夏侯嬰は、すぐに劉邦に気がついて、そばに駆け寄ってきた。
「おおっ、漢王様! ご無事でしたか!」
劉邦は、ようやく味方と合流できた安心感で、涙ぐみながら言う。
「お前こそ、よく生きていてくれた!
あの戦場から一体どうやって脱出したんだ?」
夏侯嬰は、悔しげに歯噛みした。
「は……
司馬欣と董翳が、突然心変わりして、大公や呂后を捕らえ、敵を城中に引き入れたと耳にしまして……
臣は、ご一族を救出しようと、彭城に飛び込み、命を捨てて戦いましたが、力およばず……
しかたなく、ただ1騎で城の西門から脱出すると……
敵が漢王様の御子お2人を馬に乗せて走っているのに出くわしました。
臣は、その馬を追いかけ、近づく奴ばらを数しれず斬殺し、どうにか御子をお救いしました。
それから周囲の敗軍をかき集めると、千人ほどの数になりましたので、その兵で御子を守護して東南の小道から逃走したのです。
今にして思えば、無事に生きのびられたのも、漢王様に出会えたのも、まったく運が良かったとしか言いようがありませぬ」
劉邦は、話を聞くと、おいおいと泣きだした。
「夏侯嬰よ! お前の勇気のおかげで、俺の子供たちは無事に助け出せた……
でも、親父や妻が敵に捕らえられて、生きているかどうかも分からない……
こんなんじゃ、子供だけ助かったって、どうにもならねえよー!」
この泣き言を、夏侯嬰はピシャリと、たしなめた。
「漢王様! それは違います!
跡継ぎこそが、天下の根本なのです。
地位や財産を子々孫々に伝えてこそ、いまを戦う我らの生きざまも価値を持つというもの。
たとえ漢王様が天下を掴みなさっても、それを継がせる子がいなければ、まるで子供の遊びのようなものではありませんか。
そんな嘆き方をなさいますな!」
劉邦は涙を拳で、ぬぐい取った。
「……そうだな。取り乱してすまなかった、夏侯嬰」
そして劉邦は、2人の御子を呼び寄せ、こう言った。
「いいか。夏侯嬰将軍が、乱戦の中から命を懸けてお前たちを救ってくれたんだ。
この恩を、決して忘れるんじゃないぞ」
夏侯嬰は、この言葉を聞いて、感激のあまり地に拝伏した。
「過分なお言葉です!
漢王様ご自身の福運が無ければ、とても御子を救い出すことはできなかったでしょう。
これは臣の功績ではございませんよ」
劉邦は、顔をクシャクシャにしながら、夏侯嬰へ微笑んだ。
「謙遜するな。本当によくやってくれた……この功績、忘れないよ、夏侯嬰」
*
その後、劉邦と夏侯嬰は汴河(彭城の西方に当時あった川)の東に陣を取り、兵糧を使って休息をとった。
そこへ、兵が駆けてきた。
「ただいま、汴河に沿って、軍馬の一団がおびただしく土煙をあげながら接近しております!」
劉邦は、鷹揚に言った。
「慌てるな! きっと味方が救援に来てくれたんだ」
何を根拠にそう判断したのかは分からないが、結果的に劉邦の言う通りであった。
近づいてくる軍勢をよく見れば、先頭に掲た旗の色は、漢の紅。
さらに、「興劉破楚大元帥韓信」と大きく書きつけてある。
その後ろには、「司徒張良」と書かれた旗まである。
劉邦は大喜びで、夏侯嬰と一緒に味方の軍勢を出迎えた。
その軍勢の中からは、張良と陳平の2人が現れて、劉邦の前に拝伏した。
劉邦は、嬉しさに声を弾ませながら訊ねる。
「張良先生! 陳平! 会えてホッとしたよ! それに韓信も助けに来てくれたんだな?」
張良は、静かに首を横に振った。
「いいえ、韓信はおりません。
臣は、漢王様が大敗して行方知れずになったと報告を受け、兵を動かすために韓信大元帥の旗を借りて、救援に参ったのです。
道の途中で、同じく救援に向かっていた陳平と出会い、一緒にこちらへ駆けつけた次第」
劉邦は、フッと表情を曇らせた。
「ありがとう、張良先生……
でも俺は、先生に合わせる顔が無い。
張良先生は、何度も俺を諌めてくれた。なのに俺というバカ野郎は、先生が言ってることを理解できず、無駄に兵馬を失ったうえ、一族まで敵に捕らえられてしまった……
本当に俺はバカだった!
魏豹を総大将に任命したことも、そうだ。
魏豹は、知恵も無いし才能も乏しいし、軍を治めるにも全然紀律を保てていなかった。
あいつに大役を任せたせいで、56万の兵が、たった1日で半分も殺されてしまったんだ!
どうして俺は、あんな判断をしてしまったのか……悔やんでも悔やみきれない!」
張良は穏やかに微笑した。
「ご心配なさいますな、漢王様。臣に深く計略がございます。必ずや、ここから挽回してみせましょう。
さしあたり、この場所に陣を置くのは良くありません。
背後に大河がありますから、もし敵の軍勢が追って来たら、逃げ場が無くなってしまいます。
まずは、すみやかに移動して、滎陽城にお入りなさいませ。
そこで再び諸方の軍勢を呼び集め、韓信に統率させるのです。
さすれば、睢水の恨みを雪ぐことができましょう」
「分かった。そうしよう」
劉邦は、張良の勧めに従って、滎陽城へ向かった。
滎陽は、彭城からは遥か西。洛陽から見ると、やや東に位置する。
楚と漢の勢力圏の、ちょうど境目あたりに位置する城である。
劉邦が滎陽にたどりつくと、城の守将の韓日休は、城を出て劉邦を迎えた。
劉邦は、喜んで城に入り、味方の敗残兵が合流してくるのを待った。
それから数日の間に、樊噲、周勃、王陵ら、主だった大将たちが、無事に滎陽へ落ち延びてきた。
それぞれが5千、3千といった兵を引き連れていたから、徐々に兵力も増してきた。
そうした中、ひとり青ざめていたのが、総大将の魏豹であった。
魏豹もまた、どうにか生きて滎陽へ逃げ込むことができたのだが、そこで魏豹を待っていたのは、劉邦からの大叱責であった。
「魏豹ッ!
汝は、全軍をまとめる総大将の重役にありながら、みだりに酒を過ごし、楽しみに耽って軍務を怠り、その結果、こんな災いを引き起こしたんだッ!
俺はもう首を刎ねてやろうかと思ったが、他の大将たちが命乞いをするから、首だけは預けておいてやる!
だが、総大将は解任だ! さっさと魏国へ帰っちまえ!」
魏豹は恐れおののき、すぐさま元帥の印章を返還し、魏の都平陽へと逃げ去っていったのだった。
(つづく)