらに劉邦に酒を(すす)めた。

 

 劉邦は、思わぬ美人との出会いに浮かれて大いに酔い、夜更(よふ)けごろ、(せき)氏とともに(ねや)に入っていったのだった。

 

 

   *

 

 

 翌日。

 劉邦は早朝に目を覚まし、別れを告げて屋敷を()とうとした。

 

 (せき)老翁(ろうおう)は、劉邦を引き止めた。

「漢王様が敗戦なさらなければ、臣の家をお(たず)ねになることも無かったでしょう。

 

 臣は、もう年老いております。もう二度とお目にかかれないやもしれません。

 こんなに早くお別れするのは、(しの)びのうございます……どうか、もう数日ご逗留(とうりゅう)なさいませ」

 

 劉邦は、首を横に振った。

「気持ちは(うれ)しいが、のんびりもしてられないんだ。

 漢の兵は四方に乱れ散って、文武の大将たちも行方(ゆくえ)が分からない。

 

 はやく敗軍の将兵を招き集め、新しい拠点を決めなきゃいけない。

 それが済んだら、近い内に必ず娘さんを正式に(めと)りにくるよ」

 

 こう言われては、(せき)老翁(ろうおう)も、もう引き止めることはできなかった。

 劉邦は馬にまたがり、戚家(せきか)(そう)から出発した。

 

 さて、そこから南へ10里ほど進むと……

 前方から、人馬の一団が土煙(つちけむり)をあげて近づいてくるのが見えた。

 

 劉邦は、(おび)えて身を震わせた。

「またか! どうしよう……まず隠れなきゃ!」

 劉邦は、あわてて道の脇の林の中へ逃げ込んだ。

 

 相手の軍勢は、猛烈な勢いで、こちらへ駆けてくる。

 一体何者だろうか? と、劉邦が目を()らしてみると……

 

 その軍勢が、よく見知った旗印を(かか)げているではないか。

 あれは漢軍の功臣、夏侯嬰(かこうえい)の旗である。

 

 劉邦は、飛び上がって喜んだ。

「おーい、夏侯嬰(かこうえい)! 俺だ、劉邦だ! こっちだよー!」

 

 

(つづく)

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