一方、漢王劉邦は、滎陽城に軍を駐屯させ、諸侯の軍勢を再び招き集めることに力を注いでいた。
彭城での大敗北によって一度は散り散りとなった諸侯も、少しずつ劉邦の元へ帰って来た。
まだ元通りとはいかないが、徐々に漢軍の勢力は盛り返してきている。
そんなおり、劉邦は張良を呼んで、相談をもちかけた。
「なあ、張良先生。
味方の軍勢が、だいぶ大きくなってきたけど、それを統率する者がいない。
このままだと、何か異変が起きた時に対応できない。
だから、韓信を再び大元帥にして全軍を任せたいんだが……
以前に韓信から大元帥の印章を奪ってしまって、その後、韓信からは一度も連絡がないんだ。
このあいだの大敗北の時だって、とうとう韓信は助けに来てくれなかった。
これ……やっぱり、韓信、怒ってるよなあ……?
先生、どうしたらいいと思う? 何をしたら、韓信がまた俺に会いに来てくれると思う?」
張良は、穏やかに微笑した。
「それでしたら、何も難しいことはございません。
この私が咸陽に行って直接話せば、すぐに韓信は戻って参りますよ。
ただ、惜しむらくは……
韓信の他にも2人の名将がおりますのに、漢王様は、彼らを御存知ない」
劉邦は、身を乗りだした。
「えっ? その2人って誰のこと? 先生、教えてくださいよ!」
張良が答える。
「彭越。
そして英布。
この2人でございます」
劉邦が目を丸くした。
「彭越と英布ゥ!?」
「はい。
この2人を味方につけ、韓信と共に敵を討たせれば、天下を得ることは手のひらを裏返すよりも簡単になりましょう」
「いやいや……張良先生、ちょっと待ってくれよ。
彭越のことなら、確かに分かる。
彭越は、以前にこちらへ帰服してきた。俺が大敗した後は、梁の国に逃げ込み、そこで兵を整えて機会を待っているらしい。
だから、使者を送って招けば、きっとまた味方についてくれるだろう。
しかし英布といえば、項羽の旗揚げ直後からの功臣だ。
武勇は楚軍第一、項羽とは『つうかあ』の仲で、九江王に封じられたほどの男。
言ってみりゃ、項羽の右腕みたいな奴じゃないか。
その英布が項羽を裏切って俺につくなんて……そんなこと、ありえるかあ?」
張良は、静かに、うなずく。
「おっしゃるとおり……
しかし、その『右腕』が『頭』と不和を抱えている、と聞けば、いかがです?」
「えっ、そうなのか?」
「以前、漢王様の大公と呂后を救出するため、王陵を潜入させたことがあったでしょう。
あのとき、英布は漢王様御一族を奪い返すよう命じられましたが、その任務に失敗しました。
そのため項羽は激しく怒り、英布をさまざまに罵り辱めたとか。
(第四十三回参照)
それ以来、英布は領国の九江に帰ってしまい、項羽からの出兵要請も拒んでおります。
臣の調べたところでは、項羽に対して謀反を企てている気配まであるとか……
今、弁舌の人を派遣して利害を説かせれば、英布は必ず味方につくでしょう」
劉邦は、目を輝かせて立ち上がった。
「よし!
じゃあ、使者は随何がいいだろう。おい、誰か随何を呼んでくれ!」
随何は、劉邦に仕える優れた弁舌の士。
しかも英布と同郷の六安出身である。この役目には最も適任と言える。
随何がやってくると、劉邦は、こう命じた。
「おう随何。汝に重大な仕事を任せたい。
九江に行き、英布を説得して漢に帰服させるんだ!」
「はっ! お任せあれ!」
随何は力強く請け合って、従者とともに九江へ旅立っていった。
*
随何は、九江に到着すると、すぐに英布の宮殿を訪ねた。
「六安の随何、九江王英布様の威名を慕い、ここまでやってまいりました。
拝謁をお許しいただきとうございます」
門番からの報告は、すぐに英布のもとに届いた。
英布は、腹心の謀士費赫を呼んだ。
「費赫よ。随何が俺を訪ねてきたそうだ。
目的は何だと思う?」
費赫は答えた。
「これは、漢王劉邦の差し金でしょう。
劉邦は先ごろ大敗し、大きく勢力を減らしました。
このままでは覇王項羽と戦うことができないため、随何を説客として、英布様を味方につけようとしているのです。
ここは随何との対面を避け、そしらぬ顔で普通のもてなしだけして帰らせるのが良いでしょう」
「よし」
というわけで、英布は人をやり、随何にこう伝えさせた。
「英布は、このところ病に伏せっており、対面できません。
今日のところはお帰りいただき、病の癒えた頃に、またお越しください」
随何は、この伝言を聞いて、すぐにこう察した。
「これは費赫の入れ知恵か。
どうやら、まず費赫を説得せねば、英布に会うことはできないようだな」
随何は、いったん英布の宮殿を立ち去ると、日を改めて費赫《ひかく》の屋敷に向かった。
*
随何は、費赫の屋敷の前まで来ると、門番に告げて言った。
「私は随何と申す者。費赫殿にお会いしたい」
その旨を門番から伝えられ、費赫は目を細めた。
「そうか……随何め、英布に会えないから、まず私を口説きに来たんだな。
よかろう、受けて立ってやる」
費赫は、みずから随何を出迎え、奥の堂に招き入れた。
お互いに型通りの礼を済ませたところで、費赫が冷たく問う。
「それで、随何殿。
私のところへ来て、一体何を説くおつもりか?」
対する随何は、立て板に水を流したような勢いで語りだした。
「これは心外な。
それがしは、もともと六安の人。
ずっと故郷を思っておりましたが、軍務の忙しさに、帰省する暇が取れませんでした。
ところが、漢王様が滎陽に軍を置かれてからというもの、しばらく戦が起きておりませんから、諸将はみんな故国に帰りました。
そこで、それがしも六安へ帰り、父母の墓を拝もうと思ったのです。
その道の途中で、ここ九江を通りかかりました。
私は、前々から九江王英布様の威勢と人徳を慕っておりました。
それゆえ、この機会に一目お会いしたいと考えて宮殿を訪問いたした次第。
ところが、英布様は、私を漢の説客ではないかと疑い、仮病を使って謁見を拒みなさった。
しかたがないので、このまま立ち去ろうかとも思いましたが、それでは英布様のお疑いは解けぬままになってしまいます。
それは、あまりにも悲しい……
そこで、費赫先生にお願いにあがりました。
どうか、私が説客ではないことを英布様に伝えて、疑いを解いていただけませんか?
英布様は、座ったままで九江を治め守り、うやうやしく四方の賢人を求めておられる。まことに当代の明主と呼ぶべきお方です。
この天下に、英布様の人徳を仰がぬ者がおりましょうか?
しかも、費赫先生が常に左右へ侍り、見事に輔弼しておられます。
しかし……
英布様の義を慕って来た私を、疑って追い返しなさる……
これは、人材を敬う態度ではありませぬ。
世の賢士がこのことを耳にすれば、誰も英布様に仕えようとはしなくなるでしょう。
加えて、費赫先生も、輔弼の役目を果たせなかったと、人から謗られることになりましょう」
費赫は、返答に窮してしまった。
『説客ではない』という随何の言葉は、とうてい信じられるようなものではない。
だが『わざわざ会いに来た賢士を門前払いにした』などという噂が立つのも困る。
国を運営していくには、一にも二にも人材が大事。
中国各地に散らばる賢士たちは、仕えるに足る主を求め、王侯の評判や言動へ常に目を光らせているのだ。
一度悪評が広まれば、訪ねてくる賢士の数が激減するような事態も考えられる。
悩んだ末、費赫は、こう答えた。
「……分かった。随何殿、今宵は当家にお泊りなさい。
明日、私から英布様に奏上し、謁見の機会を作っていただこう」
そして、費赫は酒宴を開いて、もてなそうとした。
だが随何は、礼を述べつつも、丁重に断った。
「それがし、まったくの下戸でございまして……お気持ちだけ、ありがたく頂戴しておきます。どうぞお構いなく。
明日、英布様に一目お会いすることさえできれば、それだけで、それがしは満足でございます」
「さようか……」
というわけで、随何は客室に通され、そこで一夜を明かしたのだった。
(つづく)