楚の都、彭城。
一度は漢軍に占領されながら、覇王項羽の怪物じみた武勇によって、たちまち奪還された城である。
この彭城に、楚の大将の丁公と雍歯が帰還してきた。
彼らは、項羽に謁見して報告した。
「臣ら、漢王劉邦を捕らえよとのご命令を受け、昼夜を分かたず追跡いたしましたが、劉邦は、はるか遠くまで落ちのびてしまい……
力およばず、ご命令を果たせぬまま引き返して参りました。申し訳ございませぬ」
項羽は、いつものように激怒する……かと思いきや、意外にも、
「ふーん、そうか」
と、つまらなそうに流しただけであった。
そばにいた老軍師范増が、項羽に近寄って言う。
「覇王様。また劉邦のことを軽くみておられますな?
今回、劉邦は前代未聞の大敗をいたしましたが、それはすべて漢軍総大将の魏豹1人のせいなのです。
この魏豹という男、元来才も無く、計略も少なく、実績も実力も無い輩。
にもかかわらず、劉邦は判断を誤り、魏豹を大任に就けてしまった。
それが、この大敗の原因です。
しかし、韓信は今もなお咸陽にて健在。
軍馬を養い、兵糧を山の如く貯えております。
臣が予測するに、漢王は、睢水での敗北の恨みを晴らすため、日ならずして再び軍を起こし、攻め寄せてくるでしょう。
そのとき漢軍を指揮するのは韓信。魏豹が如き無能の輩とは、わけがちがう。
覇王陛下。決して敵を侮ってはいけませぬぞ!」
しかし項羽は、カラカラと笑うばかりだった。
「また始まった! どうして亜父は、いつもそんなに奴らを恐れるのかな。
韓信は、以前は楚に仕えていたんだ。奴がどの程度の男か、俺はよく知ってるよ。
もし韓信がそれほどの男なら、今回、劉邦と一緒に彭城へ来て、睢水での敗北を防いでいたはずだろう?
それができなかったってことを見ても、韓信に大した智謀が無いことは明らかじゃないか」
これを聞くと、范増は口をつぐんでしまった。
確かに今回、項羽は歴史に残るほどの大勝利を収めた。
だが、この勝利は、いささか鮮烈すぎた。
たった3万でも、56万の漢軍を蹴散らしてしまえた……その事実のために、項羽は完全に劉邦を甘く見てしまったのである。
一度こうなると、何を言っても聞きはしない……
そういう項羽の性格を痛いくらいに理解している范増は、諌言する意義を見失ってしまったのだった。
*
さて、ちょうどその時、外から報告が入ってきた。
「司馬欣・董翳の2人が、漢王劉邦の一族を縛って、連れてまいりました」
司馬欣・董翳といえば、かつて秦帝国に仕えていた名将である。
それが、項羽との戦いの中で追いつめられ、秦を離れて楚に帰順した。
その功績によって三秦の王に封ぜられたが、韓信率いる漢軍に攻め立てられ、窮地に追い込まれ、今度は漢に降伏。
そして今、三度の裏切りで、漢から楚へ戻ってこようとしているのだ。
項羽は、すぐに司馬欣・董翳に対面した。
2人の顔を見るなり、項羽は城が揺らぐほどの声で叱りつけた。
「汝らァッ!
俺は、汝らを三秦に封じて、漢の侵攻を防ぐ第一の守りとした!
だが、廃丘城が敵に包囲されたとき、お前らは救援にも行かず、みすみす章邯を見殺しにしたそうじゃないか!
あまつさえ敵に降参し、俺の三秦を漢に渡してしまうとは!
そのくせ、劉邦が負けたとたん、また手のひらを返しやがって!
お前らには節操ってもんがないのか!
頭にあるのは自分の保身だけか!?
何度裏切りを繰り返したら気が済むんだ、この小人めッ!
お前らなんか、部下として用いる価値もない!
おい、さっさとこいつらを門の外に引き出して、誅殺しろッ!」
司馬欣と董翳は、顔面蒼白となった。
だが、彼らを弁護してくれる者は……もう、誰もいない。
兵士たちは、司馬欣・董翳を外に連れて行き、たちまち首を刎ねてしまったのだった。
*
それから項羽は、劉邦の一族を連れてこさせた。
項羽は、劉邦の父太公に向かって言った。
「あんたが劉邦の親父さんか。
あんたの息子の劉邦は、もともと泗水のほとりの亭長だった。
それを、この俺が封じて漢王にしてやったんだ。
その職分を守り、俺に対して恩を感じるべきなのに、劉邦は兵を起こして関中の地を掠め取りやがった。
昔から、謀反人は九賊を滅ぼすものと決まってる。
気の毒ではあるが、まあ、恨むんなら自分の息子を恨むんだな」
項羽は、兵士に命じて、太公ら劉一族を処刑させようとした。
そこへ、范増が慌てて飛び出し、諌めた。
「いや、お待ちを!
劉邦は、今回大敗したとはいっても、韓信は関中にあり、軍勢もまだ雲霞の如く残っております。
ここは、劉邦の一族を生かしておき、人質といたしましょう。
自分の父や妻が人質になっていると知れば、劉邦は、たとえ攻めてきたとしても、そう簡単には決戦を挑んでこられないはず。
逆に、今ここで劉邦の家族を殺してしまったら、敵はますます恨みを抱き、命を捨てて襲い掛かってくるでしょう。
その時になって後悔しても、どうにもなりませぬ」
項羽は、腕を組んで考え込んだ。
「ふーん……なるほど。そうかもしれないな。
じゃあ、殺すのはやめよう。
虞子期! 劉邦の一族は、お前に預ける。人質として大事に守ってやれ。
俺は、斉討伐の方に戻る!
今度こそ斉の逆賊どもを叩き潰してやるぞ!」
*
そのころ、斉王の田広は、長期間に渡って楚の大将龍且・鍾離昧に包囲され、疲れ切っていた。
兵糧も次第に乏しくなり、困窮していたところに、こんな報告まで舞い込んできた。
「覇王項羽は、漢の大軍を破り、威勢ますます盛んになって、斉へ戻ってきております!」
事ここに至り、ついに斉王田広は降参を決断。項羽に対して忠誠を誓った。
こうして、斉の反乱は治まった。
項羽は喜んで軍を撤収させ、ふたたび彭城に帰還していったのだった。
(つづく)